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    3.9 (日) 5:30

「ふ、んっ」

 全身の入念なストレッチを終え、桃は軽く伸びをした。

 ヘアゴムでラフにまとめられた後ろ髪は、まさしく駿馬の尾のように飛び跳ねる。

 三月の第二週、桜の季節が近づいてきたとはいえ、朝晩の冷え込みはまだまだ強い。

 そして朝日の昇る時間も、それほど早くはない。

「さて、と」

 その肌寒く薄暗い中を、桃はウィンドブレーカーに身を包み、毎朝の日課であるジョギングへと足を踏み出そうとしていた。

「よしっ、いきますか」

 表情明るく、勢いよく駆け出そうとしたその時

 

「おっす、桃ちゃん」

 同じくウィンドブレーカーに身を包んだ少年が後から声をかけた。

「桃ちゃんもロードワークか?」

 早朝にもかかわらず、元気一杯の表情だ。


「マー坊?」

 その男の名は秋元真央。

 昨日よりこの釘宮家に居候をしている少年だ。

 

「いやー奇遇だな」

 笑いながら真央は頭をかいた。

「プロボクサー志望としてはやっぱり毎日走りこんでおかないと、っておい!」

 

 真央の言葉を無視して桃は走り出した。

 

「ちょっと待てって!」

 真央はあわてて桃の後姿を追いかけた。

 



「はっはっはっはっはっ」

 ゆっくりと呼吸を整えながら桃は走る。

 朝の正常な、冷たい空気が灰から体一杯に満たされていく。

 桃にとって、最も心休まる時間だ。

 

「なあ、ちょっと、待って、くれって」

 その後からついてくるひとつの影。

 秋元真央は桃の後をぴったりと伴走しながら、何事か話しかけてきた。

 

「はっはっはっはっはっ」

 その言葉を無視し、桃はジョギングを続ける。

 強いてその後を走る少年の姿を無視するように。

「はっはっはっはっはっ」

 

「待って! くれって! いってんだろ!」

 併走しながら真央は桃に話しかける。

「しゃべり! ながら! はしんの! きついんだよ!」

 

 すると、ぴたりと足を止め

「うっさいなあ!」

 顔を真っ赤にして叫んだ。

「ジョギング中にべらべら話しかけるな! ペースが乱れちゃうだろ?」


「いやあ、俺初めての場所だからさ」

 へらへらと笑いながら頭をかく。

「桃ちゃんについていけば道に迷わないで済むかなって」


 はあ、とあきれたようなため息をつき

「だったら黙ってついてくればいいだろ?」

 そういって振り返り、真央をおいてランニングを再開した。

 

「おお、じゃあ、そーするわ」

 真央は桃の少し後ろの位置から走り始めた。

 



「はっはっはっはっはっ」


「ふっふっふっふっふっ」


「はっはっはっはっはっ」


「ふっふっふっふっふっ」


「はっはっはっはっはっ」


「ふっふっふっふっふっ」


「…………………………」


「ふっふっふっふっふっ」


「…………………………」


「ふっふっふっふっふっ」


「…………………………」


 次第にペースを落とし、再び桃が立ち止まった。


 それに合わせて立ち止まり

「どうした、桃ちゃん? どっか痛てーのか?」

 心配そうに真央は訊ねる。


 声をかける真央のほうを振り返りもせず

「……先に行って」

 うつむきながら答える桃。


「どうしたんだ? 急に」

 その様子の変化に戸惑う真央。


 すると桃は右手で前方を指差し

「ここからまっすぐ行って、神社の前折り返せば大体五キロだ」

 そして小さく肩を震わせながら

「だから、勝手に行って!」


「お、おお。そうか。わざわざ教えてくれてありがとな」

 小さく頭を下げ、桃に感謝の言葉を述べた。

 

「……わかったなら、早く行って」

 背中を向けながら振り返り、睨むような表情を見せる。


「いや行くけどよ」

 その表情に、真央はあることに気がついた。

「つーか、なんで桃ちゃん顔真っ赤なんだ? やっぱ体調悪いのか?」


 その言葉に、桃の顔はいっそう赤みを増した。

「うるさいな! いいからさっさといけ!」

 

