5.23 (土)11:10
「止めんな」
真央は割って入った桃のその手を振り払い、再び桐生に胸をつき合わせて視線を戦わせる。
「取り消せ。こいつが……綾子が俺の女だって言った言葉を」
「……死んでもいやだね」
全く臆することなく睨み返す桐生。
「……昔の知り合いかなんだかしらねえが、別に付き合ってたわけじゃねえんだろうが。後からしゃしゃり出てきて、泥棒猫みたいな真似するんじゃねーよ」
すると、ポケットに突っ込まれた真央の拳に緊張が走る。
それを察知した桐生の拳も、硬く握りこまれる。
そして二人は、それをお互いの顔面へと叩き込み――
「ストップだ、って言ってるだろ」
その二人の拳を、ぐっと押し留めたのは、誰あろう釘宮桃だった。
「マー坊、君は二度と路上で自分のために拳は振るわないって言ってなかったか。その自分の言葉、忘れたとは言わせないぞ。それに神崎君」
鋭い視線で、今度は神埼桐生に視線を合わせる。
「君もボクシングに出会って路上の喧嘩からは卒業したって紫ちゃんから聞いてるよ。ボクサーの拳は、リング以外で振るってはいけないって事、それは当たり前のことだよね。だから今日のところはここまでだ」
「……あ、ああ――」
自分自身の動きを封じ、そして臆することなく堂々と意見を口に知るこの背の高い少女の言葉に神埼は少々たじろぎ、そして拳を解いた。
桃のその言葉と戦闘体勢をやめた桐生の様子に、真央は舌打ちをしてこちらも拳を下ろした。
「……悪いな綾子、胸糞悪いから、俺は先に帰らせてもらうぜ」
そして桐生は踵を返し、背中を向けたまま言った。
「……ああ、と、釘宮、だっけか。一応その紙袋、とっといてくれ。紫は、綾子にきちんと送り届けさせるよ。世話になったな」
そういってそのまま一人で公園を後にしようとした。
すると
「こいつを綾子なんて、おどれがきやすく言うなゆぅとろーが」
再びポケットの中で硬く拳を握り締めた真央は、うなるように神崎の背中にほえた。
「……だったらどうするんだ?」
神埼も、その言葉に再び振り向き、今度は距離を置いたまま真央の殺気を受け止める。
「……お前にとって綾子が昔どんな存在だったかは知らねーが、今綾子は俺の女だ。誰が決めたとか関係ねえ。俺と綾子の問題だ」
「俺は承知してねぇよ」
すると真央は、桐生に向けて祖に右拳を突きつけて見せた。
「関東大会、俺はお前をKOする。こいつの……綾子の目の前でな。格の違いを見せてやるよ。そしたら……そしたらお前は綾子から身を引け」
「マー坊君……」
その言葉に、苦しそうに胸を掴む奈緒。
自分が心から好きな男性が、別の女性のために拳を振るう。
その現実に耐えることができるほどに、奈緒は強くはなかった。
「……不可能だ」
履き捨てるようにして返す桐生。
「……だったらお前も約束しろ。関東大会で俺がお前に勝ったら、二度と俺たちの……綾子の前に姿現すな」
「吐いた唾、飲むんじゃねーぞ」
「……てめーだ」
しばらくの間両者は直立不動でにらみ合ったが
「……本番が楽しみになったな」
桐生はポケットに手を突っ込んだまま、公園から姿を消した。
その背中から一ミリたりとも視線をはずすことのなかった真央は
「わりーな、俺先に帰らせてもらうわ」
桃を振り返り、にぃ、と笑顔を作る。
「この俺が、何があっても負けるはずはねーが――負けられねー理由ができちまったからよ」
「ああ」
桃は表情なく返した。
「新幹線、きちんと切符買えるか?」
「ガキじゃねーよ」
こちらもポケットに手を突っ込んだまま、真央も公園から去っていった。
「本当にごめんなさい……」
両目に涙を浮かべながら、うなだれるようにして頭を下げる紫。
「こんなことになるなんて思っても見なかったから……ただ単純に……もしかして二人が知り合いで……あわせたらどうなるかって思って……それに、綾子さんのことばっか大切にする兄貴が……秋元にぶっ飛ばされちゃえばいい、って考えて……それで……それで……」
四人は公園の近くの喫茶店に足を運んだ。
向かい合わせの四人がけのテーブル席、四人はそれぞれ注文を済ませて腰掛けていた。
「君のせいじゃない、紫ちゃん」
桃はアメリカンコーヒーを一口すすり、ごく当たり前のトーンで紫に声をかける。
「へんな言い方だけど、これは紫ちゃんの……あたしたちのどうこうできるようなことじゃない。もっと大きな……運命としかいえないようなものなんだ」
そして、綾子に向かって言った。
「綾子さん、聞きたいことがあります」
「――まーちゃんとあたしのこと、ね」
力なく微笑み、そしてストレートティーを一口すする綾子。
「ほうね、あんたの……桃ちゃんの言ったように、これはもう運命としか呼べんものかも知れんね。ええよ。うちとまーちゃんのこと、あくまでもうちが直接見聞きした範囲でいいなら、話せるわ」
