5.31 (土)11:15
カァ――ン
乾いた音が、深く会場中に染み渡る。
その一瞬、会場を静寂が走りぬけ、そこに押し殺された濃密な歓喜の感情が渦巻く。
“ウェルター級第一回戦、両選手の紹介をいたします”
「いよいよですな」
アマチュア・ボクシング界が誇る名伯楽、西山大学附属高校の鶴園は、真剣な表情で呟いた。
「なんともはや……組み合わせとは数奇なものです。何しろこれは――」
“赤コーナー――”
ドッ
押し殺されていた感情が、火山のように爆発した。
言葉にならない感情のうねりの中心にいるのは、一人の“英雄”だ。
“――神埼桐生選手、群馬県上毛商業高校”
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
地元の“英雄”から日本の、そしてオリンピックの“英雄”への階段を駆け上るその男の姿に、会場中の観衆は酔いしれた。
「――実質的な決勝戦ですからな」
鶴園は腕組みをして、ため息をこぼした。
「我々の立場はいつもアウェーなものなのですが――」
通常に感じる、それ以上の熱気に、岡添は思わず息をのむ。
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
「――それでもこれだけの声援は、体感した記憶がありません」
地元の“英雄”は、その大声援にも“我関せず”と言わんばかりに黙々悠々とシャドウを行い、そして体をほぐしていた。
「事実上の決勝戦、そう見て間違いないのですね」
「ええ」
コクリ、鶴園はゆっくりと、深く頷く。
「うちの鄭に届けさせた神崎君の試合の様子、岡添先生はごらんになられましたかな?」
「はい」
岡添は鶴園を振り返り頷く。
「なんというか……秋元君とは違う、ものすごくクールな試合運びをするボクサーだな、と言う印象があります。それになんといっても……強いです。素人の私の目から見てすら、この子は強い、シンプルですがそう思わせるような何かがありました」
「そうでしょう」
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
野太い終えの中に、ため息と黄色い声援が混じる。
「多彩かつ正確なコンビネーションブロー、勝負どころを見極めるクレバーさと嗅覚、そしてここぞと言うところで発揮される闘争本能。それを可能にする身体能力。自分の持てるものすべてを発揮しつくして闘うことのできる、同世代では最高のボクサーの一人でしょう」
冷静な言葉運びに、岡添の背中に冷たいものが流れる。
「秋元くんは……秋元くんは勝てるのでしょうか」
「わかりません」
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
「彼自身が一番よくわかっているのでしょうが、彼自身のリングにおけるキャリアの中で、これほどの強敵に出会ったことはまずないでしょう。それに、合同練習を行っているうちの学校や大学ですら、彼の前にまともに立てたボクサーはいませんでした。実戦におけるキャリアには、おそらく創造する以上に下がるでしょう。しかし――」
「しかし?」
“青コーナー――”
――パチパチパチパチ――
こちらには、感情のこもらない無味乾燥な拍手がこだまする。
“――秋元真央選手、東京都聖エウセビオ学園高校”
――パチパチパチパチ――
一応の礼儀、とでも言わんばかりの拍手であったが、そこには言葉にならない敵意と憎悪が感じ取れる。
昨日の抽選後の会場、地元の“英雄”を愚弄し挑戦的な視線を投げつけたこの男、秋元真央への。
「「「アッ・キモトッ! アッ・キモトッ! アッ・キモトッ! アッ・キモトッ!」」」
その雰囲気に抗う、聖エウセビオ学園の面々と、鄭をはじめとする西山大附属のボクサーたちであったが、蟷螂に斧よろしくまったくの無力であった。
そしてリング上のボクサー、秋元真央は、微動だにすることなく鋭い視線を相手コーナーの神埼桐生にぶつける。
その地元の“英雄”への挑戦的態度が、いっそう観客の反発心を醸成した。
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
「――しかし、私はどこかで期待もしています。岡添さんも、そうではないですかな?」
「はい」
岡添絵梨奈は、静かに頷いた。
「クラスメートの力を借り、秋元君は秋元君なりに努力を重ねて来ています。そしてそれ以上に……なんていうべきでしょうか……彼の持つ爆発力、野生と言うものに、期待を寄せないわけにはいきません」
「そのとおりです」
その言葉に、ようやく鶴園の顔にいつもの穏やかな微笑が戻った。
「彼とは合同練習で何度か指導を行い、スパーリングも目にしてまいりました。しかし、このわたしのキャリアにおいてすら彼というボクサーの姿を分類しようがない。彼というボクサーの底が、まだまだ見えていない。もしかしたら……神崎君という最高のライバルこそが、秋元君の真の強さを見せてくれるのかもしれません」
