5.31 (土)11:25
「ボックス!」
響き渡るレフェリーの声などお構いなしに、すでに臨戦態勢の二人は体を付き合わせる。
ぐいぐいと体を揺らしながら前進する真央は
ブンブンッ――
大振りなフックを繰り出し、神埼の体をゆする。
それを丁寧なガードとボディーワークで慎重にその拳を防ぎ
シュンッ――
綺麗なカウンターを、的確に真央の顔面に畳み掛ける。
真央の突進を留めるには至らないが、しかし威力といいタイミングといい、絶妙なリズムを刻む。
頭を振りながら、空間をかき分けるような真央との距離を的確に把握しながらバックに、左右にフットワークを働かせ
パ、パン、パンッ――
これも的確なコンビネーションを叩き込む。
額に弾けた拳をものともせず、それでもぐいぐいと前にすすむ真央は
ゴ、ゴッ――
腕をもへし折れ、のフック、そしてアッパーを繰り出す。
そして最高の距離を見つけ出しそこに体を滑りいれ、全体重を乗せた右ストレートを――
「っくぁ」
今度は神埼が、体を前進させて距離を殺し、クリンチで真央の動きを封じ込める。
真央は神埼の背中を叩き、そして力づくで神埼の体を撥ね退ける。
その瞬間
――カァン――
第一ラウンド終了を告げるゴングが会場内に鳴り響いた。
ほうっ、葵はため息をつき、ハンカチで首筋の汗を押さえる。
「すごい試合ですね」
そして、首筋にへばりついた髪の毛を、耳元でかきあげて整えた。
「そういえば、私、真央君の試合って、必ず第一ラウンドノックアウトの試合しか見たことがありませんでした」
綾子は、相変わらず微笑を絶やすことはない。
「でもね葵、それは兄貴も一緒だよ」
紫は、興奮を抑え切れないような表情で言った。
もうすでに、司会開始前の有綱感情など、この二人の卓越したボクサーの戦いの前に霧散してしまったかのように。
「兄貴はボクサータイプよりだけど、倒せるときには一気に畳み込むから、一ラウンドKOも結構多いんだ。けど」
「それだけ、両者のレベルが拮抗しているってことだろうね」
桃は腕組みをして冷静に言った。
「けど、やっぱり、まあ資質とかはおいといて、やっぱり経験の差が如実に出たラウンドだったな」
「経験の差……ですか?」
葵が桃を振り返る。
「うん。それと――」
「マー坊君!」
コーナーに戻ってきた真央を出迎えた丈一郎は、急いでマウスピースを取り、うがいの水を含ませた。
「ちょっと力みすぎだよ。明らかにこのラウンド、神崎君がとってるよ」
「うん、もうちょっと落ち着いたほうがいいよ」
タオルを全力で扇ぎ、真央の体の火照りを冷まそうとする奈緒。
すると奈緒は、真央の体の小さな変化に気がついていた。
「マー坊君……なんでそんなに汗かいてるの?」
その言葉通り、真央の体には信じられないほどの汗が玉のように吹き出ていた。
チッ、真央は小さく舌打ちをした。
「気のせいだろ。別になんてことはねえ。汗っかきなのはいつもどおりだよ」
昨晩発した高熱のため、真央の体はまだ本調子ではない。
一応熱は下がったものの、リング上で今まで感じたことがないような息切れを感じている。
しかし
「クオリティーブローの数が多かろうが少なかろうが関係ねえよ」
真央は吐き捨てるように、いや、自分自身に言い聞かせるように言った。
「要するに俺があの野郎をKOすればいいだけの話だろうが」
そして、穂農のような視線を開いてコーナーへとぶつけた。
「ようし、上出来だぜ桐生」
反対のコーナーサイドでは、神埼の同級生が満足そうに声をかける。
「あの野郎、ビデオで確認したとおりのスウォーマーだったな。あの程度の技術の相手なら、お前が今まで対戦して来た連中の中には腐るほどいるからな」
「後はじっくり調理、って感じすね」
第二セコンドの後輩も、同じく確信的な微笑を向ける。
「けど、あいつビデオで見たときほどのプレッシャーはないっすね。これなら、次のラウンドでKOいけるかもっすね」
「……まあ、もしかしたらどこか体調がおかしいのかもな。だが」
神埼は腕を挙げ、二人の前に前腕部をさらす。
「……こんなことでいる奴、今まで見たことないけどな」
「桐生!」「それって……」
二人の目の前には赤くはれ上がった、そしてすでにうっ血が見える前腕部の様子。
「……まあ、しっかりブロックしてるし、急所にもらわなければ……残りのラウンドくらい持つだろ」
表情一つ変えることなく、冷静に神埼は自身の体に残るダメージを計算に入れた。
「……ただ、お前等の言ったように、今日のあいつの動きには何度もビデオで確認したようなキレも冴えもない。しかも、ここまですべての試合を一ラウンドで終わらせて、なおかつまともなスパーリングもいないあいつにとっては、ここからは未知の領域だろう」
