5.30 (金)18:40
――ガラリ
「あっ!」
汗を流した後、旅館のロビーで二人の帰りを待つ丈一郎が立ち上がる。
「……いよう、わりぃな。入りすぎちまった……」
ジャージーの上から更にウィンドブレーカーを羽織った真央は、フードに相貌を隠したまま力を振り絞って声を出す。
「……おめーらはもう風呂上がった見てーだな……俺も簡単に汗流してくるか……」
その後には
「まったく、早くしなよ。皆君のことを待っていたんだからな」
腕を組み、仁王立ちの桃の姿。
「それより、菜緒たちはもう食事の支度しているの? マー坊のことはいいから、丈一郎君ももう食事の私宅に行った方がいよ」
「うん、そのつもり。マー坊君が帰ってきたら、岡添先生たちに知らせる役目だったからさ」
ショートパンツにTシャツというラフないでたちの丈一郎は言った。
「それじゃ、食堂は二階だから。マー坊君も汗流したら来てね。レッド君なんかお腹すかせてもうふらふらなんだから」
柔らかい、へにゃっとした微笑を残して姿を消した。
その後姿が曲がり角の奥に消えた瞬間――
「……っ……」
真央はその場に崩れ落ちる。
そしてその体を、桃が肩を入れて支える。
「……しっかりしろ。この程度の時間しっかりたっていられなくて、リングに立てるとでも思っているのか?」
ずっしりと肩に食い込む重みにも、桃は表情を変えず言い放つ。
「……へへへ……ナイス桃ちゃん……」
力なくサムアップする真央の表情は青白く、笑顔はどう見ても作り笑いにしか見えなかった。
「……とにかく、宿に帰ろう。そして、皆にこのことを話そう。いいな?」
夕暮れの風が草木を揺らす河川敷、真央をベンチに座らせてミネラルウォーターを差し出す桃。
「これだけの熱、どうやったって次の日までに下がりっこない。それに、もし下がったとしても、その分君の体は激しく消耗しているはずだ。そんな中でリングに立つなんて、自殺行為だ」
「……っざけんな。あいつ等にはなそうもんなら、無理矢理縛り付けられても棄権させられちまうだろうが……」
苛立ち紛れに、ペットボトルを差し出す桃の手を振り払う。
「……まともにリングの上に立てる状況じゃないことくらいは、俺が一番わかってるよ……けどな、今さらいも引いて、あの神埼の野郎の前から尻尾巻いて逃げるみてーな真似、出来ねーんだよ……」
「だったら、神崎君なり綾子さんに事情を話せばいいじゃないか」
「……そんな逃げる言い訳みてーな真似、できるわけねーんだよ、この俺が……」
ふう、眉間にしわを寄せ、目じりを押さえる桃。
「わかった。せめて、奈緒や桃、岡添先生たちにこのことをしっかり伝えてやれ」
「……できるわけねーだろ……絶対に出場取り消されちまうわ……顧問が出場を辞退します、ってしまえばそれまでなんだからよ……」
ベンチに座りながら、徐々に全身に広がる悪寒に体を震わせる真央。
「……そんなことになるくれーなら、死んだほうがましだぜ……」
すると
「……うぉっ!?……」
真央の胸倉が、ぐいと掴みあげられた。
「甘ったれんな! あんたのその独りよがりの行動で、一体どれだけの人間が振り回されていると思っているんだ!?」
鋭い視線で、桃は真央に言葉を叩きつける。
「……桃ちゃん……」
その剣幕は、何ものものをも恐れぬ、傍若無人な真央をもたじろがせる。
「……君だってわかっているはずだ。奈緒も、葵も、岡添先生だって、皆君のことを大切に思っているって……」
桃の目が、やや潤みを帯びる。
「……この間のレッド君のときの騒ぎだって、奈緒も葵も、口には出さなかったけど、すごく傷ついていたんだ。どうしてそんな大切なことを自分たちに話してくれなかったのかって。私は、もうこれ以上奈緒や葵の悲しむ顔を見たくないし、あの二人を裏切れない。だから、君がなんと言おうと真実を話すからな」
そして、ようやく桃はその手を緩めた。
すると真央は
「……っ……頼むよ……」
弱弱しい声を上げ、桃の手にしがみつく。
「……え? ちょ、ちょっと!?」
真央の思わぬ行動に、先ほどとは打って変わって桃の顔は紅潮する。
「な、なにをやっているんだ!? は、放せって!」
「……もう、俺ぁ桃ちゃんに頼るしかねーんだよ……」
そして、真央はゆっくりと立ち上がり桃の体にもたれかかり、高熱の吐息交じりの声でも物見身元に話しかける。
「……終わったらしっかりと皆に話すよ……もし明け方までに熱が下がらなかったら、どの道アウトだしな……けどよ、ぜってーここでケリをつけてーんだ……昔の俺と、俺の気持ちによ……今ここでケリをつけられなきゃ……俺ぁ……」
「……マー坊……」
すると桃は体を入れ替え、真央の右側面に入り方を貸す。
「……どうなっても、あたしは知らないからな。さっきもいたけど、たとえ熱が下がったところで、消耗してまともに試合ができるとは思えないけど、それは誰でもない、君の責任だからな」
「……桃ちゃん……」
あっけに取られたような表情は、すぐに安堵の微笑へと変わる。
