5.30 (金)15:50
――シュゥウン――
「そう言えば私、新幹線に乗るのって初めてかもしれません」
車窓から差し込む赤い夕陽に照らされる、葵の白く透き通る肌。
紅潮する白い肌は、まるで染付の陶磁器のように鮮やかだった。
「そう言えば、桃さんはこの間紫さんを送り届けた時に乗られたのですよね。今思えば、私もご一緒すればよかったです」
「そんないいもんじゃなかったけどね」
葵と同じく、制服に身を包み憮然とした表情で窓の外を眺める桃。
「ていうか、何であたしまであのバカの応援に行かなくちゃならないんだ。そもそも、あたしだって関東大会来週に控えてるんだから。貴重な土日つぶす暇なんてないんだけど」
「そこは、まあ……私のわがままにつきあっていただいてありがとうございます」
葵は、ぺこりと頭を下げた。
「まあ……別に葵がそこで謝る必要もないんだけど」
葵の美しい微笑みに、何故か桃は頬を赤くして視線をそらした。
「けど、わざわざあいつの一回戦に合わせて、会場近くに泊まるなんて真似、葵らしくないな、って思っただけだから」
桃の視線は、上部網棚に置かれた二つの大きめのバッグに注がれる。
「私は……私も、綾子さんがどういう方なのか、ちょっと興味ありましたし。それに……」
制服のスカートを、きゅっと握りしめる葵。
「……真央君のことですから。もし神崎選手に勝利して綾子さんを自分自身のものにしたら、そのまま私たちの前から姿を消してしまうかもしれないって思えてくるものですから」
「まあね、確かにあのバカ、何にも考え無しでその場の感情で行動しちゃうから、そう言うこともありうるかもね」
東京駅のホームで購入した、ブラックコーヒーのそそがれたカップを一口すする桃。
「けど、もしそうだったとしても、それはあいつの選択だから。あたしたちが止める筋合いでもないしね。好きなようにやらせればいいよ」
「冷たいんですね、桃さんは」
美しく山を描く眉と眉との間に小さなしわを寄せ、少々怒った様な表情を見せる葵。
「私は、奈緒さんや桃さんみたいに、真央君と一つ同じ屋根の下で生活したわけではありません。もっと遺書に触れ合う機会が欲しいと願っていました。それが……それがこんな形でお別れだなんて、私は嫌です」
「それじゃあ奈緒と一緒だよ、葵」
うぅん、と背筋を一つ伸ばし、桃はこともなげに言い放った。
「大体葵は、奈緒にマー坊を信用しろって言ったじゃないか。あいつの気持ちなんて誰にも押し量れないんだからさ、だったら、あいつはまた帰ってくる、って思って待っていればいいさ」
「それはそう……ですけど……」
さすがの葵も言い返す言葉がない。
しゅんと、しおれた花のようにうなだれた。
「大丈夫だよ、葵。よいしょ、っと」
桃は腰を上げ、向かい合い座る葵の、その隣の空いている席に再び腰を降ろした。
「すくなくてもさ、まあ、葵は見ていないからわからないだろうけど、むしろかわいそうなのはマー坊のほうだと思うんだ」
「真央君が……ですか?」
きょとん、とした表情で隣の桃の顔をうかがう葵。
「うん。まあ、あたしもなんとなく、なんだけどさ」
そして、水分をたたえ潤む葵の視線を、微笑とともに真っ直ぐに見つめる桃。
「綾子さんは……綾子さんと神崎君の間に、かわいそうだけどマー坊の入り込む余地なんて、ないんだよ。間違いなく」
桃の胸には、神埼のことを想い、瞳を潤ませ頬を赤める綾子の姿が去来する。
「マー坊は、マー坊自身も言っているように、綾子さんに惚れている。けど、綾子さんは神崎君を、神崎君は綾子さんを、お互いをかけがえのない存在として求めて、受け入れていると思うんだ。だから、マー坊がどんなに綾子さんを好きだろうと、正直無駄なことだと思うよ」
「ですが、神崎選手は、真央君と綾子さんをかけてリングに上がることを了承したのですよね?」
小さく首をかしげ、疑問の言葉を口にする葵。
「桃さんのおっしゃるとおりだとすると、まあ、リング上の勝敗はともかく、こんなことは全くの無意味、ナンセンスなことにしか思えないのですけれど」
「あの二人、正反対に、水と油か、火と氷くらい違うんだけどさ」
――ゴオッ――
トンネル突入による気圧変化に、一瞬顔をしかめる桃と葵。
こくり、耳元の不快な圧迫を解消するため、桃は一口コーヒーを口にする。
ふう、小さくため息を一口こぼし、桃は言葉を続ける。
「結局はさ、男なんだよ」
「おとこ、ですか」
同じく、ペットボトルのお茶をすする葵。
「申し訳ありません、おっしゃる意味がよく分からないんですけれど」
「いいかえればさ、男なんて、いくつになっても子ども、まあ、ガキなんだよ」
眉を潜め、少々のあきれを含んだ微笑を桃は葵に向けた。
