5.23 (土)13:30
“桐生に出会えたことで、ようやくうち、やすらぎと暖かさを手に入れられたような気がしたんよ”
――シュゥゥ……ン――
カタカタとわずかに揺れる新幹線車体、無言のままに向かい合い、それでいてお互い別々の方向を向く釘宮姉妹。
妹、釘宮奈緒は肩をすぼめ、小さくうつむいたまま。
姉、釘宮桃は頬杖をついたまま、山地の中に散見される住宅などに目をやったまま。
――ゴォッ――
時折、新幹線が長いトンネルに入る祭の気圧の変化に、二人の耳が鳴る。
その感覚に、二人名少々顔をしかめる。
「……ねえ……桃、ちゃん……」
おずおずと口を開く奈緒。
「……あたしね……どうしたらいいのかわからなくなっちゃった……マー坊君は、ずっと綾子さんのことが好きで……けど、綾子さんは桐生さんのことが好きで……それで、マー坊君は、ボクシングで希硫酸に勝ったら、綾子さんと……あたし、もうどうしたらいいのかわかんない……マネージャーなのに……マー坊君を心のそこから応援できなくなっちゃうかもしれない……」
「そんなこと、あんたが気にする必要は無いよ」
妹の問いかけに、ようやくその口を開く桃。
「そもそも、今回の綾子さんとの一件は、マー坊のわがままでしかないんだから。あんたも見たでしょ、綾子さんのあの表情」
こくり、奈緒は頷いた。
その雰囲気には、見覚えがある。
奈緒が髪の毛をセットするとき、真央からもらったカチューシャを頭に載せるとき、真央の事を考えて自然にこぼれる微笑。
思わず、今日も頭に載せられたそのカチューシャに手を当てる奈緒。
「……わたしも断言できるよ……綾子さんは……マー坊君には悪いけど……うん、綾子さんは、心のそこから桐生さんのことが大好きで……たとえボクシングの試合でマー坊君が桐生さんに勝ったとしても……綾子さんの心は……」
「だからこそさ。あんたの大好きなマー坊は、その無駄なことのためにリングに上がろうとしているんだ。けど、綾子さんのことが関係しようがしまいが、関東大会は必ず開かれるんだ」
淡々と、一切の感情を込めずに桃は言った。
「とにかくあんたは、今回のことなんか一切考慮に入れる必要は無い。一人のアスリートを、ボクサーをサポートするマネージャーとしてなすべきことをすればそれでいい。ただそれだけのことさ」
「……そうかもしれないけど……」
その言葉は正論ではあった。
しかし、それがゆえに、奈緒の心の中には釈然としないものが残る。
そう、理屈ではない、心の問題、それも恋心に関わる、だ。
「……わたし、振られちゃったんだね……わたし、前も言ったけど、マー坊君が大好きなのに……けど、マネージャーだから……ずっとその気持ち押し殺していて……その気持ちが抑えきれなくて、破裂しちゃいそうになったときだってあったけど……こんな気持ちになるくらいなら……好きにならなきゃよかったのに……どうしてマー坊君のこと好きになっちゃったんだろ……」
「それはちょっと違うと思うよ。そもそも、始まってすらいないものに、終わりが来るはずなんて無いんだからさ」
桃の口をついて出たのは、意外な言葉。
「えっ?」
「振られるもなにも、あのバカはあんたの気持ちに気づいてなんかいないよ」
首を傾げる奈緒に対し、ち佐奈微笑を口に浮かべる桃。
「それ以前に、あいつはまだ、肉親に対する親愛の情と異性に対する恋愛の上の区別すらついていないんじゃないのかな」
「けど……けど、マー坊君は、綾子さんのことを“自分の女”っていってたよ?」
その瞬間、心の疼きが再び奈緒の胸をちくりとさす。
「それなのに、どうして……どうしてそれが恋愛感情じゃない、と言い切れるの?」
「……それは、まあ……」
何かを言いかけて、そして自身の苦笑がそれをさえぎった。
「ま、あたしが説明するべきじゃないのかもしれないし、その立場には無いからさ。とにかく、今回はあのバカのやりたい様にさせてやりな。そして、その結果がどうであれ、それはあいつの生き方の問題だから。あいつ自身の行き方なんだから、あたし達がとやかく言ったってどうしようもないさ」
「……マー坊君の……生き方……」
そう呟くと、奈緒はプルプルと、雑念を振り払うようにして頭を振った。
「……ごめん桃ちゃん、わたしには何をいっているのか、さっぱりわからない……あたしが子どもだからなのかな……」
「子どもだからっていうより……やっぱり奈緒は女の子なんだよ、間違いなく」
そういって、再び頬杖をついて車窓の外を眺める桃。
「そういう意味では、あのバカは、あんたなんかより、あんたが想像するよりずっとガキなんだよ。だから、今回はとことんまであいつに一人だけで踊らせといて、あたし達はそれを温かく見守ってやる、この間とおんなじさ」
――ゴォッ――
再び鼓膜を押す気圧の変化に、二人はまた顔をしかめる。
