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    5.25 (日)18:05

「あら」


「ん?」


 シャワー室を出た、少年と少女。

 その二人が、偶然にもばったりと出くわした。


「よう、葵じゃねーか。おめーも部活終わりか?」

 肩にタオルをかけた、タンクトップ姿の秋元真央は、ポケットに手を突っ込んだままにやりと笑う。


「ええ。私もちょうど終わって、シャワーを浴びたところですわ」

 その笑顔に、葵の表情も緩む。

 シャワーにより水分をたっぷりと含んだ青の黒髪が、艶やかに光る。

「そういえば、真央君は今、一人合宿をされてらっしゃると伺いましたが、これから部室に戻るのですか?」


「……んだよ、知ってたのかよ……」

 真央は肩にかけた多ぽるで、ぐしゃぐしゃと乱暴に髪の毛をふく。

「まあな。っつっても、もうじき関東大会本番だから、そのうち切り上げるけどよ。俺が負けるなんてぜってーあり得ないけど、なんつーか……念には念を、ってやつだ」


「……そうですか……」

 葵は俯き、その艶やかな髪の毛を耳元でかきあげた。

 そして顔を上げると、自分にとっての最愛の人物に対し、精一杯の笑顔を振りまいた。

「そういえば、夜のお食事の方はどのように賄ってらっしゃるのですか?」


「ああ? 夕飯の事か?」

 真央は足元に置いたバッグを肩にかけなおすと、とんとん、と靴のつま先を地面に打ち付けた。

「んー、まあ、その辺のコンビニとかで買って、それを夕飯にしてる感じかな。勝手に家を飛び出しといて、夕飯だけ釘宮家に世話になる、ってわけにも行かねーしな」


「関東大会直前で、それでは体によくないと思いますけど」

 葵は心配そうな表情で、真央のもとに駆け寄った。


「大丈夫だよ」

 真央は葵と連れ立つようにしてしゃわルームのある体育館の重い扉を開ける。

「こんなもんで体調壊すほどやわじゃねーよ。それに……それに、いつでも思い立ったときに連取できるっていう方が、今の俺にとってはいい環境かもしれねーからな」


「もしかして、これからまた練習されるのですか?」

 驚愕の表情で叫ぶ葵。

「先ほどまで、あれほど自分自身を追い詰めていたのに? さすがに体を休ませた方がいいのではありませんか?」


「んなぬるいこと言ってたら、合宿の意味がねーだろーが」

 レンガの舗装道路に、真央のぼろぼろのスニーカーの音がぱたぱたと鳴る。

「追い詰めるだけ追い詰めて、リングよりもっときつい環境に追い込まなきゃ、意味ねーんだよ」


「……わかりました……」

 校門と部室棟への分岐点、葵は何かを決心したかのようにキュッと胸をつかむ。

「いつも、夜錬を切り上げるのは何時ころですか?」




「……はあっ……はっ……はっ……」

 練習用のグローブを手に、息を切らせてヘヴィ―なサンドバッグにもたれかかる真央。

 ギィ……真央の体の重量が加わり、苦しそうな音できしむバッグをつるすチェーン。

 葵と別れた後、一時間もせずに練習を再開していた。

 このところ、完全に体の体力が消耗しきるまで、体が休息を求め気絶するまでに自分を追い込んでいる。

 真央自身も、自分がナンセンスなことをしていることを重々承知している。

 しかし、それでも自分自身をいじめ抜くことをやめる気にはならない。

 まるで、人間との生活に慣れ切った了見が、自分自身を再び野生に返すためのトレーニングを繰り返すかのように。

「……ふっ……ふっ……ふう」

 気が付けば、デジタイマーにセットした二十ラウンドはすでに終了していた。

 真央は、何かから解放されたかのように床に大の字になった。

 徐々にその瞼が閉じ、意識が少しずつ朦朧となる。

 その瞬間——


 ガラリ


 古ぼけた、建付けの悪いジムの扉が勢いよく開けられる。

「……あの……練習は終わられましたか?」

 そこから顔を出した少女の姿。

 美しく艶やかな青の黒髪が、涼しげな白いワンピース映える。


「……あ、葵じゃねーか……」

 その姿に、真央はようやく意識を取り戻し、きしむ体に鞭を入れるようにして状態を起して胡坐をかく。

 ちらり、時計に目をやれば、時刻はすでに八時を回っている。

「……どうしたんだよ、こんなところに。こんな時間に出歩いてたら、補導されちまうぞ」


「まあ」

 葵は口元に手を当て、いつもの上品な微笑みを作る。

「それを言うのでしたら、家に帰ることもなく学校に泊まり込んで居る真央君こそ、本来ならば補導されても仕方のないところではないのですか? いくら警備員さんとお知り合いだとはいえ、本来はあまりよくないことなのですから」