 わけもわからずに怒鳴りつけられた真央は

「ああもう! わかったって!」

 そういうとペースを上げ走り去った。

「わけわかんねえ。怒鳴らんでもいいだろ。ったく……」

 というつぶやきを残しながら。

 

「……本当にデリカシーってもんがないんだから……」

 無防備な後姿を凝視され続けた桃の顔が赤く染まっていたのは、おそらく朝焼けのせいではないのだろう。

 無意識に、その小さく形のよい背後を両手で覆っていた。




 数十分後、すでに朝日は昇り、頬には心地よい春の風。

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ」

 桃に教わったルートに従い約五キロの道のりを走破した真央は、釘宮家へと迷うことなく戻って来た。

 

「あ、マー坊君もジョギングしてたんだ」

 ひょっこりと二階の自室から奈緒が顔を出す。

 

「お、奈緒ちゃん、おはよう」

 タオル出を汗を拭き、ストレッチをしながら真央は奈緒に挨拶を返した。


「おはよー」

 奈緒はふとその隣に目をやる。

 そこには、一言も発することなくストレッチを続ける桃の姿が。

「あー、桃ちゃんもお疲れ様。二人で仲良くランニング?」


「……」

 奈緒の 茶化すような言葉を無視し、桃は黙々とストレッチを続けた。


「えへへへへへ」

 奈緒は頭を掻いた。

「これでふたりともほんとにいとこ同士見えるよ」

 そういうと奈緒は、二階の窓の奥に姿を消した。


「そうだ、今日はマー坊を学校に連れて行かなきゃ行けないんだった」

 桃は昨日の一件を思い出した。

「今日は少し早く出なくちゃいけないから、すぐに支度しなくちゃ」


「おお、そういやそうだったな」

 そういうと真央は立ち上がり

「よっし、いっちょ頑張るか」

 ガラス戸を写し身の代わりにシャドウを始めた。


 

「ふっ、ふっ、ふっ」

 ヒュン、ヒュン、ヒュン、左ジャブ、左ジャブ、右ストレート。

 基本中の基本、左右のワンツーをスピーディーに繰り出す。

 軽やかにふとワークを踏みながら、下半身と上半身がしっかりと連動し、一連の動きを形作る。



「ふえー」

 庭に下りてきた奈緒が感心した声を上げた。

「これが子どもの頃からボクサー目指してきた人のシャドウかー」

 桃の目の前で、日常生活を送っている限りにおいては絶対にありえないさまで腕、脚、頭が動く。

 それぞれのパーツごとに意思を持ち、それが目の前にいるはずの相手の急所を的確に捉えている。

 腕が、足が、頭が、体全体が一瞬たりともひとところにとどまることはない。 

「ダンスを踊っているみたい」

 

 桃はストレッチをしながら真央の姿を眺めていた。

 休むことなくシャドウを繰り返す真央の姿を。

 緩やかに握られた拳が宙に放り投げられる様は、少々悔しいがボクシングに抵抗感を持つ桃にも強烈に美しく見えた。

 昨日、引ったくりの警棒をかわし続ける真央の姿に感じていたものだ。

 しかし、自ら攻撃を繰り出すその姿に、昨日とは違う何かも同時に感じていた。

 まるで何かを強烈に欲し、それをつかみ取ろうとしているかのようにも見える。


「ふう」

 真央はひとしきり動作の確認を終えた後

「まあ、こんなもんか」

 ウインドブレーカーを脱ぎ、タンクトップ一枚になりタオルで汗を拭いた。

「いやあ、ありがとな桃ちゃん。おかげで少しこの辺のことがわかったわ」

 

