5.31 (土) 6:30
――チュン、チュン、チュン――
「……ん……」
カーテンの隙間から差し込む日差し、そして心地よくこだまする鈴江の鳴き声は、真央の精神を少しずつその眠りの淵から呼び起こす。
「……俺ぁ……一体……」
ゆっくりと上体を起こすと、ズキッ、頭に少しだけ痛みが走る。
小さくため息をつき、その額に手を当てる。
「? どういうことだ?」
そういうと真央は、隠しておいた体温計を脇に挟む。
小さな電子音に従い、その数値を確認する。
三十六度七分。
完全な平熱とまでは行かないが、それでも試合前の検診を通るには充分な体温だ。
「……下がってやがる……っつっ!」
うそのように高熱は去ったが、頭に走る小さな痛みが、それが嘘ではなかったことを証明する。
そして、全身を包む虚脱感も、それを物語る。
しかし、とにもかくにも高熱は去った。
痛む頭を抱えながら、真央は記憶の線を辿る。
タオルを絞る、柔らかく暖かな手。
からからと鳴る氷の音。
そして真央を苦しめる熱を奪い去る、心地よい氷水の感覚。
「……誰かが……俺を?」
慌てて周囲を振り返るが、人の気配どころか洗面器、タオルの形跡も見えない。
真央はゆっくりと立ち上がる。
立ちくらみにより一瞬よろけたが、パシッ、頬を両手で叩いて自分を立て直す。
そしてしばし目をとじ、自分自身を取り戻していく。
昨日の激しい発熱は、真央の体をまた激しく消耗させている。
この激しい消耗の中、今日真央はあの神埼桐生と拳を交えることになる。
しかし――
ヒュンヒュンヒュンヒュンヒュン――
トトン、トンントン――
真央は軽快にジャブを繰り出し、そしてボックスを踏む。
そして洗面所に近寄り、コップに水を汲む。
軽量を気にしなければならないところだが、かまうものか、と真央は水を口にする。
「……っはあっ!」
体中を、何の変哲もないはずの水が、心地よいマッサージとなって駆け巡る。
「……はっ、はっ、はぐっ!」
立て続けに合計五杯の水を飲みほした。
「……ふぃーっ、うめえな……水がこんなにうめえモンだとは、思いもしなかったぜ……」
両手に蛇口から水を救い、ジャブジャブジャブと乱暴に顔をすすぐ。
ぐいぐいごしごしとタオルで顔を拭けば、真央はまるで体中の細胞が完全に入れ替わり、新しい人間になった様な気がした。
「……状況は最悪、か……」
そしてまた、バシッ、両手で顔を思い切り張ると、ニヤリ、不敵な笑みを浮かべた。
「……だったらいけるぜ……」
「おっす、調子ぁどうだ?」
「あ! マー坊君!」
「マ、マー坊先輩っ!」
旅館の玄関前、念入りにストレッチする丈一郎とレッドが、真央に挨拶を返す。
「? マー坊君、なんか顔色が青白いけど、どうしたの?」
「そ、そ、そうっすね。なんだか、頬もこけているような……」
「ああん? 何わけのわかんねー事いってんだよ」
シュッ、シュシュシュッ、すばやく拳を振るい、ぴたり、二人の目の前に拳を突きつける。
「この動き見ろ。俺は何があったって絶好調だぜ」
「そ、そっか。ならいいんだけど……」
やや怪訝な表情を浮かべながらも、丈一郎は胸をなでおろした。
「それよりさ、今日がいよいよ本番なんだから。うん、優勝目指して頑張ろうね!」
「へっ、誰に物言ってんだよ」
ジイィ――
真央はウィンドブレーカーのファスナーを上げると、ふぁさりとフードを頭からかぶる。
「この俺が、あんな陰キャラ野郎に負けるわけねーんだよ。おっしゃ! んじゃ軽くロードワークと行くか!」
「うん!」
「は、はいっしゅ!」
真央の力強い言葉に二人は気持ちのいい返事を返し、真央の後に続き旅館の玄関へと駆け出して言った。
「あ、みんなおかえりー!」
「お帰りなさいませ」
すでにジャージーと、制服に着替えた奈緒と青いが、玄関先で三人のボクサーを出迎える。
「はっ、はっ、はっ、お、おはよー、奈緒ちゃん、葵ちゃんっ」
「ひいっ、ひっ、ふぅっ、た、た、ただいま戻りました……」
二人の額に、さわやかな汗の玉が輝く。
そして二人はスクィージーを受け取り喉を潤した。
「あ、もうご飯の準備できてるから、汗流したら食堂に集まってねー」
奈緒は二人にタオルを渡しながら言った。
「あら? そういえば……」
きょろきょろと葵は周囲を見渡す。
「真央君が見当たりませんね。こういうときはいつも真っ先に駆け抜けてくるものとばかり思っていましたのに」
「あ、そういえばそうだねー」
奈緒も同意し周囲を見回す。
「ああ、マー坊君、ちょっと調節しながら走りたいから、もう少し遅れてくるって」
ガラリ、旅館の扉を開けながら丈一郎は言った。
「さすがに、これだけの強敵と戦うのは初めてだから、さすがのマー坊君も緊張しちゃってるのかな?」
「そうですね」
青いも扉を開けて同意した。