「おお!」「そうっすね!」
セコンドの二人は、神埼の言葉に再び確信を取り戻す。
「……俺の勝利は、揺るがない」
氷のような視線を真央に向かって突き刺した。
“セコンドアウト”
――カァン――
“第ニ回”
第二ラウンド開始のゴングに、中央へと飛び出したのは
「! っ」
ジャブの連打から、小気味よい右のストレートを突き出した神埼だった。
そして、真央はそれを迎え撃つかのように、猛然と量の拳を振るう。
パ、パ、パァン――
真央の全身が粉々になるかのような拳を、慎重にガード、ブロックする神埼。
ヒュ、ヒュヒュン――
やや拳を下げながら、ダッキングやスウェーで拳をかわす真央。
当初はその手数も互角であったが、徐々に真央の手数が神埼を押し切り始める。
すると神埼は
ト、トン、トン――
軽快なステップで距離をとり、そして真央を翻弄する。
そしてまた距離を縮めると、中間距離で拳を交し合う。
ガードに拳を叩きつける真央の破裂音、そして自身の拳をかわす真央の影を切る神埼の切断音。
その二つが会場の観客から呼吸音すら奪い去る。
「……どうにもうまくありませんな」
リング下、役員席に座る鶴園は腕組みをしうなる。
「……彼、秋元君、彼はどこか体調が悪いのですかな?」
「え?」
その隣に座る岡添は、目を丸くしてその顔を見つめる。
「いえ……昨日も、今朝も。メディカルチェックでは、少々体温が高めなほかは、特に以上も見当たらないと思ったのですが」
「精細がない」
鶴園は、端的に、自身の記憶の中にある弾けとばんばかりの真央の姿との相違に、一言もらした。
「……たしかに、昨日……まあ、いろいろありまして、確かに少々追い込みすぎた、オーバーワーク気味なところも、ないわけではないですが」
再び視線をリング上に戻した岡添。
「しかし、彼の体力を考えても、そこまで苦にするほどのものでもないとは思うのですが」
「もしかしたら、神崎君もそれに気づいているのでしょうか」
鶴園は、不安そうに言った。
「的確にパンチをヒットさせ、そして真央君を自身のペースに引き込んで消耗させる。やはり……上手い。経験が、一枚も二枚も、上手なのでしょう」
リング中央で拳の欧州に付き合ったかと思えば、あっという間に距離をとり、そしてまた一気に距離をつめる。
神埼の得意のパターンだ。
そして、丁寧に拳を殺す神埼に対し、ボディーワークで拳を避け続ける真央。
さりとて、インターハイチャンピオンの拳、いつまでも完璧にかわし続けられるものではない。
避けようのないボディーブローで意識を下に集中させ、そして
ゴッ
お手本のようなアッパーカットを顔の顎に叩き込む。
真央はそれに反応し紙一重ではずすが、しかしそれは確実に真央の顎を捕らえていた。
「きゃっ!」
葵は、思わず目を背けて悲鳴を上げる。
「兄貴!」
やはり自身の兄が気になるのであろう、紫は瞳を輝かせる。
そして会場中に、歓声が沸きあがる。
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
両者の応酬に凍り付いていた会場は、地元の英雄のクリーンヒットに再び熱く沸きあがる。
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
真央の体は一瞬ぐらりと揺れたが、再び体勢を立て直し猛然と神埼に襲い掛かる。
真央は、氷の塊のような拳を、ガードの上からでもお構いなしで叩き込み続ける。
そのたびに神埼のガードは硬く、更に高く掲げられ、拳は的確に真央にヒットする。
しかし、さらに真央のラッシュは激しくなる。
真央のフックを避けた瞬間、神埼は体を密着させてクリンチする。
真央は、ぼんぼんと神埼の背中を打つ。
「ヴレイク!」
レフェリーの声に、両者は引き剥がされる。
そして適切な距離に離されると
「ボックス!」
両者は再び向かい合う。
その瞬間
「!」
今度は真央が瞬時に距離をつめ、神埼と額をつき合わせたかと思うと
ボンッ、ボ、ボンッ――
左のボディーフックを神埼に叩き込んだ。
肘でブロックするも、神埼の足は一瞬とまる。
そしてまた、真央は左顔面に拳を叩きつける。
しかし、再びそれは神埼にブロックされる。
距離をとった神埼に、再び真央はへばりつくようにして額を突き合わせ
ボンッ、ボ、ボンッ――
ブロックの上からお構いなしのボディーブローを叩き込んだ。
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
両者の攻防に、会場中が酔いしれ、歓喜の声が爆発した。




