5.31 (土)17:40
「なーにやってんだ?」
「うぉっ!?」
その声に気づくまもなく、首筋に伝わる冷たい感触に真央は間抜けな声を上げた。
「何すっだ……って……」
振り向く真央、その視線の先には――
「も、桃ちゃん……」
「はい」
桃は、真央の首筋に当てた缶コーヒーをその手元に差し出す。
「あの後急に姿を消しちゃうんだからさ。皆心配してたぞ」
そして桃はその隣に座り、コーラのペットボトルの蓋を切る。
しゅう、心地よい音が鳴る。
そして、その琥珀色を一口流し込み、ふう、と小さくため息を漏らす。
「……よく俺がここにいるって分かったな」
かちり、真央も缶コーヒーのプルトップを引く。
「なんとなく、だよ」
二人は、夕暮れ近い河原をなでるようにして吹く風に身を任せた。
「一応皆で手分けして探そう、ってなってさ。まあ、あたしはそんな必要ないって言ったんだけど」
その言葉に、真央はぐじぐじと頭をかいた。
「すまねーな。また迷惑掛けちまったみてーだな」
「いつものことさ」
桃は目を閉じ、そして小さく口元に微笑を浮かべた。
「なんとなく、こんなことになるんじゃないかなって気はしていたしさ――」
――
「綾子。俺ぁ――」
関東大会の第一回戦、穏やかに微笑む綾子の前に真央は立った。
「俺ぁ――」
真央の痛いほどの視線も、綾子の深く済んだ視線は受け入れの見込んでいく。
無言の時間が流れた。
すると――
「へっ」
級に真央は、いつもの不遜な、ふてぶてしい笑顔へと変わった。
「なぁに本気にしてやがんだよ」
「マー坊君?」
「真央さん?」
その急激な態度の変化に、菜緒も葵も混乱の表情。
「誰がてめーみてえな女に本気になるっつううんだよ」
その不適な微笑のまま、真央はもしゃもしゃと頭をかいた。
「俺ぁ神埼の虚弱野郎と違ってまともに相手んなる奴なんかいねえからよ、ほんの少しでもあのやろうが俺に食らいつける位に力引き出してやろうと思った、ただそれだけの話なのによ。なにマジになってやがんだ?」
「あらあら」
驚いた表情の中にも、どこかおどけた様子で綾子は目を丸くした。
「ほうだったんね。うちら、皆騙されてしもうたわ。なかなかの策士じゃね」
「しっかし、それでも俺の楽勝だったからよ、まったく無駄なことしちまったぜ」
真央は腕を組むと、自信に満ち溢れた様子でうんうんと、わざとらしく頷いた。
「ってことだ。もうてめーなんかに用はねえよ。せいぜいあのションベンガキと一緒に、あの虚弱ヤローを慰めてやってくれや。ぎゃはははは」
「ほうね。勝ったのはまーちゃんじゃけ、うちはそれに従わせてもらうわ」
そして相変わらず穏やかだが、芯の強さを覗かせる微笑を見せた。
「けんど実を言うと、うちはちょっとだけ揺らいでしもうたんよ」
「あ?」
「久しぶりにおうたとき言った言葉に、嘘はないんよ」
そういうと綾子は、真央の頬に優しく手を触れさせた。
「まーちゃんは、大人になった。ほんで格好よう、男らしゅうなった。ほんで――」
そして少しだけ首をかしげるようにして、柔らかい微笑を真央に向けた。
「――強うなった。あの兄貴の背中ばっか追っかけとったちっちゃな子が、ほんに、ほんに大きゅうなった。うちは、それが涙が出るほどに嬉しいんよ」
「綾子……」
「ええ男になったの、まーちゃん」
「……く、くっ」
その言葉に、真央はぐっと喉を鳴らすと、何かを振り払うようにして声を張り上げた。
「くだらねえ事言ってんじゃねえ! さっさといけや! 神埼のところでもどこへでもよ!」
「ほうね、そうさせてもらうわ」
そういうと綾子は、聖エウセビオの面々に小さく頭を下げた。
「ほいじゃの。また」
そして、真央の元を去り、聖エウセビオの面々の前を、綾子が通り過ぎようとしたその時――
「綾子!」
振り返ることも泣く真央は叫んだ。
「はいな」
その言葉に、綾子は歩みを止め振り返る。
「今お前、幸せか?」
振り絞るような真央の質問に
「ええ」
綾子は一瞬の躊躇もなく答えた。
「きっといまうちは、この世界の誰よりも幸せよ。うちには……うちには桐生がおるけ」
その言葉を口にすると踵を返し、足早に上毛商業高校の控え室へと歩みを進めた。
「マー坊君……」
「真央君、あの……」
菜緒と葵が、何かを言いかけるが
「悪ぃな」
真央は背中を向けたまま、頭をもしゃもしゃとかいた。
「さすがに疲れたからよ、先に帰らせてもらうわ。後よろしくな」
聖エウセビオの面々は、その背中を見送るより他なかった。