「やはりこの戦いは事実上の決勝戦となるのですから、周囲の注目度も違いますしね」
「あ! 帰ってきたよー!」
奈緒の声に、他の三名も振り返る。
「よう、待っててくれたんか」
額の上で、ぴっと人差し指で挨拶を決める真央。
「よっしゃ、早く飯食おうぜ。はやくしねーと、試合のときに影響出ちまうからな」
「……? 真央君?」
葵は怪訝な表情で真央を見つめる。
「……マー坊君、ちょっとやせた?」
同じく、奈緒も首をかしげて訊ねる。
「へっ、何言ってんだよ。昨日だって一緒にいたじゃねえか」
汗にまみれたウィンドブレーカーのフードを取ると、そこにはいつもの不敵な笑顔。
「こんなもん被ってたからそう見えただけだろうが。んなことより、さっさといくぜ」
すると真央は、何かに気がついたかのようにきょろきょろと周囲を見渡す。
「……あのよ、そういや桃ちゃんはどこいったんだ?」
「あ、ああ、桃さんですか。桃さんは……」
頬をかき、苦笑する葵。
「……昨晩ぜんぜんねつけなくて眠いから、ご飯のときまで寝かせて、っておっしゃってて……」
「こういうこと滅多にないんだけどねー」
すくイージーを改宗しながら、奈緒が言葉を加える。
「いつも早朝ランニングは欠かしたことがないし、もしかしたら桃ちゃん、体調が悪いのかもねー」
「……ふーん……」
すると真央は、無意識のうちに額に手をやった。
「……せっかく熱下がったこと伝えようと思ったのによ……」
「何? なんか言った?」
真央の呟きが丈一郎の耳に入ったが
「んでもねーよ」
ぶっきらぼうに返すと、ポケットに手を突っ込んで玄関に入って言った。
「体冷やすなよ。まだまだ朝はさみぃんだからよ、風引いたら元も子もねーぜ」
「は、はいっしゅ!」
「うん。早く着替えようか」
そういうと二人のボクサーが真央の後姿に続いた。
「じゃあ、私たちも」
「うん、早く支度しなくちゃだねー」
二人の少女も、そのボクサーたちの後姿に引き続いた。
――コンコンコンコン――
「……ふわ……ぃ……」
ノックの音に、その少女、釘宮桃はあくび交じりの返事を返す。
「……ん、どうぞ……鍵あいてるから……」
「あ、桃ちゃん、具合どう?」
ひょっこり顔を出したのは、奈緒だった。
「一応みんなご飯終わったけど、朝ごはん、本当にいらなかったの?」
「……んあ……うん……」
主は立ち上がって一伸びすると、ふう、ため息を一つ。
「釘宮さん? 入るわね」
その後に続き、岡添教諭。
そして
「桃さん、これ、宿の方からおにぎりを作っていただきました。体調がよくなったら食べてくださいね」
「……悪いね……別に体調が悪いって……ふわぁっ……」
再び大きくあくびをすると、部屋の出入り口まで歩いた。
「……もうちょっとだけ寝れば直ると思うから、そしてら会場いくよ」
「無理はしないでね、釘宮さん。あなたも本当は関東大会とか控えてて、疲れも溜まっているのに。ごめんなさいね」
聖エウセビオのジャージーをスーツの上からは追った岡添は、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「あ、そこは気にしないでください。そういうんじゃないですから」
桃は元気そうな微笑を返した。
「それより、あたしのほうはいいんで、あの子たちよろしくお願いしますね」
「わかったわ」
眼鏡の奥にクールな微笑を浮かべ、岡添は頷いた。
すると
「よ、桃ちゃん」
「マ、マー坊君?」
「ま、真央君! あ、あの、ちょ、ちょっと!」
体調不良の女の子の部屋に、この男らしいといえばそれまでだが、無神経にどかどかと真央が入り込んできた。
「……あ、んと……体調どうだ?」
「……君は本当にデリカシーがないな……体調不良の女の子の部屋に、普通男が入ってくるか?」
「お、そ、そういうもんなのか、すまねーな」
照れ隠しのように、真央は頭をぼりぼりとかいた。
「……あのさ、昨日……夜……もしかして――」
「――あたしのことより、君の調子はどうなんだ?」
真央の言葉をさえぎるようにして、桃は言った。
「これだけたくさんの人を巻き込んで、みんなが君のために動いてきたんだ。君の独り相撲だって知りながらね」
「ほえ? 桃ちゃんどうしたの?」
「真央さん? 一体に何があったというのですか?」
桃のただならぬ様子に、奈緒と葵は怪訝な表情。
桃はきっと真央の顔を睨み付け、力強く訊ねた。
「男を……君の男を、見せてくれるんだろうな?」
すると
「へっ」
真央は不適な笑みを浮かべるとその目の前で軽快なステップを踏み、そしてすばやく左拳を繰る。
「聞き捨てならねーな。誰にもの言ってんだよ。まあ、ゆっくり休んでな。俺の試合までに、間に合えばいいからよ。とびきりのKOシーン見せてやんぜ」




