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    5.20 (水)  16:30

「シュッ、シュッ、シィッ」

 左ジャブの連打に、右ストレート。

 小刻みに肩を揺らし、ぐるりと状態をサークルさせる。

 そのたびに、さらさらとした玉のような汗が飛び散る。

 

 シャドウ・ボクシング。


 この世界で、最も孤独なトレーニング。

 向かい合うのは、イメージの中に浮かぶ相手ボクサー。

 

 しかし、この一人の屈強なウェルター級ボクサー、秋元真央が向かい合うのは、頭の中に浮かべた完璧なイマジネーションのボクサーではない。

 今この少年の目の前には、数週間後にリングで顔を合わせる一人のボクサーが、ほぼ現実の像として立ち上がっている。


 その男の名前は、神崎桐生。

 関東大会兼インターハイ代表者決定戦の対戦相手。

 高校二年生にして、すでに天才の名をほしいままにするボクサー。

 オーソドックスなスタイルで、的確に上下を打ち分け、対戦相手を、そしてステージに立つ真央に襲い掛かる。


 真央はそのコンビネーションをうまく捌き、カウンターを繰り出す。

 ブンブンブン、何度も頭を振り、そしてコンパクトな体の回転で何度もフックをお見舞いする。

 一面のスクリーン、プロジェクターによりほぼ等身大の大きさで映し出される神崎桐生の映像に対して。


 ――カァン――

 第サンラウンドの終了を告げるゴングが鳴り響いた。


「っかあっ……ぜっ、ぜっ、ぜえっ」

 ゴクリ、すでにカラカラになった口中、何かを求めるかのように喉を鳴らす真央。

 足元にくたる、もはや一滴の水分をも含むことができなくなったタオルを方にかけて首元を拭く。

 しかし、不快な冷たさのみが体首筋に広がる。

 思わず真央は、そのタオルを絞る。


 ――ポタリ、ポタリ――


 さらさらとした汗の水滴がタオルよりにじみ、そして零れる。

 チッ、小さく舌を打ち鳴らすと、蹴飛ばすように汗たまりを靴底で拭いた。

 呼吸を整え、そしてオーディオルームの右奥、コントロールルームに向かい

「ぉうるぅあ! レッド! もうワンセット頼むわ!」

 と声をはりあげた。


「は、はいっしゅ! で、で、で、ですが……」

 コントロールルームより響くのは、聖エウセビオ学園ボクシング部一年生、瀬川隼人の声。

「イ、イ、インターバルはまだ途中だと思うのですが、よろしいのですか!? 釘宮先輩に、絶対にオーバーワークにならないように監視しろといわれるのですが!?」


 チッ、再び顔をしかめて下を打ち鳴らす真央。

「かんけーねーよ! いいからとっとと再開しろや!」

 

「は、は、はいっしゅ!」

 レッドは慌ててコントロールルームへと姿を消した。


 ふうっ、おき区域をついた真央派、首元に巻いたタオルを投げ捨てる。

「うしっ!」

 そして、待ちきれないといわんばかりに、ステージ上のスクリーンに向かいファイティングポーズ。


 ブゥ――ン――


 ハチが飛ぶかのような小さな雑音に続き、再びスクリーン上に映像が浮かぶ。


 カァ――ン――


 会場に響き渡る、大きく余韻を残す一鳴のゴングに、覆いかぶさるような一瞬の静寂。


 “これより、関東高等学校体育大会――ボクシング競技群馬県予選大会ウェルター級決勝戦、両選手の紹介をします”


 イメージトレーニングを兼ねたシャドウボクシングを開始して以来、何百回見たか分からない映像。

 しかし、その男の姿を見るたびに、真央はその胸に抑えきれない闘志を燃やす。


 ギッ、バンデージに固められた拳に、いっそうの力がこもる。



 “青、上毛商業高校――――上毛商業高校、神崎桐生選手”


