5.21 (木)18:30
――シュン、シュン、シュン――
バンデージのきつく硬くまかれた左拳が、雹のごとく空を切る。
東京都ウェルター級A代表秋元真央は、目の前のスクリーンを凝視し、一心不乱に状態を動かす。
そしてその上体をがっしりとした下半身が受け止め、そしてその下半身も、時折のフットワークで様相を一変させ、まるで狼の四肢のようにはじけ飛ぶ。
――カァン――
そこは聖エウセビオ学園視聴覚室。
ちょとした公会堂のようにしつらえられたステージの奥に映し出されるのは、ここではない空間。
ここではない時間。
そこは、高校ボクシング関東予選群馬県大会。
そこで拳を振るうのは、もはや何百回目かも数え切れないほどに思い描いてきた天才ボクサー、神埼桐生の姿。
「……っかぁっ、はあっ、はあっ、はあっ、っしゃ!」
モニター上で相手をノックアウトした神埼桐生が賞賛に身を浴している中、我らが秋元真央は腰に手を当て、タオルを首に掛けて真央は天を仰いぐ。
そして足元に転がるスクィージーの中身を喉に流し込むと、ぐしゃぐしゃと乱暴にすでにのび始めた坊主頭を磨くようにぬぐった。
その時
「よっ」
敬礼をし、エクササイズに集中するボクサーに無遠慮に声をかける一人の少女。
「……っはっ、はっ、……てめーっ……は……」
華奢な体に、天使の羽のような二つ結びの黒髪、そして聖エウセビオのブレザーとはかけ離れたセーラー服。
「へー、これうちの兄貴の決勝戦の試合じゃん。てゆーかさ、なんでこんなところで練習してるの? 金だけ立派な校舎なんだから、きちんとした練習場あるでしょ?」
「……っくっ……」
ギリリと奥歯をかみ締める真央。
「……てめー何しに来たんだよ……かっ……やっぱ兄貴のためのスパイ活動なんじゃねーか……」
「じょーだん言わないでよ。なんで紫があのクソ兄貴のために秋元をスパイしなければいけないのよ」
けろりとした表情で真央の顔を受け流す神埼紫。
普通の少女ならば、この真央の一睨みに背筋を凍らせるところであろうが、この少女はそれを全くものともしない。
「紫も兄貴の試合良く見るけど、なんか秋元のボクシングって兄貴と全然スタイルが違うんだね。兄貴も言ってたけど、なんかこう、荒削りって言うかなんていうか」
「……ごしゃごしゃうるせーな、このガキャあ……」
真央は頬かむりするようにタオルを頭に掛けると
「うるぅあ! レッド! こんなガキ勝手に練習場に入れるんじゃねえ!」
「はっ、はひっ! す、す、すいましぇん!」
慌てふためいたレッドの声が視聴覚室のコントロールルームから響く。
「じ、じ、自分も、マー坊先輩のシャドウに集中していたものでっ! も、も、も、申し訳ありません!」
「そんなどなんなくったっていーじゃん。あのぶーちゃんかわいそうじゃん」
そういうと紫は腕を組み、なだめすかすようにして真央を見つめた。
ちっ、真央は舌打ちをすると、苛立ちを隠さずにガシガシと頭を拭く。
「やめだァ、やめやめ! おら、レッド! 今日はこれでやめにすっぞ!」
時計はすでに六時半を回っている。
今日一日のワークアウトの総量を考えれば、切り上げる頃合と言っていいだろう。
「おぅレッド! 俺先にシャワーいってっからよ、後の始末やっとけよ!」
そういうと真央は、振り返ることなく早足で視聴覚室から姿を消した。
その時、紫の視線はスクリーン上の映像に集中する。
そこには、栄光と喝采に身を浴する兄、神埼桐生の姿。
そして――
「君のお兄さんの彼女、一体どんな人なんだ?」
真剣な表情で、桃は紫に訊ねた。
「確か名前……綾子さんっていったっけ? 一体どんな日とか、悪いんだけど教えてくれないか?」
「え? っていわれても……」
きょとんとして声を上げるも、その真剣な表情に少々気圧される紫。
「……まあ……優しい人、って言うか、ちょっとおっとりした人って言うか……」
「綾子さん?」
小首を傾げる葵。
「まあ、お兄さんの恋人のお名前、綾子さんとおっしゃるのですね」
「そんなことはどうでもいいんだ」
桃はぐいぐいと、中央突破するように話の核心に食いつく。
「もしかしてその女の人……関西……いや……広島出身だったりしないか?」
「え? どういうことですか?」
話の流れがつかめず、やはり首を傾げるばかりの葵。
「……いや……紫も詳しいことはわかんないけど……たぶんそう……だとおもう……」
その剣幕に押され、少々しり込みするようにして紫は頷いた。
「……広島かどうかまではわかんないけど、間違いなく関西の人かな、とは思う。イントネーションとか、語尾とか。たまに自分のこと、ウチ、っていうし」
「まあそうなんですか」
葵は口元に手を当て、驚いたような表情。
