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    5.31 (土) 9:00

「……ん……」

 ジャージーにTシャツ姿の桃は、ゆっくりと上体を起こし額に手を当てる。

 ふう、とため息をつくと、大きく伸びを一つ。

 床の間の時計に目をやれば、これから開会式が始まろうという時間。

「……そろそろ起きなくちゃな……」

 そう呟くと、桃は枕元においてあった皿のラップをはがし、おにぎりと漬物をもしゃもしゃと流し込む。

 顔を洗い簡単に髪の毛をまとめ、手早く制服に着替えると、桃は部屋を後にしようとした。

 その時


――ヴヴヴヴヴヴヴヴ――


 振動を発する携帯電話。

 桃はその発信者、そしてメールの内容を確認する。




「悪かったね、忙しいときに呼び出して」


「いえ。意外だったんで、ちょっと驚きましたけど」


 ボクシング関東大会会場に付属する喫茶店、桃にテーブルを挟んで相対するのは、二人の男が勝利を捧げる相手、綾子だった。


「お待たせいたしました」


 カチャリ、二人の前にブレンドのティーカップが据えられる。


「実はね、うち、あんたと話してみたかったんよ。あの男さん二人の試合が終わる前に」

 そういうと、綾子はコーヒーを一口含む。

「あのどうしようもないごんたくれだったまーちゃんと、一緒に暮らしている女がどんな子ぉか、知りとぉなってね」


「いえ、べつに」

 同じように、砂糖もクリームも一切混ざらないストレートのコーヒーを、桃も含んだ。

 ズズズ、いまだ寝ぼけた思考が、少しずつ明瞭になる。

「けど、あたしなんかと話しても、何も得るものもないですよ」


「うちの単純な興味じゃけ。まあ、それにつきおぅてもろうただけ、ゆうことやね」

 少々疲労感を感じさせる笑顔を綾子は見せた。

「ごめんな、実は、昨日お客さんたくさん入って、ちょっと疲れとるんよ」


「綾子さん、美容室にお勤めなんですよね」


「ん、まだまだ見習いでしかないけどね」

 そういうと綾子は照れたように顔を振った。

「うち、広島出た後、いろんな親戚のところたらいまわしになって。けんど、やっぱり居候いうんは、なんとも居心地が悪ぅてね。ようやく今のお店のオーナーさんに声かけてもろぉて、ほんでようやく一人で暮らせるくらいにはなったんよ。仕事があるだけ、生きてるだけもうけもんよ」


「こんなことあたしが言うべきではないのかもしれませんけど……」

 一瞬の躊躇ののち、桃は眉を潜める。

「綾子さんも……マー坊も、大変な人生を送っていらしたんですね」


「……そんな大したことはないんよ。うちはもう、ある程度物心も分別もつく年頃じゃったし、ゆうたじゃろ? 生きてるだけで、うちはもうけもんじゃ思うとるけ」

 やはり疲労感をうかがわせる笑顔ながらも、明るくきっぱりと綾子は言った。

「それに……いま、ようやくうちにも大切な人ができたんよ」


「神崎くん、ですね」


「ほうね」

 すると、その笑顔からは完全に疲労感が消え去った。

「お父ちゃんもお母ちゃんも……兄貴も死んで……何とか働き口を見つけてもろぉたけど……うちもそんなに強くはないんよ。どこかで、何かすがるもの、自分を受け入れてくれる人を探しとったのかもしれんね。正直、うちこういう気持ち初めてなんよ。たとえ、桐生との仲が終わったとしても、この気持ちさえあればきっとまた強く生きていけるって」

 すると、照れたように顔を赤らめ、綾子はコーヒーをまた口にした。

「ええ年して、恥ずかしいわ。あんたらとちごぉて、うち、あまり頭よぉないし、学校も途中で行ったり行かんかったりじゃったけ、なんじゃろ、きっと、初恋の小学生とさほど変わらんかも知れんね」


「……すいません。あたしにはそういう気持ちよく分からりません」

 桃は表情一つ変えることなく言った。


「意外じゃね」

 拍子抜けするような声をあげる綾子。

「あんた綺麗し、スタイルええし……男が放っておかんタイプの子ぉと思うとったんじゃけど」


「全然」

 あくまでもクールに言い放つと、桃はコーヒーをまた一口含んだ。

「綾子さんみたいに女らしい人と違って、あたしはがさつだし、体もでかいし。恋愛経験どころか、異性をそういう風に意識したことだってありませんから」


「もったいないね」

 綾子は眉をひそめて言った。

「うちが男じゃったら、あんたみたいな綺麗な子、ほっとかんと思うんに」


「けど、羨ましくは思います」

 これもまた、はっきりと言い放つ桃。

「それだけ真剣に、一人の男を好きでいられるなんて。あたしには、ない感情だから」

 そして、更に言い放った。

「これから、神崎君とマー坊が、あなたを巡って戦うことになります。こくなことを聞くようですが、綾子さんはどちらを応援していますか」


 その問いかけに、綾子は困ったように笑い顔を背けた。


「そして……マー坊が勝ったとしたら、綾子さんは本当にマー坊のところにいくつもりですか」


 その言葉に、徐々に綾子の表情は曇って行った。

「……うち、は……」


 言葉を詰まらせる綾子、しかし、その様子を持て、ようやく桃の表情は和らいだ。

「ありがとうございます」


「え?」


「少なくとも、綾子さんがあのバカ、マー坊の気持ちを真剣に受け止めてくれていることはわかりましたから。きっと綾子さんは……いえ、すいません。選択の結果を聞くつもりは、ありません。綾子さんは、綾子さんの気持ちに正直でいてくれれば、それでいいと思います。ですから……あたしたちは、できるだけニュートラルな気持ちで、リングを見つめましょう」


