5.24 (日) 6:55
――ガタガタガタ――
「……ん……あ……」
建てつけの悪い引き戸の振動が鼓膜を揺らす。
カビでも生えていそうな、埃ですすけたような毛布に身をくるむ一人の少年。
少年はがたがたと響く音に体をおこし、壁にかけられた時計に目を移す。
「……まだ七時にもなってねえじゃねえか……」
すでにボリュームを回復した、その伸び放題のもじゃもじゃ頭をぼりぼりかくと
「だれだぁ? 丈一郎か? レッドか? さすがにちっとはええんじゃねえか?」
少年はその引きとを強引にあけた。
――ガラリ――
するとそこに姿を現したのは
「んんっ! ありゃっ!?」
勢い余って地面にへたり込む一人の少女の姿だった。
「お? な、なんだ、奈緒ちゃんじゃねえか! こんな朝っぱらから何やってるんだよ!」
「――あいたたたた……って、それはこっちのせりふだよ、マー坊君……って……」
奈緒が恥ずかしそうに微笑みながら顔を上げたその視線の先には
「きゃっ!?」
「ん? うぉっ!」
真央は慌てて背後の毛布にもぐりこんだ。
「す、すまねーな奈緒ちゃん。昨日の夜からよ、ずっと練習してて……へへへへ……そのままシャワーも浴びずに練習しててな」
秋元真央は、慌てて練習用のトランクスをはきこみ、しかし相変わらず上半身は裸のまま奈緒の前に姿を現した。
「……えと……あの、その、ね……」
普段はタンクトップ越しで見慣れているのその上半身は、今は何一つまとうものが無い裸体のままだ。
その分厚い胸板、丸太のような腕、そして盛り上がったか賜りの筋肉に、奈緒は言葉もなく見とれてしまった。
「ん、どうした?」
足元に転がるタオルをくびに掛け尋ねる真央。
「ふぇっ!? う、ううん、なんでもない!」
そういうと奈緒は、バッグをごそごそと漁り、大きな箱を取り出して示した。
「どうせ昨日からなんにも食べて無いんでしょー? 大会当日まで時間が無いんだから、体調だけは崩さないようにしないとね?」
「――奈緒ちゃん……」
真央はばつが悪そうに頭をもしゃもしゃかき、そして小さく呟いた。
「……すまねーな。それに、なんもいわねーで勝手に言え飛び出しちまって……なんつーか、いても立ってもいられなくてよ」
「……うん……」
かろうじて笑顔を作る奈緒は、一瞬の躊躇ののちに口を開く。
「……綾子さん……あの後ちょっとお話したんだ……すごく綺麗だし包容力のある人だね……マー坊君が好きになった理由、ちょっと分かった気がした……えへへへ」
ちっ、真央は小さく舌打ちをして、奈緒から体を背けるようにしてどっかと腰を降ろした。
「……聞いたのか……俺の……俺とあいつの昔話をよ……」
「あっ、うん……綾子さんが、自分の見聞きした範囲で、って言うことでなんだけどね……」
そして、布の結び目を解くと、あのいつもの朝食が詰まった弁当箱が姿を現した。
「……マー坊君……マー坊君は、しばらくうちを出ちゃうの?」
「少なくとも……大会終わるまではここで一人合宿、ってところかな」
真央は差し出された弁当をちらりと横目で見るものの、それに手を伸ばそうとはしない。
「……あいつ……綾子見てて思ったんだよ……もともと俺ぁプロになるために東京出てきてよ……それがどういう巡り会わせか、奈緒ちゃんたちと一緒に暮らすことになって……すげーいい暮らしさせてもらってよ……けど、なんかこのままでいいんだろうか、って思ったんだよ……正直、今いろんなことが頭の中でごっちゃんなってて、俺も何がしてーのか、どうなりたいのかすらよくわかんなくなっちまったよ……」
「……けど……」
胸に手を当て、ごくりと喉を鳴らして奈緒は口を開いた。
「……けど、綾子さんのことが好きだ……ってことだけは間違いないんだよね……」
「……」
無言で立ち上がった真央は
ズンッ
右拳を古ぼけたサンドバッグへとねじ込んだ。
「ああ」
そしてサンドバッグへと額を押し付けて言った。
「あいつは俺の、全部なんだよ」
「……そう……だよね……」
うつむいたまま勢い良く立ち上がった奈緒は、真央を見上げることなく言った。
「……そういう気分じゃないのかもしれないけど、ご飯だけはきちんと食べないとだめだよ……お昼の分もあるから、ちゃんと食べてね……役に立たないかもしれないけど……わたしはマー坊君のマネージャーだから……」
そういうとポンポンとスカートのすそを払い、そしてすばやく出入り口へと移動し
「……わたしも……着替えてくるから……」
バッグを抱えてジムから姿を消した。
「……奈緒ちゃん、どうしちゃったのかなあ……」
練習が終わり、シャワールームを後にする丈一郎は、心配そうにこぼす。
「け、携帯電話とかも、繋がらなかったみたいですね」
同じく肩を落としとぼとぼ歩くレッド。
「それに、マー坊先輩も、なんだかいつも以上におっかない形相で練習してましたし……ゆかりさんを送り届けてから、何かあったのでしょうか……」
