5.30 (金)17:30
「あ、先生!」
桃が、偶然にも見かけた見慣れた姿に声をかける。
「あら、釘宮さん。それに、礼家さんも」
高崎駅から在来線でおよそ二十分、前橋駅に降り立った桃と葵は、自分たちの担任、そして聖エウセビオ学園ボクシング同好会顧問の岡添絵莉奈に会った。
「お疲れ様です、岡添先生」
恭しく、おしとやかに頭を下げる葵。
「確か開会式は十六時半からだとお伺いしていたのですが……」
葵はちらり、左手首を返して腕時計を確認する。
「もう終わっていらっしゃるみたいですね」
「……まあ……そうね……」
最近特に色気を増した岡添の雰囲気が、その疲労とともにこぼすため息とともに一層引き立つ。
しかしその威容に疲れきった表情に、桃は何かを感じ取る。
「……もしかして、会場で何かあったんですか?」
「……ええ、それが……」
と岡添が口を開こうとした時
「あ! 桃ちゃーん! おーい!」
岡添の後から、聴きなれた甘ったるい声が響く。
「本当にわざわざ来てくれたんだー! ありがとー!」
釘宮桃の妹、聖エウセビオ学園ボクシング同好会マネージャーの奈緒が、再会を喜ぶ子犬のように飛び跳ねながら三人の元に近づいてきた。
「桃ちゃんだけじゃなくて葵ちゃんも! うわー! これだけいれば、マー坊君も丈一郎君も、絶対に負けるはずないんだからー!」
「……ったく、わかったわかった。わかったから、少しは周りの目を気にしようね」
眉間にしわを寄せ、目じりを抑えてため息をつく桃。
「ところで、あの男どもはどうした? もしかして、先に宿に帰っちゃったのか?」
「……うん……まあ、ね……」
先ほどまでの突き抜ける笑顔を、急に曇らせる奈緒。
「……先生もそうですけど……ものすごく表情がお疲れのようですね」
心配そうに声をかける葵。
「……お察しの通りよ」
ため息をつきながら、眼鏡のブリッジを押し上げる岡添。
桃は、真剣な表情で訊ねる。
「……もしかして、またあのバカが何かやらかしたんですか?」
ふう、深海よりも深いため息をつく岡添。
「お察しの通りよ……まあ、あの子の性格考えたら、それも当たり前のことなのかもしれないけれど……」
――ザワザワザワ――
「……マジで?」
顧問の手により行われた組み合わせ抽選、それが会場の壁に張り出された時、川西丈一郎の表情は凍りつく。
自らの参加する関東Bのトーナメント以上に、その視線はウェルター級Aの山に釘付けとなった。
「……こんなのって……」
胸元で両手を急、と押さえ、何かに祈るような表情を見せる釘宮奈緒。
「……も、もしかしたら、こ、これが事実上の……」
対照的に拳を硬く握り締め、鼻息荒くトーナメント表を見つめるレッド。
「い、一回戦から事実上の決勝戦じゃないですか!」
「どうやら、そう見てーだな」
その言葉、そのシルエットに、トーナメント表前の人だかりが、モーセの割った海のように一筋の道を作る。
「ま、さっさと本チャン終わっちまったほうが俺もらくだしな。岡添センセも粋なことしてくれるぜ」
その屈強な肉体を聖エウセビオ学園のジャージーに包んだ、秋元真央も気だるそうに呟く。
そしてその呟きに、小さなどよめきが会場内に響く。
東京都代表として初めて参加する関東大会、しかしすでに秋元真央の名は、関東の高校ボクシング関係者には知れ渡っているようだ。
しかしそのどよめきは、更なるどよめきによってかき消された。
「……くだらねー減らず口はその辺にしとけよ」
そのどよめきの中に、少なからぬ黄色い声援が入り混じる。
上毛商業高校ボクシング部、すでに高校二冠を達成した地元のヒーロー、神埼桐生はクールなその姿をゆらりと現した。
「……コバエ見たいに俺の周り他からっれるのもうっとおしいからな。さっさと叩き潰して決勝戦までに手中させてもらうことにするよ」
「地元開催だからって強気じゃねーか。いきがってんじゃねえぞ」
突如現れた神埼桐生の姿に、真央は表情を強張らせてその胸を突き合わせる。
「綾子だけじゃねえ。てめーの仲間とか地元の連中に、てめーが無様にマットにはいつくばる様しっかりと焼き付けてやるよ」
東京代表の新星に対する敬意の空気は、その真央の言葉で一変する。
「何だとこの野郎!」
「てめえ桐生さん相手に、何様のつもりだ!」
上毛商業のジャージーを着た、神埼桐生の後輩達が真央に詰め寄る。
しかし真央は、神埼から一ミリたりとも視線をはずそうとしない。
「ちょ、ちょっとマー坊君!?」
「ま、まずいっす! マー坊先輩!」
レッドと丈一郎が慌てて真央を神埼の元から引き離そうとするが、その体はびくともしない。
「そ、そうだよ、マー坊君! ちょ、ちょっと落ち着いたら――」
