5.25 (日)20:20
「……ふう……」
葵は全身全霊を込めて、七十キロ近い筋肉の塊を、おそらくは真央が寝床にしているであろうマットまで運んだ。
「……それにしても、全然目覚めないのですね……」
葵はドスンと、その小さく形のよい腰を真央の横たわるマットの横に降ろした。
そして、くうくうと心地よさそうないびきをかく真央に、その横に散乱する毛布をかけようとするが
「そういえば、真央君、夜の練習が終わったばかりで、ものすごい汗をかいていらっしゃいますね」
葵のいうとおり、真央の体は玉のような汗に輝き、上半身は裸であったが、下半身に纏うトランクス羽部鳥と水でもかぶせたような汗にまみれていた。
「……さすがに、これでは風邪をひてしまいますね。それに、空気もあまりよくありませんし……」
葵は立ち上がると、部室中の窓を開けて空気の入れ替えを行った。
「とりあえず、しばらくこのままにして置けばよろしいでしょう」
そういうと、葵は自身のバッグの中から、綺麗にアイロンのかかった、リボンの柄のついた白いハンカチを取り出した。
「やはり、汗まみれでは体によくありませんものね。今週は関東大会が開催されるのですから」
そういうと、真央の体を丁寧に拭き始めた。
しかし、その小さなハンカチでは、真央の大柄な体を完全にふき取るには至らなかった。
「……どこかに、真央君のタオルなどは……」
すると、横のバーベルの上に、無造作にスポーツタオルが掛けられてある。
おそらく、真央自身のものだろう。
葵は、そのタオルを手にとって、再び真央の体をふき取ろうとする。
「……これが、真央君のタオル……」
葵は、誰もいないはずの部室を、無意識の内に丹念に見回す。
そして
「……ふわ……ん……」
目を閉じ、そのタオルで自身の頬をうずめた。
「……これが……真央君の香りなのですね……このタオルが、この真央君の体を……」
葵は、また男無意識にそのタオルをいとおしげに頬ずりする。
葵の鼻腔をくすぐるのは、しっかり浸され芳香を放つ、釘宮家の柔軟剤の匂い。
しかし、その中にわずかに漂う、真央自身の男の匂い。
「……いまさらではありますが、桃さんや奈緒さんが羨ましいです……真央君と一緒に暮らせるだなんて……もし、私が一緒に暮らすことになったとしたら……」
そういうと、葵の体は硬直し、その顔は、ぼん、と破裂したように紅潮した。
そして、こつん、葵は自分の頭に小さくげんこつをお見舞いした。
「……まったく、何を想像しているのでしょう、私は……」
気を取り直した葵は、その大振りのタオルで真央の体のふき取りを再開した。
針金を束ねたように指示ばった首筋の、しわの一つ一つまで丁寧に汗をふき取る。
小高い丘のように盛り上がった肩、脂肪のかけらすら見当たらない、八つに割れた腹筋、そして、硬く引き締まった胸筋。
葵は、そのすべてを、ひとつひとついとおしそうに丁寧にふき取った。
「……相変わらず、美しい体……もう、これは一つの芸術品ですね。ボクサーの肉体というのは……」
そのあらかたを拭き終わると、今度は下半身のふき取りにかかった。
「……太い足……あれだけ毎日走り込んで、そして縄跳びやプールトレーニングをなさっているのですから、当然ではあるのでしょうけど……」
その長く太い足も、丁寧に葵は拭きとった。
「……さすがに、このトランクスの中までは、反則ですね……」
葵はまたもや頬を赤らめ、一瞬よからぬことを創造してしまった自分自身に苦笑した。
「これで、よろしいでしょうか」
ふう、と葵は、手にしたタオルを首に掛けて一息を付いた。
真央の横に、女性らしい仕草で腰を落ち着ける葵。
「……もしこの戦いが終わったとしたら、やはり綾子さんのところに言ってしまわれるのでしょうか……」
一息ついた葵の心に、桃から着た、綾子、そして神埼桐生のことが浮かぶ。
下唇を、血が出そうなほどに噛む葵の両目に、じわりと美しい涙がにじむ。
「……奈緒さんの前ではあんなこといいましたけれど……私だって……私だって……真央君を私のものにしたいのですから……」
ぽとり、にじむ涙は水滴となって真央の胸元にこぼれる。
「……真央君……」
葵は真央の両脇に、覆いかぶさるようにして両手を置くと、その手をゆっくりと縮めていく。
葵の心臓は、破裂しそうなほどに高鳴る。
そして、ゆっくりと、真央のその裸の胸元に顔と体を横たえた。
「……どこにも行かないでくださいね、真央君……桃さんも、奈緒さんも、川西君やレッドくんだって、あなたともっと一緒にいたいと持っています……なにより……私も、誰にも負けないくらいあなたのことをいとおしく思っているのですから……」