「ま、何はともあれ、なるようにしかならないのさ。こういうときは」
励ますように、しかし半ば突き放すように桃は奈緒に言った。
「ただいまー」
自分自身を励ますかのように、あえて明るい声を張り上げる奈緒。
――ガチャリ――
勢いよくリビングを空けると、そこにいるはずの影に声をかける。
「もー、マー坊君、さっさと帰っちゃうんだもんー。心配しちゃ――」
しかし、あるはずの影は、必ずあると革新したはずのその影は、存在しなかった。
ふう、桃は小さくため息をつき、目じりを押さえる。
「――ちょっと奈緒はあいつの部屋見てきて。あたしは玄関を見てみるから」
「……どこ行っちゃったんだろ、マー坊君……」
ソファーに身をうずめるようにして、はあ、と寂しげな深いため息をつく奈緒。
「……一応部屋に荷物はあるみたいだけど……けど、靴も姿も見当たらないし……ロードワークでもしてるのかなー……」
「……ロードワーク、ねえ……」
カチャリ、桃はオレンジジュースの注がれたタンブラーを奈緒の元に吸えた。
「けど、いつも使っているエナメルバッグは見当たらないし、どこかへ行ってしまったとしか考えられないな。まあ、あいつの地理感覚からいって、知らないところにいってしまったてことは考えられないから、お腹がすいたらそのうち戻ってくるでしょ」
―コチ、コチ、コチ、コチ――
「……もうこんな時間だよ……」
奈緒が刺した時計は、すでに午後八時を回っていた。
「どう考えても、何かあったとしか……」
「あいつのことなんて、心配するだけ無駄だと思うけど」
キッチンから、桃の声が大きく響く。
「金属バットでぶん殴ったって死なないようにできてるんだから。もう今日は玄関の鍵閉めちゃいな」
「……でも……」
「あいつだって合鍵持ってるんだから大丈夫だよ」
トレーに夕食を盛りつけた皿などを載せ、桃がダイニングへと姿を現した。
「それに、たとえ野宿したところで、そんな程度でがたつくほどにやわじゃないよ、あいつは」
「けど、もうじき関東大会があるんだよ?」
心配そうな表情を覗かせる奈緒。
「もし怪我とかしちゃったら……風邪とか引いちゃったら……」
「あんただって、それにあわせて調節とかさせてきたんだろ?」
不安そうな奈緒に寄り添うように、その横に座る桃。
「大丈夫だよ。いまさらどうこうしたって、悪あがきにしかならないさ。それに――」
「それに?」
「――それに今日、あいつの生い立ち、聞いたよな」
一転して、真剣な表情で口を開く桃。
「……う、うん……」
その言葉に、今日の昼、喫茶店において綾子より耳にした真央の生い立ちが奈緒の頭をよぎる。
「……マー坊君、わたし達が思っていたより、つらい人生歩んできたんだなあって……マー坊君にとって見たら、わたしがお母さんがいなくて寂しい生活をしてきたなんて、贅沢な悩みにしか写ってなかったんだよね……」
「あいつは、マー坊はあたし達なんかが創造するより、ずっとハードな生き方をしてきたんだ。きっとそう……あいつのリング上の闘争本能ってのは、その生き方の中から、路上でのタフな生き方の中から鍛え上げられていたものなんじゃないかなって思うんだ」
桃は静かに眼を閉じ、そして口を開く。
「それに、言ってみれば、あいつはもともと野良犬みたいな、野生の狼のような存在がボクシングでしつけられたようなものだと思うんだ。だからこそ、あいつはこの家ではその神経を研ぎ澄ますことはできない、って思ったんじゃないかな」
“負けられねー理由ができちまったからよ”桃にとって、その言葉が示すのは、唯一つしかなかった。
「絶対に負けられないあいつが、その牙を研ぎなおすとすれば――今あいつがいるところって……」
「……もしかして――」
その言葉に、奈緒もようやく合点が行ったようだ。
「そういうこと」
にやり、桃の口元は小さく上がる。
「明日も部活あるんだろ? しかも関東大会に向けて調制をしなければならない時期だ。心配する気持ちは分かるけど、あんたがそんなにくよくよして、明日寝坊したらたいへんじゃないか。分かったら今日はさっさと寝て、明日に備えなよ」
「わかった!」
ぴょこん、ようやく持ち前の明るさを取り戻した奈緒は、飛び跳ねるようにソファから立ち上がる。
「いつまでもうじうじしてらんないね! うん! とにかく、マネージャーとしてできることを精一杯頑張るよ!」
すると奈緒は、ダイニングを素通りしてキッチンへと向かおうとする。
怪訝な表情で訊ねる桃。
「どこへ行く気だ? もう夕ご飯なら――」
「明日の準備!」
明るい表情で振り向く奈緒。
「今のうちから明日の準備しておくの! 絶対マー坊君、お腹すかせてるから!」
その言葉に、フッ、と微笑む桃。
「そうだな。選手の体調管理は、マネージャーとしての大切な役割だからな」