「……大人じゃね、あんたは。いかんね。うちのほうが年上のはずなんに」

 苦笑を浮かべる綾子。

「あんたの言うとおりじゃね。もうわかっとるのかも知れんけど、結果がどうなろうが、うちはうちの気持ちに正直でいたいと思う。じゃけ、どっちを応援するとかそういうんじゃなく、ただ二人の男の、リングに上がってたたかうさまを、この目に焼き付けよう思うんよ」


「そうですね。リングに向かい合う男にとって……女の思いなんて、はっきり言えば邪魔者に過ぎないですから」

 そして、体を曲げて左の席をちらりと見て言う。

「そう思わないか? 紫ちゃん」


「ひっ?」


「紫? あんた、こんなところでそんな格好して、なにしよるん?」


「は……は……ははははは……」

 そこには、サングラス説きゃ助っ人、パーカーのフードにその正体を隠した紫の姿があった。

 紫は気まずそうに二人の座席に近づき、桃に頭を下げた。

「お、お久しぶりです……桃姉さん……」


「そんな格好しなくてもいいよ。別に気まずいことなんて何でもないでしょうに」

 そういうと、紫が座れるように椅子を引いて差し示した。

「話聞いてただろ。あたし達外野が……女がどうこう言ったって、結局はリングに立つのはあの男達二人だけなんだ。そこには、その資格を持つもの以外が、何かを持ち込ませるようなことをしちゃいけない。あたしたちは、あの二人が最高のパフォーマンスですべてを燃やしつくせるように、そしてその姿を見届けること、それだけさ」


「……ふえぇえ……」

 紫はいすに座ると、うつむいてか細い声を上げた。

「……うん……わかった……紫も……マー坊と兄貴……しっかり応援する……」


 桃は、ポンポンと紫の頭をなでた。

「それで、よし」


その言葉、その様子を黙ってみていた綾子は

「強いんね、あんたは」

しみじみと口を開いた。

「うちは、ここに車でいろいろ紆余曲折とかあって……強くなった、大人になったつもりでいたんじゃけんど……あんた見てると、自信のぉなってくるわ。あんたに比べたら、うちはまだまだ弱い人間じゃね」


「強くなんかないですよ」

 桃はゆっくりと頭をふった。

「あたしは……今は離れてますけど、お母さんもいるし、奈緒だって……姉妹だっていますから。それに……お父さんだって……」


「え?」

 紫が目を丸くして驚く。

「た、確か、奈緒はお父さんのこと……」

 何かを言いかけた紫だったが、しかし、寂しそうに笑う桃の横顔に何もいえなくなってしまった。

 

「さ、そろそろ行きましょうか」

 桃はがたりと立ち上がる。

「まだ余裕はあるかもしれないけど、できる限り彼らのことを目に焼き付けましょう。お姫様を巡って火花を散らす、二人の王子様の姿を、ね」




「あ! 桃ちゃんが来たよ!」

 試合会場の廊下、奈緒が桃の姿を確認し、歓声を挙げる。


「ほ、本当っすか!?」

 こまごまとエキップメントをまとめる、レッドもその姿に気づく。


「釘宮さん! 体調はもういいの?」

 やや顔を赤く晴らした丈一郎が桃に訊ねる。


「悪かったね。何とか体調回復したから」

 ジャージー姿の奈緒に、桃は小さく手を挙げた。

「けど、あたしのことはどうでもいいだろ? そんなことより、川西君の結果はどうだったんだ?」


 すると、胸元でちいさくガッツポーズを作る丈一郎。

「それこそ、問題ないから。Bトーナメントだけど、関東大会一勝、すでに勝ち取ったから!」


「誰が指導したと思ってんだよ」

 ぶっきらぼうに、ポケットに手を突っ込んだ真央が姿を現す。

「桃ちゃんはいちいち心配しなくていーからよ、ま、次の俺の豪快なノックアウトだけ見逃さなきゃそれでいいんだよ」


「……あの……」

 あくまでも傲岸不遜な真央の目の前に、桃の後から少しずつ身を乗り出すようにして姿を現したのは、いまだ彼らの前でどのような表情を浮かべるか決めかねているような紫だった。

「……その……紫のせいで……皆に――きゃっ?」


「紫ちゃん!」

「ゆ、紫さん! お、おひさしぶりっす!」

「あ、きてくれたんだ! お兄さんの応援?」

 久しぶりに目の当たりにした、華奢でかわいらしい二つ編みのその姿を、めいめいが歓声を上げて取り囲んだ。

 そして、久しぶりの再開への喜びは、様々な混乱の芽を蒔いてしまったという、紫の罪悪感を綺麗に拭い去り、吹き飛ばした。


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