「両者、中央へ」
レフェリーの指示に従い、二人のボクサーがリング中央に向かい合う。
エキップメントチェックを行い、両者にそれぞれ言葉を与える。
「――それでは二人とも正々堂々、スポーツマンシップにのっとって戦うように。いいね?」
しかしその言葉に両者はまったく反応することなく、炎と交利、対照的な色彩を持つ両者の視線はぶつかり合った。
一触即発、さまざまな思いをそこにぶつけ合う。
「それでは、両者グローブをあわせて」
ボンッ
お互いの顔、体にぶつけるべきその拳、前哨戦とばかりに叩き付けた。
「マ、マー坊君、ナーバスになりすぎないでね」
「そ、そうだよ。見ている僕達がはらはらしちゃったよ」
セコンドを勤める奈緒、そして丈一郎は心配そうに声をかけるが
「おめーらが気にするこっちゃねえ」
マウスピースをくわえ込んだ真央はふてぶてしく言い放った。
「おめーらはいつも通り、この俺があいつに青天井見せるところを見てればいいんだよ」
そして、紅蓮のにらみを相手コーナーにぶつける。
「いよいよっすね」
赤コーナーサイド、上毛商業高校ボクシング部の後輩が心躍らせ話しかけた。
「いよいよあの無礼なバカに、本当に強いのは誰か思い知らせてやれますね」
「バカやろう、煽ってんじゃねえよ」
神埼桐生の同級生の部員が、そのペースを乱しかねない発言を戒める。
「おう桐生、普段どおりでいいんだよ。お前がいつも通りのパフォーマンスをすれば、お前についてこれる奴なんていねえ。いいか、王者はお前なんだ。どっしり構えて実力の差、見せ付けてやれ」
「わかってるよ」
その言葉を自分自身に言い聞かせ、視線で相手コーナーを凍りつかせようとした。
“セコンドアウト”
――カァン――
“第一回”
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
キュッ、キュッ、キュッ
リング中央で、両者は対峙する。
「こうして向かい合ってみると、本当にお二方は対照的ですね」
背筋に冷たいものを感じながら、葵は口を開いた。
「静と動、炎と氷、まだ全然試合は動いていませんが、やはり一目瞭然です」
「そうだね」
桃は頷いた。
「どちらかと言うとべた足で、ちょっとアップライト気味に構えてマー坊を迎え撃とうとする神崎くん。それに対し、やや両腕を下げ気味にして、細かいステップとボディーワークで動き続けるマー坊」
シュンッ
先に仕掛けたのは真央だ。
ブンッ、ブンッ、ゴッ――
左右のフックを浴びせかけ、左フックが神埼の体を揺らす。
「すごい……」
紫は目をおきくみ開き、なるような声を漏らした。
「ビデオで見るのとは全然違う……お兄ちゃんの体がここまで揺れるのなんて……あいつ本当にウェルターなの?」
しかし、両者が男を賭けて奪い合うその当人、綾子はにこにことただ、事の成り行きを見守るだけだった。
ブン、ゴッ、ボンッ――
リング上では、真央の猛攻が続く。
しかし、神埼は冷静にその拳を裁き続ける。
真央の拳をブロックしながらも細かいウィービングやダッキングを加え、真央の意志の塊のような拳を殺し続ける。
真央が大きく上体をゆすりながら前に出るが、それを左右のステップでいなし続け、隙を見ては――
パンッ――
「マー坊君!」
奈緒がたまらず声を上げた。
真央の左のフックに、神埼は左のカウンターをあわせる。
「マー坊君……」
丈一郎は、ギリリと唇をかみ締めた。
その瞬間、それまで固いガードで守りを固めていた神埼が一転して攻勢に出る。
左右の攻撃に加え、ボディーを丁寧につく、隙のないコンビネーションを真央の体に叩き込む。
しかし、真央もそれにひるむことなく打ち合いを開始する。
するとまた神埼は距離をとり、ポイントを絞ったジャブを的確に真斧顔に叩き込む。
真央はそれを上体のムーブでかわし続け、更に前へ前へ、しつこい全身を見せ始める。
神埼は体をサークルしてそれをかわすと、更にジャブを繰り出し、更には慎重なガードで攻守の切り替えの隙を突こうとする真央の出鼻をくじこうとする。
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
――カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ! カンザキッ!――
キュ、キュキュッ――
ヒュンヒュンヒュン――
会場を包む大声援、シューズがキャンバスをこする音、拳が空を切り裂き、肉の塊を叩く炸裂音、すべてが渾然一体となって会場を揺らす。
ゴッ――
前に出ようとする真央、そして距離を殺そうとする神崎、両者の思惑が一つになり、両者の対は密着しクリンチの状態になる。
真央は左で神埼のレバーを叩く。
両者がリング中央でもみ合う中
「ブレイク!」
レフェリーの手によりようやく容赦は引き剥がされ
「ボックス!」
再び両者は拳を上げて向かい合った。