 真央のシャドウに見とれていた桃は

「へ? え、あ、ああ」

 急に話しかけられ、普段よりも数オクターブ高い、間の抜けた声を上げてしまった。

「え、えっと、シャワー……」

 心の動揺を抑えながら、慎重に桃は声を出した。


「え?」

 その聞き取れなかった言葉を真央が聞き返すと


「シャワー」

 桃が繰り返した。

「シャワー浴びるなら早く浴びてきなよ。そんな汗まみれで朝食なんて不潔じゃないか」


 ようやく口を開いてくれた桃に、真央は少々安堵した。

「あ、ああ。俺桃ちゃんの後でいいーよ。居候だし」


「いいから早く行って!」

 ランニングの熱気ではない、別の理由で真央の顔は赤くほてっていた。


「わかったって! そんな怒鳴らんでもいーだろーが!」

 困惑しながら真央はシャワールームへ向かった。


 その後姿が完全に家の中に消えていったのを確認すると

「ねえ桃ちゃん」

 奈緒は目をきらきらさせて訊ねた。

「二人っきりのランニングのとき、どんな話したの?」


「走りながら話なんてできるわけ無いだろ。そんなくだらないこと聞く暇があったら、さっさと朝食の準備をしたらどうなんだ?」

 そういうと桃は玄関へ姿を消した。


「えへへへ、桃ちゃんらしいなあ」

 少しずつ真央と桃の関係性が接近していったことが嬉しかった。 

 奈緒はその後姿をにこにこと見送っていたが

「あ、そうだ。忘れてた」

 桃のを追うように玄関へと歩を速めた。




 トタトタトタ、廊下を渡ると

 コンコン、奈緒はドアをノックした。


「はーい」

 脱衣所を隔てるドアから真央の声が聞こえる。


 真央がいることを確かめ、

「奈緒だよー。開けていい?」

 と呼びかけた。


「おお、いーよ」

 真央の了承を得て


 ガチャリ


「あのね、汚れ物とか……」

 脱衣所の扉を開けた奈緒は固まった。


 下はスウェットをはいてはいたものの、上半身裸の真央の姿だった。

 筋繊維の一つ一つが汗で光り輝き、盛り上がった肩の筋肉、硬くしまった腹筋のシルエット一つ一つを浮き上がらせて見せた。

 

「なんか用?」

 氷のように固まった奈緒をよそに、真央はこともなげに尋ねた。


「……あのね、汚れ物、そのまま洗濯機に…」

 そう言いながら、真央の体から奈緒は目を離すことができなかった。

 ボクシングの試合を何度も目の当たりにし、男性の裸体というものには免疫があったはずだ。

「……入れておいてねって言いたかったんだけど……」

 しかし、肉眼で、生の男性の裸体を見たのは生まれて初めてだった。

 じろじろ見るのは失礼だ、すぐに目をそらさなければ、と思った奈緒であったが、そのあまりにも見事な肉体から目をそらすことができなくなった。

 

「お、ありがとな」

 そういうと右手に握っていた黒いタンクトップを洗濯機に放り込んだ。

「ん?」

 固まったまま自分を凝視する奈緒の視線に気づいた。

「どうした?」


「……あの、マー坊君……」

 その体を凝視しながら、恐る恐る奈緒は口を開く。


「何?」

 きょとんとして訊ねる真央。


「……ウェルター級……位……か、な?」

 ウェルター級とはプロボクシングではおよそ64から67キロ、アマチュアでは69キロまでのリミットである。

 真央の一切の脂肪のついていない肉体、盛り上がった筋肉から、奈緒は祖能ウェイトを言い当てた。

 

 そしてその予想は当たっていた。

「おお! よくわかったな!」

 そういうと奈緒の肩をポンポンとたたいた。

「さすがはボクシング同好会マネージャーだな」

 

「……」

 肩をたたかれながらも、その目をそらすことなく真央の肉体を凝視する奈緒。

  

「あの、奈緒ちゃん?」

 

「……」


「…奈緒ちゃん」


「……」


「奈緒ちゃん、聞こえてる?」

 何度呼びかけようが反応のない真央に、致し方なく真央は大きく呼びかけた。


「ふぁ? ふぁい!」

 その言葉に、ようやくな尾は自分を取り戻す。


「あの、早くシャワー浴びてーんだけど」

 そういって真央は頭をわしわしとかく。


「あ、ごめんなさい!」

 顔を真っ赤にした奈緒は


 バタン!


 勢いよく扉を閉めると、そのまま急いで脱衣所から姿を消した。




「……」


 トタトタトタ

 

「ちょっと」

 廊下ですれ違いざまに桃が奈緒に声をかける。

「何ボーっとしてるんだ?」

 

「ウェルター級……すごい……体……」

 と頬を赤く染めながら心ここにあらずして呟いた。


「?」

 桃はそのほうけた様子の奈緒の後姿を、わけもわからず見送った。

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