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    5.31 (土)12:05

「……神崎先輩……」

「……桐生……」

 

 二人のセコンドたちに声をかけられるも、頭にタオルを掛けたまま控え室のベンチにうなだれるのは、天才ボクサー神埼桐生。

 その片割れに置かれたスクイージーにも手をつけることができず、ただ呆然と、生まれてはじめて味わった敗北の味をかみ締めていた。

「……すまねーな……」

 うつむいたまま、神埼はようやく口を開く。

「……情けねーとこ、見せちまったかな」


「そ、そんなことねーよ、桐生!」

「そ、そうです! 神埼先輩は、すごく、すごく……」

 しかし、そこに続く言葉が見つからない。

 肩を落とす神崎の姿を、ただ上から見下ろすより他なかった。


「……俺は、少なくともタメ相手に、リングで負けるつもりはなかった。だが」

 いまだ解かれぬバンデージに包まれてこぶしを、更に硬く握り締める神埼。

「……何の言い訳もできない。認めるしかない。俺の完敗だ……」


 ガチャリ


 控え室のドアノブが回転し、キィ、軽い音を立てて扉が開けられる。


 そこから姿を見せた、華奢な体に天使の羽根のような二つ結び。

「兄貴」

 紫は、しばらく兄には見せることのなかった、暖かい柔らかな表情を見せた。

「すごい試合だったよ。いつもクールだった兄貴の……すごく熱い姿、紫、感動しちゃった」

 

「……紫」

 ほんの少し驚いたような表情を浮かべたが、その妹の笑顔に心が少しだけ和らぎ、同じく柔らかい笑顔で神埼は妹を迎え入れた。

「……お前からそんな言葉聞いたのは、はじめてかもな」



 その、数十分前――



「……おめでとうございます、真央君」

 すでに身支度を整え、控え室を出てきた真央に葵は声をかけた。

 しかしその表情は、その言葉とは裏腹に、かげりを隠すことはできなかった。

「……最初はちょっと苦戦していたように見えたのですが」

 ようやく気持ちを奮い起こし、表情を明るく努める。

「それでも、やっぱり真央君は真央君でした。心配する必要など、ありませんでしたね」


 真央に尽くそう丈一郎もなおも、思い表情でそのやり取りを見つめるのみだった。


「へっ、たりめーだろうが」

 ブラックの缶コーヒーを片手に、にやりと口元を緩める真央。

「言っただろ? 中量級三階級制覇を神に約束されたこの俺だぜ。おまえら凡人が心配する必要なんて、一ミクロンも存在しねーんだからよ。ん?」

 葵の後に隠れるようにして、真央はその華奢なシルエットに気がつく。

「なんだ。てめーもこんなとこいやがったのか」


「……おめでと、秋元……」

 青いとは対照的に、紫は複雑な表情を隠そうともせず真央に語りかけた。

「……すごかったよ……本当にこの世の中に兄貴より強い男がいるなんて、思ってみてもいなかったから……うん、ちょっと感動したよ……」


「けっ、何が感動だよ。葬式みてーな顔しやがって」

 吐き捨てるようにして、真央はわしわしと頭をかいた。

「俺は勝利者だぜ? “勝利者には何もやるな”ってな。俺に対する祝福なんざ、もう間に合ってんだよ」

 そういうと、真央は紫の頭をポンポンとなでた。


「……秋元……」

 紫は潤んだような瞳で、真央を見上げる。


「おら、いつまでもこんなとこいねえで、さっさといってこいよ」

 真央は親指で背面を指すようにして言った。

「お前が声かけるべき相手は、他にいるんだろうが」

 

 こくり、紫は無言でうなずいた。


「わかってんならさっさといけ」

 ニイ、真央は不敵な笑顔を浮かべる。

「その辛気臭せー面、俺には必要ねえんだよ」


「うんっ!」

 そういうと、紫は神埼桐生の控え室へと駆けて行った。

 

「……ったく、ガキはこれだから面倒くせ――」

 ふう、腰に手をやりしたり顔でため息をつく真央の背後から――


「秋元!」


「あん?」

 その声に振り向く真央の目の前に、今度は満面の笑顔を浮かべた紫が立っていた。

「んだよ。さっさといけよ、ションベンガキ」


「あのさ……」

 すると、なぜか瞳を潤ませ、胸元を小さく抑えて紫はうつむく。

 そして、意を決したように再び顔を挙げ

「あのさ! 兄貴もかっこよかったけど……秋元は、もっともっと、もーっと、格好良かったよ!」


「あ?」

 すると真央の頬はやや赤らみ、そして困惑するような表情が浮かぶ。


「それじゃあね!」

 そういうと、気恥ずかしさをごまかすかのように、紫はぱたぱたと廊下の奥に姿を消した。


「ったく、わけのわからねー」

 真央はまたわしわしと頭を掻き毟った。


「ま、とりあえずおめでとう位は言っとくべきかな」

 