「川西君!」
その声に振り向いた丈一郎の視線の先に揺れる、つややかな長い黒髪。
「あ、葵ちゃん!」
二人の下に駆け寄る葵は、いつもとは違うその雰囲気に首をかしげる。
「練習お疲れ様です。ところで、真央君と、奈緒さんはどちらにいらっしゃられるのですか? お二人だけで帰られるなんて、珍しいですね」
困ったような笑い顔を作ると、丈一郎は口を開く。
「実は、さ――」
「奈緒ちゃん」
その声に、泣き腫らしたその目をこすり、顔を上げる奈緒。
そこは聖エウセビオ学園の屋上、いつも皆で昼食を取る場所。
「丈一郎君……」
「だめじゃん、なんにも言わずに部活休むなんてさ」
へにゃっ、とした柔らかい笑顔を作る丈一郎。
「ま、たまにはいいかもね。とりあえず練習のほうは終わったから。マー坊君も、いつも以上に張り切ってたて言ってたし、ね。ね、レッド君?」
「そ、そうっすね」
丸い顔に、ぎこちない笑顔を浮かべるレッド。
「話は全て伺いました」
その二人の後から、同じく目を潤ませうつむくように言う葵の姿が。
「……真央君の過去の話も、そして――真央君の最愛の女性……綾子さんのことも」
「奈緒」
そして、そのすべてを伝えたのは
「ったく、あんたまで姿を消しちゃったなんて、心配しちゃったじゃないか。だめだぞ、川西君たちに心配かけちゃ。あんたはせいエウセビオ学園ボクシング同好会の、大切なマネージャーなんだから」
「……ごめんね……」
奈緒は両の手のひらで、ぐじぐじと涙の止まらぬ両目をこする。
「……桃ちゃんはああいってくれたけど……わたし、今のマー坊君を応援する気になんて、とてもなれない……もしマー坊君が神崎さんに勝ったとしたら……マー坊君、学校も辞めちゃって、綾子さんのところにいちゃうかもしれないんだよ? わたしね……」
ちょいちょい、丈一郎はレッドのわき腹を指でつつく。
「いこう、レッド君」
「ええ。そうですね」
そういうと、ボクサー二人は何も言わずに屋上を後にする。
「わたしね……マー坊君に負けちゃえ、なんて思ったりしたの……そうしたら、マー坊君はずっと私達と一緒に暮らすのかなって……けど、応援する選手に負けちゃえなんて、マネージャーとして失格だよ……自分が嫌になっちゃった……」
「……奈緒さん……」
葵は、奈緒の座るベンチのその横に腰掛けた。
「私も、先ほど桃さんからそのお話を伺って……正直、目の前が真っ暗になる思いでした……もしこのまま、このまま真央君が神崎選手に勝利したとなったら……真央君の恋が成就してしまう、ということになります。すごく……複雑です」
すると葵は、奈緒の肩に手を置いて、そして励ますようににこりと微笑んだ。
「けど、大丈夫です。私は、真央君が誰を好きであろうが、私はそれでも真央君が大好きですから。ですから、何の確証もありませんけど、真央君がいつか私のほうを振り向いてくれる、というふうに思っています。好きな人が誰を好きであろうと、私が真央君を好きだと言う気持ちは変わりませんから」
「奈緒らしくないな」
二人の後に立つ桃が、その肩を抱くようにして両者の間に顔を挟んだ。
「今回は葵のほうが正解だと思うよ。そりゃあんたの立場は、あんたになってみなければ分からないところもあるかもしれないけど、あんたが本当にあのバカのことを好きだって思うなら、信じてあげるべきじゃないか。その、好きだって男をさ」
そして、左手で奈緒の頭を優しく撫でた。
「好きな男が、自分の人生にわだかまりを抱えたまま、気持ちのけりがつけられないままでいkていく事を見るの、あんたは嬉しい?」
プルプル、小動物のように奈緒は頭を振った。
「わたしは、そんなの嫌だよ。世界中にたくさんの女の人がいる中で……わたしだけを一番好きだって思ってくれなくちゃ、嫌だもん。そうじゃなくちゃ……もし恋人同士になれたからって、意味が無いもん」
「私もそう思います」
葵は上品に口元を緩め、そして奈緒の手をとり瞳を見つめ
「まずは、真央君が自分の気持ちに整理が付けられるまで、私ならば待ちますわ。そして、もしその綾子さんの元に真央君が行くという選択肢を選んだとしても……」
そして、大きく微笑む。
「いつか、必ず真央君を振り向かせて見せますもの。絶対に諦めませんよ。私こそ、この世で誰にも負けないくらい真央君のことが大好きですから」
「……葵ちゃん……」
いつもの葵からは思いもよらない強い言葉を耳にした奈緒は、驚いた表情を浮かべた後
「えへへへへへへへへへー」
こちらはいつもの、あの明るい大きな微笑へとかわった。
「うんっ! わたしもマー坊君のことが大好きだからっ! マー坊君のこと信じて、一生懸命応援するよ! わたしも、負けないんだから!」
「ええ。私も、負けるつもりなんてありませんから」
同じく上品な微笑を葵は返した。