「……まあな……」

 そう言うと、真央はサンドバッグの上にかけたタオルを肩にかけた。


「……それにしても……」

 チラリ、葵は伏し目がちに真央の体を見つめる。

 下はかろうじてショートパンツを履いてはいたが、上半身は裸、しかも体中が汗にまみれてキラキラと光を反射している。

 葵はそのしなやかな肢体に目を奪われていた。

「……きちんと汗の始末をしないと、風邪を引いてしまいますよ?」  


「そんなに俺ぁやわじゃねーよ」

 そう言うと、肩にかけたタオルで葵の言う通り、体中の汗をぬぐった。

「ところでどうしたよ、こんなところに、こんな時間によ」


「そうでしたね。今日は気て本当に良かったです。いくら真央君がタフでも、こんな生活していたら、お体の方が心配ですから」

 そう言うと、葵は手にした紙袋から質の良い風呂敷に包まれた箱を取り出した。

「絶対に負けられない戦いなのでしたら、なおさらです。きちんと食べて、体のメンテナンスをしなければなりませんよ?」

 そう言うと葵は風呂敷を解き、その箱の中身を真央に提示した。

「計量とかよくわかりませんので……とりあえす消化がよくて栄誉顔高い、できるだけカロリーの少ないものを選んでみました」


「うぉおおお! まじか!」

 真央は飛びつくようにしてその重箱を除きこみ、手に装着していたパンチンググローブをどこかに放り投げた。

「もしかして、これを届けるためにわざわざ来てくれたのか? わりぃな……」


「お気になさらないでください」

 葵もその場におしとやかに座り、そして真央に箸を差し出した。

「私にも、真央君のインターハイ出場、手伝わせてくださいね。私には、これ位しかできませんから」




「……っぷう……いやー、マジでうまかったわ」

 上半身裸でバンデージを解くこともなく、あっという間に真央はその重箱の中身を平らげた。

「相変わらず葵んちの飯はうめ―よ。久しぶりに夕飯に旨いもん食わせて貰ったぜ」


「いえいえ。お口に合うのであれば幸いです」

 コポコポコポ、葵は持参したポットからお茶を注ぎ真央に差し出した。

「……それよりも……綾子さんを取り戻すことはできそうですか?」


 白々と湯気をくゆらすカップを受け取りながら、真央は舌打ちをしてそっぽを向く。

「お前まで知ってんのかよ……まあな。俺が負けるわけねーんだから、確実だよ」


「……そうですか……」

 一瞬悲しそうな表情を浮かべた後、葵は気丈に微笑んで見せた。

「綾子さんは、真央君にとって、この世で一番大切な人なんですものね。私も、うまくいくようにお祈りしていますから」


「サンキュな」

 不風と息を吹きかけながら、真央はそのお茶をすすった。

「……久しぶりだよ、こんなに自分自身を追い込んだの……それ位……あの神崎って野郎は油断ならねえ相手だ……それに、俺はどうしてもあの野郎から綾子を取り戻さなくちゃいけねーからな」

 そう言うと、真央は手のひらで顔を撫で、そして掌で両の瞼をこすった。

「……なんつーか……この時間にこんないいもん食ったの……何日ぶりかな……」

 くわあ、大きなあくびを浮かべたかと思うと、がくり、真央の頭がこぼれるように傾く。


「真央君!?」

 その様子に、葵は驚きの声を上げる。

「大丈夫ですか!?」


「お、おう……大丈夫だ……英語は中学時代はそこそこ……」


「だめですよ! 真央君! 寝ぼけないでください! そんな汗まみれで寝てしまっては、本当に体を壊しますよ!」

 慌てて真央の体を揺する葵。

 しかし葵は思いだした。

 この男が一度寝てしまえば、それこそ桃の力を借りなければ、学校の教員とて起こすことができないということに。


「……ぬぅあ……あれだ……うん……宿題はあまりやってねえよ……」

 訳のわからないことを呟いたかと思うと、真央は文字通り気を失ってそのまま床に倒れこんだ。


「ちょ、ちょっと真央君?!」


 何度も揺り起こそうとする葵の存在を全く気にかけることなく、真央はそのまま気持ちよさそうにいびきをかいた。


「……どうしましょう……全然起きる気配が……けど……」

 葵の目の前に転がる真央は、ろくに汗をかかずにほぼ完全な裸体。

 夏が近づいているとはいえ、このジムの中は少しずつ津空気が冷たくなっているのが葵にもわかる。

 そして、かろうじて整理整頓がなされているとは言うものの、古ぼけて埃っぽいジムの中。

「このままここにいたら……」 

 間違いなく体調を崩すのは目に見えている。

 葵はこまったように周囲を見回す。

 すると、リングの奥、バーベルなどの機材のおかれた所にマットがしかれており、そして乱暴に毛布が置かれていることに気が付く。

「……きっとそう、ですよね」

 葵は手早く弁当箱を包み、紙袋に入れると

「ん……んんんんんっ!」

 真央の脇に手を入れ、抱きかかえるようにして真央を引きずり始めた。

「と、とにかくっ! あのマットのところに行けばっ! んんんっ!」

 葵は全身全霊を込めて、70キロ近い、筋肉の塊のような肢体を運び始めた。

 


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