「はっ、地元の英雄気取りかよ。気取りやがって」
仲間たちの静止もものともせず、吐き捨てるように言う真央。
「天才だかなんだかしらねえがな、上には上がいるってこと、思い知らせてやるよ」
「……悪いが、俺が俺を天才って呼んでいるんじゃない。回りが勝手に言ってるだけだ」
眉間にしわを寄せ、鋭い視線を突き刺し返す神埼。
「……お前みたいに自分のことを大天才、だなんて自称できるほど俺は頭弱くないんでね」
二人の言葉が互いにフレームアップし合う中
「――ほーい、ストップストップ。その辺にし解けよお二人さん」
おどけた表情で二人の体に分け入る姿。
「何があったかわかんないけどさ、お前等もう少し落ち着けよ。ボクサーがリングの外で、拳じゃなくて胸つき合わせるなんてさ、全然に絵にならないだろ?」
「ってめえは」
「……あんたは……」
拍子抜けしたような表情に変わった両者は、その言葉に従い素直に体を引き離す。
両者の間に分け入ったその顔を確認した聖エウセビオの三人の顔にも、安堵の色が浮かぶ。
「「鄭さん!」」
「て、鄭さん、た、助かります」
「よっ、大変だったな」
三人に対し、少々気障な仕草でウィンクを飛ばす鄭。
鄭は神埼に対し声をかける。
「久しぶりじゃん、神埼。何があったかは知らないけどさ、俺もお前もインターハイ優勝狙ってるわけだし、こんなところでバカ相手にして出場停止なんか食らった日には、ばかばかしくってやってられないぞ? ここは俺に免じて、引いてやってくれよ」
先輩ボクサーでもある鄭の言葉に、神埼は舌打ちをして引き下がる。
「……ここは鄭さんに免じて引いてやるよ。だが、お前みたいな野郎、リングの上だろうと外だろうと、まけるつもりなんて一ミリもねえよ。明日、一回戦まで首を洗っ待ってることだな」
そういうと、神埼はきびすを返し、仲間を引き連れて会場を後にした。
「たく、世話が焼ける連中だよ……」
腰に手をやり、やれやれ、とでもいたそうな、呆れたようなため息をつく鄭。
その瞬間
ガンッ!
「あだっ!」
「余計なことするんじゃねえ! 誰がバカだとこの野郎!」
鄭の頭に、真央の拳がめり込んだ。
「……ってーなぁもう……俺のおかげで二人とも出場停止とかならなかったんだから、感謝しろよ……」
真央の理不尽な暴力に、頭を抑えて顔をしかめる鄭。
「……んなことより、さっきのお前等のこと、運営のほうに伝わってみたいだぞ。俺が止めなかったら、マジで出場停止とかなってたかもしれないぜ。ほら、俺がとりなしてやるから、運営のほうに報告行くぞ」
「……なんで俺だけなんだよ……」
最初に因縁を吹きかけておきながらも、ぶつくさと真央はこぼした。
「あのあと、西山大学附属の鄭選手と秋元君が本部のほうに来て、私も一緒に平謝りよ……」
疲労感の濃いため息を岡添はこぼした。
「まあ、ライバル同士なのはわかるけど、あの秋元君があんなに余裕なく詰め寄っただなんて、ちょっと信じられないわ。いつもなら、“大天才のこの俺が負けるはずはない!”なんて余裕を口にしているはずなのに……」
「……それは……」
奈緒は、ちらり、と桃の表情を確認する。
こくり、桃は頷いて岡添の前に歩み出る。
「……本当は、こんなこと先生に話しても仕方がないとは思うんですけど……こうなっちゃったからには、岡添先生にも知っておいてもらった方が言いと思うんです」
その真剣な表情に何かを感じ取った岡添も、真剣な表情で頷く。
「何か理由があるみたいね――」
「――そんなことがあったのね」
前橋駅を後にして歩くこと十数分、見つけた喫茶店を見つけた四人の女性は向かい合って座る。
「その、綾子さん、って言う女の子を巡って、秋元君と神崎君が争う、か」
岡添はロイヤルミルクティーを一口含んだ。
「もしかしたら、秋元君は聖エウセビオを去るかもしれない、ってことなのね」
「はい」
桃は頷いた。
「……ボクシングに関して常に強気のあの秋元君があんなことになったのは、そういうことだったのか」
耳元で髪の毛を掻き揚げる岡添。
「……正直、私には恋愛とかそういうものはわからないけれど、秋元君にとって何もかも捨ててしまっても言いと思えるくらい、その女の人は素敵な人ってわけか――」
口元からは、ミルクティーに混じった熱いと息が漏れる。
「妬けちゃうわね」
「……岡添先生」
教員としての立場を超えた、隠しきれない真央への感情を感じ取った葵は表情を曇らせる。
そして、同じく菜緒もまた。
「そして、その関係性に決着がつくまでに、後二十四時間の猶予もないのね」
岡添は、ことり、テーブルの上に眼鏡をおく。
「我ながら……本当煮の巡り会わせが悪いわね。今日の組み合わせ抽選会も……秋元君のことも……」




