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    5.30 (金)18:00

「……遅いわね、秋元君たち……」

 左手首を返し、時計を確認して物憂げな表情を浮かべる岡添絵里奈。

「……もうそろそろ帰ってきてもいい頃だと思うけど……」


「といいますと? あの御三方、どこかへ行かれたのですか?」

 籐椅子に座りそう訊ねるのは、大きなキャリーバックを横たえる葵。


「うん。あのあとねー、この旅館に帰ってきたはいいけど、“いてもたってもいらんねーよ”って言って、丈一郎君とレッド君連れて、ロードワークに飛び出していっちゃったの」

 こちらは、聖エウセビオ高校ボクシング同好会のジャージーに身を固める奈緒。


 喫茶店を後にした三名は、そのまま宿泊場所である旅館に戻り、ロビーでくつろいだ表情を見せる、はずだった。

 聖エウセビオ高校ボクシング同好会のボクサー三名は、夕飯が近くなってもまだ旅館に姿を見せていない。 


「けれど、あなたたちにわざわざ公欠をしてもらってまで、来てもらってよかったわ」

 ふう、気だるそうにため息をつく岡添。

「……さっきの会場での秋元君の様子を聞く限り、釘宮さんと礼家さんにいてもらった方が、今の秋元君には、精神的にも肉体的にもいいことでしょうから」


「ま、あたしたちが何かをできるってわけじゃないとは思いますけど」

 耳元の髪の毛をかきあげる桃。

「外野がどうこういっても始まらないと思いますけどね。結局は、たった一人リングに上がるのは、ボクサーだけなんだから」


「……桃ちゃん……」

 不安そうな表情で姉を見つめる妹。


「……それにしても……」

 壁にかけられた時計に視線を移し、時間を気にするそぶりを見せる桃。

「……開会式が終わってからずっと姿を見せないなんて、いくらなんでも遅すぎないか? 前日に行うロードワークにしては、ちょっと長すぎるような気がするんだけど」

 そして、聖エウセビオ学園ボクシング同好会マネージャーの妹、奈緒に声をかける。

「ねえ、あのバカは携帯もっていないけど、せめて川西君やレッド君に連絡は取れないのか?」


「……そう……だね」

 奈緒がジャージーのポケットから取り出した携帯電話に発信音を鳴らしたその時——


 ガラガラガラ


「……はっ、はっはっ………」

「……ひっ、ひっ、ふううぅぅぅ……」

 旅館の玄関度を弱弱しく空け放った二人の男たち。

 驚くべきことに、重ね着したジャージーには、全身にバケツの水をぶちまけられたかのようなぐっしょりとした汗が浮き出ている。


 香のすすり泣くような声、いや音が、丈一郎の喉から漏れ聞こえる。

「……や、やあ、く、釘宮さ、ん……あ、あ、葵、ちゃん、も……」

 そうつぶやくと、がっくりと玄関の敷石に両手をつき、そしてそのままあおむけに寝ころんでしまった。


「丈一郎君!?」

「大丈夫ですか、川西君!?」

 慌てて丈一郎のもとに駆け寄る葵と奈緒。


「きゅ、きゅ、救急車を読んだ方が——」

 顔面蒼白に、パニックに陥る岡添。

 

 しかしそんな岡添を、桃は冷静に肩を掴んで教え諭す。

「先生がそんなにうろたえてどうするんですか。大丈夫ですよ。川西君たちは、そんなにやわじゃないですし。長い距離を走りきれば、こんなのは当然ですよ。ね?」

 そして、落ち着かせるための笑顔をその顔に浮かべた。

 がたん、ロビーの自動販売機で。ペットボトル入りのミネラルウォーターを二本購入し

「はい、これ、のみなよ」

 葵と奈緒の間を分けいるようにして、桃はふたを開けたボトルを丈一郎に手渡す。


「……っりが、と、んんっ……」

 ごくり、がぶり。ごくり、軽快ではあるが重々しい喉音がロビーに響く。

「……っつはあ、ありがと……少し生き返った気分だよ……」


「明日は関東大会本番じゃないか。こんなに追い込んで」

 女一郎の首にかけてあったタオルをとり、そこに受けとったペットボトルの水を振りかけて、再び丈一郎の首元に戻す。 

「まさかとは思うけど、ウェイトリミットオーバーして、すぐに出も落とさなくちゃいけないとかはないよな?」

 

「まさか。僕だってこう見えてボクサーのはしくれだよ。それに——」

 ちょいちょい、丈一郎は後ろでおぼれて打ち上げられたアシカのようになっているレッドを、ペットボトルでつつく。

「それだったらわざわざレッド君まで走る必要はないよ。ただ単純に、僕らのスーパースターが何かをこらえきれずに走りだして、僕らはそれに付き合ったってだけのことさ。おーい、レッド君、生きてるかーい」


「……ふ、ふうぇぶしゅ……」

 よろよろとその手を伸ばしたレッドだったが、本お一口、ミネラルウォーターをのどに流し込むのが精一杯だった。

「……そ、そうっすねぇ……マー坊先輩が“とにかく走るぞ!”って言えば、自分たちは添えについていくだけのことっす……」


「……そ、それで……」

 全身の力をふるい、倒れこむレッドを抱え起こす奈緒。

「……んんんっ! そ、それでっ! ま、マー坊君はっ! どこにいるのっ!?


