第五部 5.20 (水)18:15
「……てゆうか、この家広すぎない?」
白いセーラー服にかなり短めのスカートをひらりと舞わせ、小柄な少女がソファーから立ち上がる。
きょろきょろと周囲を見つめ、顔をしかめてため息をつく。
「こっちは築40年の田舎のアパートで暮らしてるってゆうのにさ……本当に世の中不公平だよね……」
「くだらねー事いってんじゃねーよ」
真央はテーブルを挟み、同じくソファに腰掛けその少女を睨む。
もはや普段着となってしまった学生服のズボンに、赤いTシャツを身に纏ったまま。
「おら、さっさと何しに来たのか話せよ。家に連れてきたらきちんと教えるって約束だろーが」
「マ、マー坊君、そんなにすごまなくったって大丈夫だから。ね?」
とりなすようにして口を挟む奈緒。
その手にはコーヒー、そしてジュースのコップの載ったトレーが。
「ほら、うちはもともと無駄にスペースがあるんだし、何人お客さんが来たって大丈夫なんだからー。えへへへへー」
そして、無言のまま腕を組み、壁に背中をもたれさせる桃の姿も。
「……ったく、兄貴といい秋元といい……なんで紫の周りの男ってこうデリカシーのない奴ばっかなのよ……」
そうこぼしつつ、奈緒がテーブルに置いたオレンジジュースをストローから一口含む。
「――っん。ぷはぁっ、そういえば今日お茶くらいしか飲んでいなかったからっめちゃめちゃ喉乾いてたんだよねー」
「んなこたぁどうでもいいんだよ!」
こちらもコーヒーを一口すすり、再びじろりとその少女、神崎紫をにらみつける真央。
「おれぁお前が何のためにわざわざ自分の兄貴の対戦相手の学校にまで押しかけてきたのかどうか、それを聞いてるんだよ! スパイでもしようってのか?」
「まあ、スパイっちゃあスパイなのかもしれないけど……」
紫は生意気そうな笑顔を作り、真央の瞳をじっと見つめる。
「単純な話だよ。兄貴が持ってきた、あんたの東京大会のDVD見てたら、あんたがどういう男か気になっちゃってさ」
そして、おもむろに立ち上がると真央の横に座り込む。
「へぇ、テレビ画面で見るといかついヤンキーにしか見えなかったけど、こうしてみると、あんたって結構格好いいじゃん」
「ちょ、ちょっと紫ちゃん!」
慌てて二人の間に割り込もうとする奈緒。
「そ、それは、マー坊君に興味があって、どういう人か確かめにきた、ってこと?」
「うん」
けろっとした表情で、口元に八重歯を浮かべる紫。
「あの天才の兄貴が結構警戒してたからどんな男かって気になったから。そしたら結構格好いいかんじだったから興味湧いたんだー。まあ、頭は悪そうだけど」
「ほっとけ!」
真央派顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げる。
「俺の顔を拝むのが目的だったらさっさとかえりやがれ! 最終電車に間に合わなくなんぞ!」
「え? 何いってんの? あたし帰んないよ?」
さも当たり前のことを口にするかのごとく、あっけらかんと言い放つ紫。
「そのために着替えとかも持ってきたんだしさ。この家だったら紫一人くらいどうにでもなるし」
「え? ちょ、ちょっと待って紫ちゃん!?」
またもや慌てて口を挟む奈緒。
「連休も終わったばかりだし、まだ夏休みにもなっていないでしょ? 紫ちゃん……中学生くらいだよね? 学校はどうするの?」
「あんなの、行く意味ないもん」
ちゅー、ストローからオレンジジュースをすする紫。
「紫、模擬試験でトップクラスから落ちたことないし」
「頭がいーとかわりーとか、そういう問題じゃねーんだよ」
ギロリ、と紫を睨みつける真央。
「兄貴だけじゃねーだろーが。お前にだって親がいるだろ。心配かけんじゃねーよ」
すると、その無邪気で生意気そうな表情が急に掻き曇る。
「紫、両親いないもん」
寂しそうに、うつむくようにして呟く紫。
「紫が小学生の頃、二人とも死んじゃったもん……頼る人もいないから、親の遺産と兄貴のバイト代だけで暮らしてるんだもん……」
「え、えと、ごめんね? そうなんだ。紫ちゃんちも、お父さんとお母さんいないんだ……」
その言葉に、申し訳なさそうに頭を下げる奈緒。
「兄妹で暮らしてるって、なんだか前のうちとおんなじだね……だけど……だからこそ、なんだけど……」
「だからこそ、お兄さんを心配させちゃいけないよ」
言葉を濁した奈緒に代わるようにして、始めて桃が紫にたいして口を開く。
「もし君が何もいわずにいなくなっちゃったら、お兄さんすごく心配するはずだよ。何があったか知らないけど、絶対に心配かけるのは許されないよ」
「そ、そんなの、紫だってわかってるもん……」
その桃のものを言わせぬ迫力に少々怖気づきながら、もじもじと口を開く紫。
「……けど……兄貴と喧嘩しちゃって……だって、兄貴……女の人とばっかり仲良くするんだもん……うちとかにもつれてきちゃうし……」
「んだと? 神崎の野郎、妹と一緒にすんでる家に、女なんか連れ込んでやがるのか?」