「すいません」
桃は小さく頭を下げた。
一方、奈緒もうなだれたまま、目の前にあるオレンジジュースに手をつけることなく、心ここにあらずの呈でその言葉に耳を傾けていた。
「うちとまーちゃんが、初めてであったのは――もう五年以上前になるんかね。うちがまだ中学生のときじゃね」
コチリ、ティーカップをソーサーに置き、なつかしそうな表情を作る綾子。
「うちの兄さん……昔から喧嘩ばかりしているような人でね、スジ者……まあ、要するに……やくざもんだったんよ。その兄さんがある日久しぶりに帰ってきたと思ったら、一人の男の子を連れてきたんよ。地回りしとったら、繁華街で大人数人を相手に暴れまわってたらしくてね。それで今度は兄さんにくってかかって来らしいんじゃけど、さすがに当時は兄さんのほうが腕っ節強くてね、まあ、のされたってわけじゃね」
「その子が……マー坊、ってわけですか」
「ほうね。ほいでね、兄さん、まーちゃんの暴れっぷりを気に入ったみたいで、うちにつれて帰ってきてね。ほいでうちが夕飯を作って食べさせてあげたわけ。それからうちに入り浸って、兄さんの後を突いて回って一緒に地回りをするようになって……それこそ家族のように暮らしていた時期もあったわね」
「けど、マー坊はおじいさんと暮らしていた、って聞いています」
今まで真央と暮らしている中で感じていた疑問を、そのまま綾子にぶつける桃。
「そのころから、マー坊には両親はいなかったってことですか」
「ほうね。けど、なんで両親がいなくなったかは、うちの口からはよういわん。あくまでも、うちはうちとまーちゃんとの関係しか言うつもりはなぁよ」
そして、喉を潤すかのようにストレートティーを一口含む綾子。
「あのころはまーちゃん、もうほんと手のつけられないような不良じゃったけど、すごく寂しそうな目をしてた。うちも両親早くなくしてたし、兄さんは組の仕事でほとんど家には帰らんし……きっと、うちらは寂しさを分かち合うようにして生きていたのかも知れんね。それに、まーちゃんもうちの兄さんにあこがれていた部分もなかったわけじゃないじゃろね。きっと、兄さんについて、腕っ節だけで生きるヤクザ者になろうと考えてたのかも知れんね」
「マー坊君が……」
ようやく口を開いた奈緒は、ちゅうとジュースを一口含む。
「うちは、まーちゃんを手のかかるけどかわいい弟のように考えていた。兄さんとうちとまーちゃん、それこそ本当の家族のようにして暮らしとった。けんど――」
かすかに、綾子の方が小さく震える。
「死んでしもうたんよ、兄さんが」
コトリ、綾子はカップをソーサーに戻した。
「ステゴロが……どんなに腕っ節が強くても、兄さんは上に上がれるような男じゃなかったんね。ほいで抗争中の組組織の親分に対する鉄砲玉を買って出て……本当にアホじゃね……金バッヂもらえればあたしを楽にできるゆぅて、ドス一本で相手親分に向かっていって……跳ねっ返って散ってしもぉた。あたしとまーちゃん、二人で病院に行って、それで兄さんの顔を確認したと思ったら、そのまままーちゃんはどこかへ飛び出していってしもぅた」
「そうですか」
沈痛な面持ちで、桃は言った。
「それでその後、マー坊は……」
「何時間かして、ぼろぼろになって帰ってきよった。相手の組事務所に乗り込んで、それで返り討ちにおぅて……うちが傷の手当をしているとき、まーちゃんはずっと泣いとった。その様子を見てたら、あたしも泣けてきてね、二人でずっと鳴き通したんよ」
ふう、小さくため息をつくと、自分自身を励ますような笑顔を綾子は見せる。
「それでうち……身寄りがなくなって……県外の親戚の家に引き取られることになったんよ。ほんの一時の……かりそめの家族はそこでばらばらになってしもぅた、ってわけじゃね。うちが新幹線に乗るときも、まーちゃんは見送りにもこんかった。けど、うちにはそれでよかった。うちも……うちも、まーちゃんの顔みたら、きっと悲しくてやり切れんくなったじゃろうけ……親戚でも兄さんの評判が悪かったんじゃろね、うちは鼻つまみ者になって、いろんなところを転々として……結局うちは中学を卒業した後親戚の家を飛び出して、美容師の見習いをやってなんとか一人でここまでやってきたんよ。けんど、やっぱり高校卒業しとかんと、世の中風当たりが強くてね、ほんで――」
「それで高校の夜間部に入学して、神崎君と会った、ってわけですね」
割って入るように訊ねる桃。
その瞬間顔に明るい色が差し、無邪気な少女の微笑で頷く綾子。
「桐生に出会えたことで、ようやくうち、やすらぎと暖かさを手に入れられたような気がしたんよ」




