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    5.20 (水)21:10

——ガチャリ——


「んんー?」

 リビングのドアが小気味よい音を立てると、すでにリラックスした部屋着姿の奈緒はそこに目を移す。

「あ、紫ちゃん、お風呂あがったの?」


「おかげさまで。ていうかさぁ、あんたんち何から何まで大きすぎると思うんだけど」

 今この釘宮家における台風の目ともいえる存在、神崎紫は、上半身に奈緒から借りたTシャツを身にまとい、頭にタオルを巻いて呟いた。

「……ほんっと、何から何まで不公平。ここのうちにこれだけ優しくするんならさあ、神様ももう少しあたしのうちに優しくしてくれてもいいと思うんだけど」

 そしてあの洗練された傍若無人さで、奈緒の向かい側のソファーに身を沈める。


 その紫の言葉に、困ったような微笑みを返す奈緒。

「……えへへへへー、そういう風に言われると……なんだかこまっちゃうんだけど」

 そう言うとソファーから立ち上がり、見下ろすようにして紫に声をかける。

「紫ちゃん、喉乾かない? 何かの見たいものあったら、持ってくるよー」


「あ、サンキュー」

 ソファーに身を沈めたまま、敬礼のようなしぐさで紫は言葉を返した。

「んじゃあ……麦茶とかあったらちょーだい」


「ん、オッケー」

 そう言うと奈緒はパタパタとスリッパを鳴らし、リビングを後にした。




「んんーっ! っぷはあ」

 タンブラーの麦茶を一気に飲み干すと、鈍痛を覚える右側頭部を紫は抑えた。

「はあ……一気飲みしたら頭がキンキンするぅ……」


「えへへへー、そう言うのってよくあるよねえ」

 にこにこと真ん丸な笑顔を作りながら、奈緒はペットボトルのミネラルウォーターを一口含む。

「ふうっ、んーっ! でも、やっぱり風呂上がりの冷たい飲み物って、サイコーだねー」


 気持ちよさそうに伸びをする奈緒を、じっと見つめる紫。


「……え、えと……ど、どうしたの?」

 その視線に気づき、おずおずと奈緒は訊ねた。

「わ、わたしの顔に、何かついてる?」

 

「あのさぁ、一つ聞きたいんだけど……」

 紫はじっと奈緒の瞳を見つめ、そして口を開いた。

「あんたって、秋元の学校の……ええと……聖エウセビオだっけ? マネージャーしてるんだよね?」


「えっ? う、うん。そうだけど」

 その質問の真意を測りかね、おずおずと答えを返す奈緒。

 そして一口、ペットボトルのミネラルウォーターを含む。

「あんたさ、自分の好きな男がリング上で殴られてるの見て、何とも思わないの?」


 ドキン、奈緒の心臓はまるで万力で締めあげられているかのような衝撃を覚えた。

「えっ? そ、それって、どういう……こと? わ、わたしはマネージャーとして……」


「別に隠さなくてもいいよ。ほとんど初対面の紫が見たってさ、バレバレなんだもん、あんたの心」

 膝の上に両肘をつき、横目で流すようにして奈緒を見つめる紫。

「あんた、秋元のこと、好きでしょ? 祖の好きな男が、リング上でグローブはめて殴って殴られるの見るのって、どういう感覚なのかなって思って」


「え、うん。あの……はぁ……」

 頬を真っ赤に染め、何かごまかすような言葉を頭の中で思いめぐらせていた奈緒だったが、観念したように肩を落とした。

「そうだね……確かにわたし、マー坊君の事好きだよ。でも、ボクシングも好きだし、何よりボクシングしか見ていない、マー坊君の事が大好きなの。だから、確かにリングに立つマー坊君の事がすごく心配になることがあるけど……けど、マー坊君は最後には絶対に勝利をつかむもん。だから、わたしはマー坊君を信じてリングに送り出す、ただそれだけだから」

 そういって、柔らかく微笑みを返した。


「まあ、秋元のボクシングを見る限り、今までろくな苦戦もしてこなかったんだろうと思うけど」

 そう言うと紫は、再びタンブラーの麦茶を一口含む。

「けどさ、言っとくけどうちの兄貴は今までの相手とは全然違うってことだけは覚悟しておいた方がいいよ。悪いけど……秋元だって無傷じゃいらんないし、負ける可能性だってあるんだから」


「……そう……だね。確かにそう言うこともあるかもしれないね……けど……」

 奈緒の表情は一瞬険しくなったが、しかしすぐにいつもの明るいものへと変化した。

「けど、あたしはマー坊君の事信じているもん。確かに紫ちゃんのお兄ちゃんみたいにスパーリングパートナーとかに恵まれてるわけじゃないけど、それを補うような練習もしっかりしてるし。だから、苦戦するとは思うけど……わたしね、マー坊君の負けるところが想像できないもん」

 そういうと、再び柔らかく微笑んだ。


「だったらいいんだけどさ……」

 やや不服そうに、紫はこぼす。

「でも、本当にそうだったらいいって、紫おもってるもん。兄貴、綾子さん……彼女のことばっかり優先しちゃってさ、本当にボクシングとか……紫のこととか考えてるのかって、疑問に思っちゃう。だから、あんな奴秋元にぶっ飛ばされちゃえばいいって思ってるし」