そして荷物をまとめて宿に帰ってみれば、真央の姿はどこにも見えなかった。
――
「へっ、またまたお見通しだったってわけか」
真央は両手で体を支えると、夕焼けに色づく空を見つめた。
「かなわねえな」
「まあね」
桃は手元に転がる石ころを拾うと、川面に向けてそれを放り投げた。
「まあ、あたしもしゃくだけどね。女のくせに男の気持ちってのがわかってしまうってのもさ」
「そんなに俺ぁシンプルかよ」
顔をしかめてむっとする表情の真央に
「そうは言ってないさ」
桃は穏やかに笑う。
「君だって、君なりに考えた上での、この決断なんだろうしね。だって君、あんなこと言ったけど――」
そしてその肩に手を乗せ、口を開いた。
「本当は、大好きなんだろ? 綾子さんのことが、今だって」
「桃ちゃん……」
「わかるさ。だから、今の気味の気持ち、隠さなくていいから。少なくとも、あたしの前では」
その言葉が耳に届いた瞬間――
真央の方が小さく、小刻みに震えた。
そしてその大きな両目からは、ポタリ、ポタリと大粒の涙がこぼれ始めた。
「……も、桃ちゃん、俺ぁ……」
「いいんだよ。君がどんなに強いからって」
桃は微笑み、そして指で真央の両目の涙をぬぐう。
「泣いたっていいんだ。少なくとも、あたしの前では、好きなだけないてくれたってかまわないから」
「……ひっ、ひっ、ひっ……ぐうっ……」
真央は、泣いた。
顔をくしゃくしゃにして。
およそ何年ぶり蚊の涙が、その精悍な頬を伝っては落ちる。
「……桃ちゃん……」
そして、幼子が母親にすがりつくように、真央は桃に抱きついた。
桃はそれに抵抗することなく、子の大きな子どものなすがままに任せた。
真央は、涙も枯れ尽くさんばかりの勢いで、桃の胸の中で泣きじゃくった。
「……お、俺、俺だって……」
「わかってるさ」
桃は、そのくせの強いの髪の毛を優しくなでる。
「君は、君自身が一番よく知っていたんだろ。綾子さんと神崎さんは、もうどうしようもないくらいに強い絆で結ばれてるってことを。けど、君ももうどうしようもないくらい綾子さんが好きで、その気持ちを抑えることができなかったんだよな」
桃の胸の中で、真央は何度も頷く。
桃の胸元は、真央の涙と吐息で熱くむせ返るようだ。
「けど、君はそれを受け入れた。綾子さんの気持ちとその幸せを最優先に考えたから。君の選択は、間違っちゃいない。そんな君に愛された綾子さんは――」
そして桃は、自分の胸元になきじゃくる真央の背中にやさしく手を回した。
「――きっと世界で一番幸せな女の人だよ」
――
「すまねーな、また迷惑掛けちまった」
ようやく落ち着いた真央は桃の胸元から体を離し、ややぬるくなった缶コーヒーに口をつけた。
「なんか俺、格好悪いよな」
「そうだね、確かに格好悪いね。けど――」
ぷしゅう、コーラのペットボトルの蓋を開けると、炭酸が勢いよくその口から漏れた。
「――そんな君は、世界で一番格好いいよ」
「よせや、わけわかんねー事いうの」
真央は、混乱しながらも照れたように頭をかいた。
「ま、結局今回は俺の独り相撲だったってことかな」
「今回も、だろ」
桃の笑顔が、真央の照れ笑いに答えた。
「いっつも君はそうさ。自分で勝手に手拍子叩いて、自分だけのリズムを刻んで、そして自分だけのステップを踏んで踊るんだ。君はいつも一人で、自分自身とダンスを踊るのさ」
「はっ、ちげーねーや」
真央は、何かを吹っ切ったかのような、大きく心地の良い笑顔を浮かべた。
「よっしゃ、もうなんもかんも終わりだ終わり! とっとと関東優勝して、インターハイ出場に花を添えたらあ!」
「帰ろう、宿に」
桃は立ちあがり、そして真央に手を差し出した。
「皆待ってる。奈緒も葵も、川西君もレッド君も。岡添先生だって」
ニイ、真央は笑ってその手に答える。
「へっ、つくづく女にしとくのがもったいねーぜ」
「いってくれるじゃん」
桃は軽々と真央の体を引き起こした。
「……あのよ……お願いがあんだけどよ……」
「なんだい?」
「あー……んと、さ、もしさ」
「うん」
「俺が……世界チャンピオンなって引退しても一人だったらよ……釘宮家で、桃ちゃんたちと一緒に暮らしても、いいか、な?」
「バカだな君は。プロポーズでもあるまいし」
桃は呆れたようなため気をついた。
「ま、さすがに生活費くらいは入れてもらうけど、ご飯くらいは作ってあげるから」
「ほ、ほんとか?」
「ああ」
桃は頷いた。
「約束してあげるから。さ、早く帰るぞ」