「……へへへ、ありがとな桃ちゃん……ぜってー熱下げて……リングに上がってあの神埼の野郎ぶっ飛ばしてやっからよ……」
「そんなことより、早く帰るぞ。皆待ってるんだからな」
真央に肩を貸しながら、その重い体を引きずるようにして桃は歩き出した。
「すぐに帰って、まずはお風呂にはいってしっかりと体をあっためな。それで食べられる範囲でいいからご飯食べて、すぐに寝るんだ。もし皆にばれたらそこでおしまいだ。気合入れていきなよ」
「うっす」
ふらつきながらも、しっかりとした返事を真央は返した。
「……ぜってーあのすかした野郎ぶっ飛ばしてやるからよ……まあ、みといてくれよ……」
「あ、マー坊君、おかえりー」
ぴょこぴょこと体を弾ませて、奈緒が真央に擦り寄っていく。
「もー、遅かったから心配したんだよー。もう皆、すっかりおなかすかせちゃってるんだからー」
旅館の二回の食堂棟、丈一郎を初め製エウセビオ高校ボクシング同好会の面々、そして葵と桃がテーブルについて真央を見つめる。
「……おう、わりーな……」
首元にタオルを巻き、パーカーのフードをかぶったまま真央は答える。
「お帰りなさい、真央さん」
青いも真央の下に駆け寄り、その手を掴んで着座を促す。
「……なんだか、体が熱くありませんか? それに汗がすごいですけれど」
「……お、おお、ちょっとな……」
慌ててフードを取り、首もとのタオルで汗を拭く真央。
「……風呂上りだしな……さっきまで走りこみしてたしよ、まあそのせいだな……」
「ほらほら、あまり遅くなると宿の人に迷惑がかかるから」
ぱんぱんぱん、岡添が手を叩き、三人に着座を促す。
「それに、いくらウェイトのリミットに余裕があるといっても、食事の時間が遅くなるのは考え物だわ。早く食事を終えてしまいましょう」
「ははは、そうですね」
丈一郎もへにゃりと笑う。
「ほら、レッド君なんてお腹がすきすぎてふらふらしてるんだから、食べるだけ食べて、明日に備えようよ」
見ればレッドは、テーブルの上に突っ伏して一言もなくうなだれていた。
「わーったわーった。慌てるこじきはもらいがすくねーってな」
真央はゆっくりとテーブルに着いた。
「おし丈一郎。夕飯にしようぜ。一応言っとくけど、食いすぎてリミットオーバーするような真似だけは、死んでもするんじゃねーぞ」
「ははは。わかってるって」
すう、大きく息を吸い込むと
「いただきます!」
丈一郎の号令により、それぞれが食事に取り掛かった。
「……わりーな、わがまま言っちまって……」
旅館の部屋の扉の前で、真央は丈一郎とで土に頭を下げる。
「……俺が一人で部屋独占しちまうなんてな……」
「ははは、どうって事ないよ」
「そ、そうっす。ま、マー坊先輩は、インターハイがかかっているんですから。自分たちにできることは、この位っすから」
丈一郎とレッドは、思いもよらぬ真央の言葉にそう応えた。
「まあ、そんかわし期待しとけよ」
にやり、真央はいつもの、を取り繕うような笑顔を、何とか作る。
「明日、気持ちのいいノックアウトシーン見せてやっからよ。楽しみにしてな」
そういうと、真央はドアの奥に姿を消した。
「……っはっ、はっ、はっ、はっ、はっ……」
周囲の視線から逃れた真央は、苦しそうに息をして、そして力なく布団に転がり込む。
その前身を、気だるさと、紙やすりをこすり付けられたような痛みが襲う。
「……ったく、運がねえなぁ、俺ぁ……」
自嘲するような笑みを浮かべ、よろよろと立ち上がると蛇口をひねり、立て続けに水を三杯飲み干した。
「……計量気にするどころじゃねえよなぁ……まぁ、落とそうと思えば、走り回ればすぐ落ちるからな……」
そして、首にタオルを巻きつけると、頭にまたフードをかぶった。
「……とにかく汗かいときゃいいんだよな……なめんじゃねーぞ……ぜってー熱下げてやだから……な……」
そう呟くと、瞬く間に意識が遠のき、そしてそのまま意識を失ってしまった。
「……ん……ん、んんんんん……」
激しい熱と頭痛にうなされる真央。
体中からは滝のような汗が流れ、意識は朦朧としたまま熟睡までには至らない。
はあはあ、と苦しそうな吐息が喉の奥から漏れ聞こえる。
その時
「……ふわっ……」
真央の額に、心地よい爽快な間隔が広がった。
それは、氷水で絞った冷たいタオルだった。
あいまいな意識の中、思わず真央はそのタオルに手を触れる。
そこにあったのは、タオルの上に乗せられた、柔らかな手であった。
その手はしばらくそのタオルの上にあったが、しばらくすると姿を消した。
すると、耳元でからからという氷の転がる心地よい音が響く。
そしてまた、冷たい感覚が額を包んだ。
割れるような頭の痛み、どうしようもない暑さというものが、少し和らいだ気がする。
そして、その手は何度も何度も真央の額にタオルを絞り、時にはそれを首筋に当てて体中の熱を冷まそうとしている。
「……あ、ああ……ふう……」
誰かが自分を看病してくれている、その安心感が真央の張り詰めた精神と肉体を急速に緩和する。
こうして、ようやく真央はその深い眠りへと心身をゆだねることができた。