「そうすると、もしかしたら……綾子、さん? って、真央君の同郷の方なのかもしれませんね」
「え? 秋元って広島出身なの? 桃姉さんと奈緒の親戚だって言ってたけど、じゃあ二人とも広島に親戚いるっとこと?」
こちらも驚きの声を上げる紫。
しかし
「いまはそんなことどうだっていいんだ」
そういうと。桃は眉間にしわを寄せ、ギリリ、と親指の爪をかむ。
その桃の脳裏に浮かぶのは、二週間ほど前に熱を出してうなされる真央の姿。
“……っあ……あ……こ……あ……こ……あ……こ……”
額にしわを寄せ、乱れた浅い呼吸とともに漏れる、“あ”と“こ”の言葉。
神埼桐生の恋人の名前は“綾子”
そして――
「ど、そうしたんだよ、桃姉さん……」
「そ、そうですよ。一体どうしたんですか?」
桃のその思いつめた表情に、ただならぬものを感じる葵と紫。
「ねえ二人とも。お願いがあるんだ」
眉間にしわを寄せ、鋭い目つきで二人を見つめる桃。
「今ここであたし達がした話、ここだけの話にしてくれないか。マー坊はもちろん……奈緒にも、川西君にも、レッド君にも話さないで欲しいんだ」
「え?」
事情を行く飲み込めないものの、あまりの剣幕に慌てて首を縦に振る紫。
「う、うんうんうん。わ、わかりまし、た……」
「え、ええ。桃さんがそうおっしゃるのであるならば……」
青いも、口元に手を当てながらこくりと小さく頷いた。
桃は、心の中にいいような綯い胸騒ぎを感じていた。
真央にはじめて合った瞬間に感じた、あの胸騒ぎ。
何か自分が、大きな渦に巻き込まれているような、大きな抗いようのない何か、それを運命と呼ぶべきかどうか分からないがそうとしか表現しようのないものが自分たちの周りで動いているような感覚。
桃は、これから自分たちの周りに何か大きな変化が起きるのではないか、何の根拠もないが沿うとしかいえないような何かを感じていた。
「悪いな、二人とも」
そういうと桃は、すでに殻になったコーヒーの缶を、指のあとが食い込むほどに強く握り締め、そして屋上を後にした。
「す、すいませんっす、紫さん」
出入り口脇のコントロールパネルから、申し訳なさそうな表情でどたどたと下りてきたのはレッド。
「マー坊先輩、ボクシングやってるとき、普段はすっごく優しいんですが、ああいう恐い感じになっちゃうんっす。気を悪くしないでくださいね」
「別にぶーちゃんが謝ることじゃないし」
すでに試合が終わり、最後のシーンで静止している試合のVTRを見つめながら、紫は静かにそう答えた。
「てゆーか、秋元って優しいんだ。がさつって言うか、どう見てもヤンキーにしか見えないのにさ」
「え、ええまあ。確かにおこると半端なく恐いですけど……」
そういうと、レッドはその丸い顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。
「だ、だけど、その恐さの何千倍も、大きくてやさしい人っす。ただちょっと不器用っすけど……あんなやさしい人はいないっす。自分の……自分にと手のヒーローっす!」
熱く真央への尊敬の念を口にするレッド。
しかし紫は
「へえ」
心無くただそう返したのみだった。
こつこつとローファーの踵を鳴らしながらステージへと近づく。
とんとんとん、正面の木の階段を上がりながら、スクリーンの静止画の前に無言で立つ。
そして、スクリーンを無言のまま、しばし眺め続ける。
するとおもむろに
「ねえ、ぶーちゃん」
振り返ること裳泣くレッドに声をかける。
「は、はいっ! なんでしょう?」
その答えに、眼鏡をかけなおしながらレッドは応える。
「ちょっとこっち来てよ」
つつつ、人差し指で画面上の、およそ等身大の自分の兄をなぞりながら言う。
その表情は、やはりレッドからは確認ができない。
「いいこと教えてあげよっか」
「な、な、なんでしょうか」
首のタオルで、真央の余熱世も言うべき熱気により額ににじむ汗を拭きつつ紫のいるステージに立つ。
「そ、そ、その、いいこととは……」
「うん。すごーく、いいこと」
すると紫は静止画の、兄の映っている画面からやや後方のリング外、観客席に指を移動させた。
「この人、ほら、この女の人。ちょっとぼやけてるけど、わかるかな?」
「うん?」
レッドは画面に駆け寄り、眼鏡を抑えてその人物を凝視した。
「え、ええ。自分、あまり目が良くないのでなんともいえませんが、分かります。女の人ですよね。ええと……ちょっと髪の毛の色が明るい感じの……ブレザーの……綺麗な大人っぽい方ですね」
「そりゃあ大人っぽいよ。だってぶーちゃんより、秋元より兄貴より年上なんだもん」
そして、ゆっくりとレッドを振り返り
「この人ね――」
この少女には想像も出来ないような冷たい微笑を浮かべた。
「綾子さん。兄貴の彼女の」