「リングの上でも、リングの外でも、俺はあいつより強い! 俺のほうがすごい! そういうことを何かにつけて証明したいだけなんだよ。どちらがボクサーとして強いか、そして、どちらが綾子さんにふさわしい男か、その点に関しては、あの二人は世界中の誰よりも自信があるってだけなんだ。二人とも、自分が負ける可能性なんて何一つ頭の中に入っていないんだから」
「……神崎選手は、クールに見えて熱いお方なのですね」
小さく頷く葵。
「真央君は、あれだけ熱い人ですけれど、どこかこう……さめているというか、そういうものを感じさせるときがありますね。確かに、百八十度違うようで、すごく似たもの同士なのかもしれません」
「綾子さんが神崎君に魅かれたのも、もしかしたらどこかにマー坊の面影があったからかもしれないね」
桃は、駿馬のたてがみをいつくしむように葵の美しい髪を撫でた。
「あの男達より、当然あたしたちよりも、だけど、綾子さんは大人の女性なんだよ。苦労してきたからなんだろうけど、実年齢よりもずっと。だから、あの男達の意地の張り合いに、仕方なく付き合って、というか巻きこまれてあげてるだけなんだろうね。だから、神崎君が望まない限り、綾子さんが神崎君の元から去ることはありえないよ」
その言葉に、再び表情を凍りつかせる葵。
「……だとしましたら、もし神崎選手が、勝負の結果、綾子さんとの別離を選択するとしたら……」
「まあ、あの意地っ張りたちのことだから、ありえない話じゃないよね」
桃は、指に絡めた葵の髪の匂いをかぐようにして言った。
「けど、例えば葵が綾子さんの立場で、戦いの景品みたいになって、負けたらあいつのところにいけ、なんて了承できると思う?」
「絶対に無理です!」
葵は顔を真っ赤にしてふるふると顔を振った。
「それと同じさ」
今度は、励ますような微笑を葵に向けた。
「綾子さんは、二人の意地の張り合いに付き合っているだけなんだよ。たとえ神崎君が負けたとしても、マー坊のところにいくなんてことはありえないと思うよ。だからこそ、勝っても負けても、きっと一番傷つくのはマー坊なんだ。どんな選択をしようと、それはあいつの行き方だから、あたしたちに引き止める権利はないよ。だからさ葵、葵にできることは、傷ついたあいつがあたしたちのところに帰ってきたとき、精一杯の笑顔を見せて、あいつを受け入れてあげることなんだよ。ね? だから、葵も暗い顔しちゃだめだよ。ほら、笑って」
「桃さん……」
自身の髪の毛に指を絡ませる桃の手に、瞳を閉じて葵は頬を当てる。
そして、ふるふると体を震わせると
「わーん!」
「ちょ、ちょっと葵!?」
「あーん、何でそんなに男前なんですか?」
葵はむしゃぶりつくようにして桃に両手で抱きついた。
平日の上越新幹線、それほど人はいないとはいえ、やはり制服姿の女子高生が抱き合う姿は人目を引く。
「えーん、真央君がどこか言っちゃうなんて、私耐えられないですぅ! 真央君がいなくならないように、桃さんも協力してくださいー!」
「は、ば、ばば、バカ! 離れなって!」
しかし葵はぴったりと体を密着させ、駄々をこねる子どものような口調で、離れようとはしない。
「真央君がもしいなくなっちゃったら、私一生好きな男の方なんてできませんもん! ですから、もし真央君がいなくなっちゃったとしたら、責任とってください!」
密着するからだの隙間に手を滑り込ませ、体を引き離そうとする桃。
「せ、せ、責任ってなんだよっ!」
「責任とって、私と結婚してくださいっ!」
「バカなこと言うんじゃないー!」
「ったくもう、はずかしいったらありゃしない」
葵の向かいの席に座りなおし、上気した顔にへばりつく髪の毛を耳元に掻き揚げる桃。
「申し訳ありません……私も少し取り乱してしまいました……」
こちらも恥ずかしそうにぎこちない笑顔を作る葵。
「けど、なんだかわかった気がいたしました。なぜ下級生の女の子達が、桃さんの下駄箱に毎回毎回ラブレターを入れていくのか、そのお気持ちが」
口を真一文字に結び、きっと葵を睨みつける桃。
「私にそういう趣味はないっ!」
するとがくりとうなだれて、頭を抱えて恨めしそうにこぼした。
「……なんで皆そんな誤解するんだよ……あたしは別に女の子が好きなわけじゃないし、男が嫌いとかそういう性癖なわけじゃないのに……なんであの子達はあたしを“お姉さま”扱いするんだよ……」
「まあまあ、よろしいじゃありませんか」
ぽんぽん、とその背中を優しく叩く葵。
「もしかしたら、そういう世界もよろしいかもしれませんよ?」
「ふざけたこというんじゃないっ!」
いきり立ち叫ぶ桃の姿は、再び車内中の注目を集める結果となり、ほおを赤らめた桃はすごすごと体をちいさく丸めた。