今度はひとかけらの躊躇もなく、葵は真央の腹筋や胸元、肩口に、その白魚のような指をゆっくりと這わせる。
白磁のような手のひらで、真央の背中をやさしくさする。
「……不思議な気持ち……こうしていると、私の頭の中にあった、いろんなものが吹き飛んでいきそう……私の心のたがが、ばらばらにはじけ飛んでしまいそうになる……」
その顔を少し傾けると、真央のしっとりと湿り気を含んだ頬に、葵の色艶のよい唇が触れてしまう。
「……いけないとは、頭ではわかっているのですが……頭がくらくらして、何も考えられない……」
造り酒屋の令嬢として育てられ、礼儀作法や言葉遣い、あらゆる点で曇りなき大和撫子の典型例として育てられてきたような葵。
その教育やしつけも、自分の舌で気持ちよさそうに意識を失うこのいとおしい男の前では、まるで役に立たないことに葵は気がついた。
「……弱いですね、私は……この男の人を前にしてしまうと、もう何もかもがどうで男よくなってしまいます……」
そして、またゆっくりと瞳を閉じ、そして誰に対してのもの河から無いような言葉を、吐息混じりに吐き出した。
「……いいんですか? 真央君……こんなに気持ちよさそうにお休みになられていますけれど……いまあなたがこうして無防備にお休みになられているということは……あなたをどうしようが、私の思うが侭なんですよ? それにお気づきですか?」
その言葉通り、意識のスイッチを完全に断ち切った真央は、一層深い寝息を心地よくあげる。
「……どこかに以降なんて、私は許しませんからね……」
そういうと、葵はややサディスティックな表情を浮かべ、真央の胸元をぎゅうとつねる。
しかしそれでも、真央のまぶたは硬く閉じられたままだった。
「……まったく、こうまでしても私の存在に……私の気持ちにお気づきになられないのですから……」
赤く残るそのつねった後に、葵はそのしっとりとした血色のよい唇を小さく触れさせる。
「……ここまでですね……これ以上は……なんとか、かろうじて残った理性のいうことに、今日は従うことにいたします……」
そういうと葵はいつものあの穏やかな微笑を浮かべ、そして名残惜しそうに真央の熱い胸元から顔と体を引き離した。
「私は、真央君を信じていますから。だれよりも、うん、世界中の誰よりも」
葵は手際よく部室の窓をしめ、そして真央の体に毛布をやさしくかぶせた。
「おやすみなさい。今夜は、ゆっくりと、ね」
バッグと紙袋を持った葵は、静かに部室の電気を落とした。
「起立、気をつけ、礼」
号令に従い、教室の中の生徒たちは一様に疲れた顔を隠しながら頭を下げる。
どこにでもありふれた、教室の放課後の風景。
しかし、異なった点がる。
窓の外の風景、空にはすでに美しい星がきらめいていた。
上毛商業高校定時制の放課後、綾子は手早く教科書類をまとめ、それを肩にかける。
すると
「……よう」
教室の後のドアに現れた顔に、疲れも吹っ飛ぶような明るい表情を浮かべる綾子。
「桐生、待っててくれたんね」
「……ちょうど練習終わったところだよ。一緒に帰ろうぜ」
「……なあ、本当にあいつのこと、なんとも思っていないのか」
綾子の横を歩く桐生は、言葉数少なくダイレクトに訊ねた。
「……あの野郎、秋元の野郎、お前の広島時代の連れだってんだよな」
「どうしたん、急に」
落ち着いて、優しく言葉を返す綾子。
「前にもゆうたじゃろ。あの子はぁ、確かに知り合いだったし、うちにとっても大切な子よ。だけどね、あんたとあの子は違う。あの子は……うちにとっては、弟みたいなもんよ」
「……その弟みたいな奴、俺がリングの上でぼこぼこにしても、文句はねえよな」
氷のような冷たい目で、綾子を見つめる神崎。
「リングに、へんなしがらみ持ち込む必要はないんよ」
不意に立ち止まり、綾子は神埼に言い放つ。
「あんたとまーちゃんはボクサーとして、どちらの技量が優れているか証明しあうためにリングに上がるんよ。うちのことはええの。だから、心を透明にしてリングに上がってね。それに――」
綾子は、つま先立ちをすると、不意に神埼の唇に自身の唇を触れさせた。
「――それに、うちが一番すきなのは、桐生じゃけ。勝とうが負けようが、うちは桐生を一番好いとるんよ」
「……綾子」
今度は桐生が、その唇を綾子の唇に絡めた。
「……負けるはずはないさ、この俺が。俺を信じてくれ。勝者としてリングを降りるのは、俺だから」
「うん」
綾子は、穏やかに微笑み、そしてその顔を桐生の胸元にうずめた。