「まだ河原をダッシュしているよ」

 ペットボトルの水を一気に飲み干す丈一郎。

 もはや明日の軽量など気にしている場合ではないのだろう。

「僕らはマー坊君みたいな体力お化けじゃない、ごく普通の人間だから。だから先に切り上げさせてもらったよ。マー坊君はまだ延々走りこんでるよ」


「……ったく、あのバカは……」

 桃は腕を組み、眉間にしわを寄せて右目じりを抑える。

「わかった。奈緒、あんたは葵と協力して、夕食の支度して、二人を早くお風呂にいれさせて。風邪を引いたら大変だから」

 そう言うと、桃はげた箱から自分自身の靴を取り出し、紐もとかずに足を滑り込ませる。


「……桃さん? 桃さんはどうなさるのですか?」

 心配そうに二人を見つめていた葵が、桃に声をかける。


「悪いな葵、ちょっと川西君たちの面倒見てあげて」

 そして、後ろも振り向かずに言う桃。

「あのバカ、自分の手拍子で踊りだしちゃったから。早く行って、“いい加減にしろ!” って頭ひっぱたいてあげられるのは、あたししかいないでしょ?」

 そう言って、桃は小走りするようにして旅館の玄関を後にした。


「……桃ちゃん……」

 こちらも不安そうに桃の後姿を見送った奈緒だったが


「さあ奈緒さん、あなたはマネージャーなのです。心配なのは分かりますが」

 そう言って葵は奈緒の目を見つめる。

「確かに桃さんの言う通りです。今は、桃さんの言われた通り子の二人のケアを第一優先で私たちは考えましょう。真央君の事は、桃さんに任せる意外にはありません。私たちは、私たちのできることをいたしましょう。ね?」


 その力強い言葉に、ようやく奈緒の顔に笑顔が戻る。

「うんっ!」




 宿泊先の旅館から、数十分。

 陸上部に所属している桃の足からしても、それなりの距離だ。

 橋の袂に目をやると、一人でひたすらシャドウを繰り返す一人のボクサーの姿。

 間違いない。

 桃は腰に手をやり、あきれたようなため息をひとつき。

 そして警戒に土手の斜面を駆け下り声をかける。

「君らしいといえば君らしいんだけど、もうそろそろ切り上げてもいいんじゃないか。夕食を食べるのもトレーニング、君はいつも言っているじゃないか」


 その声に、前身を異常な、いや、異常すぎるほどの汗にまみれさせた秋元真央が手を止め振り返る。

「……っ、も、桃ちゃんじゃねーか……」

 そして、腰に手を当て腰をひとつ伸ばすと、首もとのタオルで乱暴に頭を吹き上げる。

「……へっ、あいつ等無事に旅館に帰れたかよ? まあ、確かにあの軟弱も喉もにはきつかったかもしれねーが、これくれーしねーと俺の心臓は動いてくれねーからな……まあ、でももうじき飯だっつーんなら、引き上げてもいいか」


 その時、桃はその異様な相貌に慄然とする。

「……君……ちょっと様子おかしくないか……」


「……ああん? へっ、なに言ってんだよ」


 いつもの憎まれ口を叩くが、それすらも桃には異様にしか写らない。

 頬はこけ、目は落ち窪み、何よりもいつもの血色のよい色艶の顔が、今は恐ろしいほどに青ざめている。

「ちょっと、まちなよ」

 桃は振り返ることもなく宿へと歩む真央の手を掴む。

 火のように熱い。

 運動を終えた手ではあるが、それを差し引いても尋常ではない高熱を感じる。

「ちょっと、もしかして君、ものすごい熱があるんじゃないのか?」


「……はっ、くだらねーこといってんじゃねーよ。俺が風邪なんか引くかよ……」

 数週間前の高熱騒ぎなどすっかり記憶のかなたに追いやってしまったのだろう、真央はそう吐き捨て腕を振り払おうとするが、その腕に力がこもらない。


「……追い込みすぎなんだよ。ただでさえあんな空気の悪い部室に寝泊りして、しかもハードワークで免疫が下がっているんだから……」

 ぐいと引き寄せる真央の体は、なにか糸の切れたマリオネットを引き寄せるほどの手ごたえしかない。 

「……君のことだ。ずっと皆に隠していただろ。まったく、せめてもう少し早く処置していれば……」

 そして、無理矢理


「……お、おい、ちょ……」


 桃は、真央の頭に手を回すと、自信の額につけ、そして首元に手を触れさせた。

「……無理だよ、マー坊。運動したの差し引いても、普通の熱じゃないよ。残念だけど、今回は棄権したほうがいい」


「……っざっけんな……」

 その勇ましい言葉とは裏腹に、真央の体は力なく桃の肩口へと寄りかかる。

「……こんなもんかぜひいたうちにはいんねーよ。飯くって寝ればすぐ……」


「明日は検診もあるじゃないか」

 厳しい口調で話す桃の肩口の真央の体は、悪寒により激しく震えていた。

「くすりで無理矢理熱を下げても、それは一時的なものだ。そんな体調で、あの“天才ボクサー”と同じリングで遣り合えるのか? 今回は諦めて、また次の機会に――」

 怒鳴りつけられる覚悟で言った桃だったが、真央はもはや桃の肩口でしゅうしゅうと浅く小刻みな呼吸を返すのみだった。

 


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