「そんなこと言っちゃだめだよー」

 笑いながらも、やや困ったように奈緒はたしなめた。

「結果なんて、しょせんは結果でしかないもん。だから、わたしたちは二人のボクサーが最大限の力を尽くして戦えるように祈るしかないよ。勝敗を決めるのは、結局リングに上がる二人だけなんだから」


 すると紫は、むっとしたような表情で口を開いた。

「あんたさぁ、そう言う優等生なことばっか言ってて疲れない?」

 スルリ、頭に巻いたタオルを解くと、二つに結んだ髪の毛が天使の羽のようにふわり止まった。

「例えば……例えば秋元が、桃ねえさんとか……紫と付き合ったとして、それでも同じように秋元のこと応援できるかどうかって聞いてんの!」


「えっ!?」

 再び奈緒はその鼓動が一瞬にして凍りつくような衝撃を覚える。

「……ま、マー坊君は……マー坊君はボクシングにしか興味ないし……ボクシングの世界チャンピオンになることしか見てないし……だから、女の子と付き合うとかそう言う……」


「ボクシングしか興味ないって……あんたそれでいいの? それってあんたもつきあう対象として見られてないってことだよ!?」

 はあっ、という深いため息の後、紫は強い言葉を奈緒にたたきつけた。

「もし紫だったら、そんなの耐えらんない。紫は本当に好きになった男がいたら、絶対その男自分のものにしておきたいもん。そうすれば、きっと心の底から応援できるもん」


「わたしだって!」

 紫の、奈緒の心の内を見透かすような言葉に、思わず奈緒もいきり立つ。

「わたしだってそんなことわかってるもん! けど、わたしはボクシング同好会のマネージャーだもん! マネージャーだから……何よりも部員の勝利を優先したいの! しなくちゃいけないの! 外野から、わかったようなこと言わないでよ!」


 その思わぬ剣幕に、さすがの紫もひるんだが、それも一瞬のこと、強気な紫は言い返すかのように口を開く。

「だったら……本当に秋元の好きだったら、そんなこと関係ないじゃん! だったら、もし秋元がほかの女と付き合ったとしても、マネージャーとして応援できるんだね!? 今と変わらない気持ちで、心の底から何のわだかまりもなく応援できるんだね!? そんなの嘘だよ。紫には信じられない。自分の気持ちごまかしてるだけじゃん! だって……」

 ふと気づけば、紫の前に目を真っ赤にはらした奈緒の表情が。

 その表情に、紫の心を後悔がとらえる。

「……ごめん……ちょっと、紫が言いすぎた……」


「ううん」

 右手の甲でその瞳をぬぐうと、再び奈緒は明るい微笑みを浮かべる。

「わたしのほうこそごめんねー。ちょっと声荒げちゃった。けど、わたし、嘘はついてないから」


「えっ?」

 拍子抜けしたような声を上げる紫。


「うん、嘘はついていないよ」

 そう言うと、奈緒は一口ペットボトルを傾けた。

「さっきも言ったけどね、わたし、マー坊君も大好きだし、ボクシングも大好き! だから、ボクシングしか見ていない、ボクシングバカのマー坊君が一番好きなの。そんなマー坊君を、しっかりとサポートできるのは……桃ちゃんでも、葵ちゃんでもない、わたししかできないことなの。だから、わたしは一生懸命マー坊君をサポートするの。それで……いつか……わたしのことを振り向いてもらえたら……それまで、ずっとマー坊君のこと、好きでいる自信があるもん。そのことだけは、誰にも負けない自信があるもん」


「ある意味すごい自信だね」

 ばつが悪そうにして長い髪の毛の先をいじる紫。

「けどやっぱり理解できない。好きな人が自分を全然見てくれなくても我慢し続けることができるなんて」


 すると、奈緒は立ち上がり、紫の横に座ってその方に両手を置いた。

「だから神崎選手……お兄ちゃんに負けてほしいって思ってるんだね。お兄ちゃんが大好きだから……彼女に夢中なお兄ちゃんがマー坊君に負けて、また紫ちゃんのことをちゃんと見てほしいんだよね」


「はあっ!?」

 ゆかりの顔が、爛熟した果実のようにぼっと破裂した。

「べ、別にそういうことじゃないし!? ゆ、紫も真剣にボクシングに取り組んでる兄貴を応援していただけだし! そういう紫のことを見ていてほしいとか……」


「そういう意味では、わたしたち似てるかもね」

 先ほどよりも近くにある紫の顔に、大きなほほえみを奈緒は向けた。

「大好きな人に振り向いてもらいたい、わたしもその気持ちすっごいわかるから。大丈夫だよ。お兄さんも、紫ちゃんの事大好きだと思うよ。だから、わたしたちはマー坊君とお兄さんが、リングの上で自分の最高のパフォーマンスができるように応援しようよ。ね?」


「うん……わかった」

 その誰もが逆らえないような笑顔、紫とて同様だった。


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