顔をしかめ、はき捨てるように呟く真央。
「とんでもねー野郎だな。インターハイがかかってる関東大会控えてるってのに、女とよろしくやってるなんざぁ」
「あっ! 別に、その女の人は悪い人じゃないよ! その人も身寄りのない人だし、すごく優しい人なんだけど……」
手を後に組み、寂しそうにこぼす紫。
「……けど、なんかいらいらするんだもん……兄貴、朝はバイトで、昼間は学校とボクシング、夜はまたバイトでさ……少しでも時間が空いたかと思えば、その女の人と一緒にいるしさ……なんか、紫一人ぼっちになっちゃったような気がするんだもん……それで……昨日大喧嘩して……家飛び出しちゃったんだもん……」
その言葉、そしてその様子に、チッ、真央は忌々しそうに舌打ちをする。
そして奈緒は、やや寂しそうな瞳でその華奢な少女を見つめる。
二人とも、孤独というものがいかなるものかを熟知している。
まだあどけなさの残るその少女の瞳に、二人は子どものころに感じていた寂しさをじわりと浮かび上がらせる。
二人とも、もはや何一つ口を開くことができなくなってしまった。
すると、ふう、目じりを押さえた桃が再び口を開く。
「わかったよ」
桃は壁際から体を起こし、そして紫の元へ足を運ぶ。
「分かったから、せめて連絡くらいはさせてくれ。君のお兄さんに。しばらくきちんと君のことを預かるからって」
「えっ?」
紫の顔が、ぱあっと明るくなる。
「いいの? お姉さん!?」
「君にもいろいろ事情はあるだろうし、まあ、気持ちも分からなくはないかな」
柔らかく、包み込むような笑顔を見せたかと思うと、不意に真剣な表情を見せる。
「けど、こういうのはもうないと思ってね。いくらなんでも、赤の他人の家に泊まりこもうとするなんて、女の子なのに警戒心がなさ過ぎるよ。それが約束できるって言うんなら、お兄さんの連絡先を教えて」
「……わ、わかりました……」
生意気な表情、生意気な口ぶりも、桃の有無を言わさぬ圧力の前に消えうせる。
そして、継体を年出すと、さらさらと神にある携帯電話の番号を書いてよこした。
「……け、けど、兄貴は勘弁して……たぶん、私がここにいることばれたら大喧嘩になっちゃうし……だから、兄貴と突き当てる女の人の番号……その人に説得しながら伝えてもらえれば、兄貴もたぶんそこまで怒らないだろうから……」
「わかった」
スッ、桃は紫からその番号の書かれた紙切れを受け取った。
「それじゃ、電話してくるよ。携帯じゃ失礼だろうからな」
「あ、ありがとうございます!」
この少女には珍しいような丁寧な物腰で、紫は桃に頭を下げた。
ピッ、ピ、ピッ、廊下に置かれた、シックな飾り気のない電話機のボタンを押す。
――トゥルルルルル――トゥルルルルル――トゥルルルルル――トゥルルルルル――
桃の耳元に、滑らかな呼び出し音が数度鳴り響く。
すると
“はい”
マイクを通した、やや割れがちな女性の声が桃の耳元に響いた。
「あ、お忙しいところすいません。私、釘宮桃といいますが――」
桃は立て板に水のごとくすらすらと、そして丁寧に事の顛末を相手に伝えた。
「――ということで、しばらく紫さんは私たちの家に泊まることになります。ご心配はなさらぬようにと、神崎くん……紫さんのお兄さんにお伝えください」
一瞬、受話器の奥から耐え意気のような通気音が響いたかと思うと
“こちらこそすいませんねぇ、釘宮さん。あの子、難しい年頃だし、あたしが桐生といるせいで、あの子にも、そしてあんたにも、えらい迷惑かけちゃったみたいで……”
群馬県のお国訛りだろうか、やや標準語とは異なったイントネーションで、電話の主は応えた。
「いえ、お気になさらないでください」
桃は電話口で苦笑しながら言葉をつなげた。
「えと……川島さん……でしたっけ、きちんと紫さんはこちらで面倒を見ますのでご安心ください。ある程度したら、気分も晴れると思いますので、そうしたらこちらでしっかりと送り届けます。それよりも、お兄さんの説得、お願いしますね」
“綾子、って呼んでもろうていいんよ。堅苦しい言葉も、使わんでええから”
耳元に再び響く、砕けた言葉。
しかし、その言葉使い、そして“綾子”というその名に、桃は若干の違和感と胸騒ぎを覚える。
「え……っと……綾子、さん……また、電話させてもらっていいですか?」
“もちろん、ええよ。っと、ごめんなさい。おかしな言葉遣いで。うち、いろんなところ転々としてきた文で、言葉遣いがおかしくなっとるんよ。聞き取りづらいでしょうね”
「い、いえ。そんなことありません。それでは、紫さんが帰りたいと言い出すまで、しばらくお預かりいたしますね。それでは」
“ほいじゃぁ、よろしく頼むわね”
プツリ
――ツー、ツー、ツー、ツー――
お互いの挨拶の後、桃は電話を切った。
しかし、桃の心に残る、いいようのない胸騒ぎ。
桃は、何か今までとは違う、何か新しい運命が動き出していくような、そんな予感を感じていた。