「あん?」

 目の前に響く声に顔を上げた真央の目の前には

「お、おお、桃ちゃん」


「まあ、昨日の今日のあれこれで、ちょっと心配はしてたんだけど」

 制服から伸びたすらりとした詩を交差させ、そして腕組みをして微笑んだ。

「まあ、心配なんてする必要はなかったみたいだな。少なくとも、リングの上では」


「へっ、ったりめーだろうが」

 真央は手に持った缶コーヒーをくっと傾け、その喉を潤す。

「けどよ、今回はほんとに世話んなっちまったな。心配させちまったみてーだな」

 ぎゃはは、といつもの豪快な笑いを飛ばす。


「いったろ。リングの上の君のことは、心配するだけ無駄だってさ。それに今、君が心配すべきは、ボクシングのことじゃないよな」

 桃がすっと後に身を引くと、無言のまま、おっとりと微笑む、大人の女性。

「勝利者は君だ。君の思うがままにするがいいさ」


「桃ちゃん……」

 身を引いた桃のすらりとした長身の後から姿を現したのは――


 パチパチパチ――


「おめでとう、まーちゃん。ほんま強うなったわ」

 

「綾子……」

 真央は、表情なく綾子を見つめた。


「綾子さん……」

 そして奈緒は、唇をかみ締めるようにしてその柔らかに微笑む表情を見つめた。


 葵も眉間にしわを寄せ、今にも泣き出しそうな表情で見詰め合う二人から目を話すことができなかった。


「あんなにちっこうて兄貴の後ろについて回ってたような子が。時が流れるのは、はあ、速いもんじゃね」

 綾子はにこにこと、どこか浮世離れしたような笑顔を浮かべて真央に祝福の言葉を掛けた。

「ほんにおめでとう、まーちゃん。正直、うち、桐生に勝てるようなボクサーがおるなんて、思いもよらんかったけぇ。しかもそれが、まーちゃんじゃった。運命じゃの」


「そんなものがあるかどうか、私にはわかりませんけど」

 “運命”、その言葉に、一瞬桃は言葉を呑むが、一呼吸置いて口を開く。

「とにかくマー坊、これが結果だ。君は素直にそれを受け入れる、ただそれだけだろ?」

 そして綾子を振り向き、そして二人の“賭け”の結末を確認する。

「綾子さんも、それでよろしいんですよね?」


「ほうね」

 そのにこやかな表情を変えることなく、綾子は言った。

「こがぁなええ男二人に取り合いっ子される、女冥利に尽きるいうもんじゃね」

 

「これが、マー坊君の望んでいた結末なんだよね?」

 真央の前に出て、そして踵を返して丈一郎がその顔を覗きこませる。

「心のそこから大好きな綾子さんを、神崎君から取り戻す。それが、マー坊君の希望なんだよね?」


「そうだね」

 腕を組みその目を直視するように、桃も真央の顔を見つめる。


 その真っ直ぐな視線に、真央は思わず視線をそらす。


「どうして視線をそらすんだ」

 桃は真央のもとに、しっかりとした足取りで近寄ると


 グッ


「お、おい……」


 力強くその両肩を掴む。


「これが君のお望みの結末なんだろ?」


「桃ちゃん……」

 この男に似合わぬ動揺を隠すこともなく、真央は桃の顔を見つめる。


「綾子さんを連れて、プロボクサーになって二人で暮らすんだろ? さあ、これが君の新しい人生の第一歩だ。自分の好きなようにしなよ」


「俺の望んだ……結末……」

 その言葉を聞くと、一瞬真央はその体を硬直させ、そしてうつむき目を閉じた。

 しばしの沈黙ののち、真央は何かを思い立ったかのように綾子の前に立った。


「あらまあ」

 相変わらず穏やかな表情のまま、穏やかな調子で言葉をつぐむ綾子。

「偉いいかつい“白馬の王子様”じゃね」


「綾子。俺ぁ」




「……お前からそんな言葉聞いたのは、はじめてかもな」


「そんなことないよ。確かに最近はそうかもしれないけど……」

 紫は照れたような、しかし素直な表情で言った。

「けど、兄貴が勝ったとき、いっつも紫、心のなかでおめでとうしてたもん。だから、気づかない兄貴が悪いんだもん」


「……ったく、口の減らない」

 やれやれ、と言ったふうに神埼は髪の毛をかきあげると

「……だが、そんな気持ち、わかってやれなかったのは、確かに俺のほうかもしれないな」

 クールに口元に笑みを作った。


「おい」

 神埼の同級生が、後輩をひじでつつき目配せをする。

 後輩は、こくり、笑顔でうなづく。

「じゃあな神埼。お疲れさん。俺らは先に帰らせてもらうわ」


「……すまない」

 神埼は、立ち上がり頭を下げた。


「次は国体っすね! がんばりましょう!」

 そういうと二人は連れ立って控え室を後にした。

 

「二人っきりになっちゃったね」


「……ああ」

 神埼は、ポンポンと妹の頭をなでた。

「……あの頃のままだ。俺と紫、お前と二人だけ。これからも、また、ずっと二人っきりだ」


「んんー。それもちょっと違うんじゃないかなぁ?」

 すると紫は腕を組み、そして芝居がかった仕草で首をかしげる。

「だってさ、ほら。兄貴には――」


「……紫? どういう――」


 ガチャリ――


 スチール製の重い控え室の扉が、きいと音を立てて開く。

 そこには――


「桐生」



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