 淡々と、しかし英雄のごとき振る舞いを見せる神崎に、真央の拳は照準を定めた。




 ――ガチャリ――


 ガタガタと、古いボクシングジム全体を揺らすような音の後に、建てつけの悪い扉が開かれる。


 その音に、必死の形相でサンドバッグに拳をぶつける丈一郎の顔が上がる。

「あ、マー坊君。お疲れ様!」


「いよお。わりーな、長引いちまったわ」

 ニィ、例のあの不敵な笑いを浮かべ、小さく敬礼の指先を飛ばす真央。


「お、お、遅れてすいません!」

 その後に遅れること数秒、レッドも顔を現した。

「い、いやー。マ、マー坊先輩の練習に付き合っていると、じ、時間というものを忘れてしまって……」


「ごめんね、本当はレッド君の練習だってあるのに……」

 申し訳なさそうに微笑む奈緒。

「どうしても二つの練習会場に分かれちゃうと、それぞれ目が行き届かなくなっちゃうから……」


「気、気にしなくっていいっす、釘宮さん!」

 ぷるぷると顔を振り、その言葉を否定するレッド。

「じ、自分はまだまだ公式戦に出られるような人間ではないので! あ、あの、マー坊先輩のお手伝いをできるだけでも、し、しあわせっす!」


「お、言ってくれるじゃねーか」

 その言葉に、思わず真央の表情も緩む。

「ぎゃはははは、すまねーな。もうちっとばかし付き合ってくれや。関東終わったら、きっちりお前の指導に専念すからよ」


「あ、ありがとうございます!」

 レッドは明るい笑顔を真央に向けた。

「で、でも、今は関東大会の練習に専念してください! お、お、お手伝いいたします!」




 トレーニングを終え、校門への道を歩く聖エウセビオ学園ボクシング同好会の面々。

 すると、四人のその後から

 

「あ! 真央君! 皆さんも!」

 快活な声が響いた。


「ん?」

 自身に投げかけられたその言葉に、振り返った真央の視線の先には

「いよお、葵じゃねえか」


「お、お疲れ様です!」

 姿勢を正し、まるで新入社員のように礼儀正しく頭を下げるレッド。


「あ、葵ちゃん、お疲れさまー」

 無邪気な奈緒の微笑みに続き


「やあ葵ちゃん。葵ちゃんも部活終わったの?」

 へにゃり、とした丈一郎の笑顔が続く。

 

「お疲れ様です。真央君たちもお帰りですか?」

 青の黒髪が、夏を目前にした暖かい風に揺れる。

 礼家葵は清楚な微笑を真央たちに向けた。

「よろしければ、私もご一緒にお帰りしたいのですが、かまいませんか?」


「何でそんなもん聞く必要があるんだよ」

 ニイッ、真央は不敵な微笑を浮かべた。

「そういや、みんなで帰るのも久しぶりだな」


「そうだねー、久しぶりだねー」

 葵の申し出を、奈緒も屈託のない笑顔で出迎えた。

「みんなで一緒に帰ろっ!」


「ありがとうございます」

 葵は頬を赤らめ、恥ずかしそうな笑顔を返した。




 五人は連れ立って、校門への道を歩く。

 すでに日は長くなり、西日は赤く五人の顔を照らした。


「どうですか皆さん、関東大会への手ごたえは」

 ボクシング同好会の面々に向かい、葵が微笑む。

「私も後一歩というところで関東出場を逃してしまったので……皆さんを応援するしかできないのが、なんだか歯がゆい思いがします」


「はははっ、僕だって本戦に出られるってわけじゃないよ」

 頭をかき、苦笑いを向ける丈一郎。

「A代表が本来の関東大会って感じだしね。それに、僕たち軽量級はインターハイ予選が本戦だから。とにかく僕はインターハイ予選を本戦だと思ってトレーニングしているよ」


「そ、そういえば……釘宮先輩も陸上で関東大会出場が決まっていらっしゃいましたね」

 レッドは思い出したように付け加えた。

「や、や、やっぱりすごいですね。釘宮先輩は。自分男ですが、釘宮先輩みたいな運動能力あればいいなあって、常々思っていますよ」


「……お前なあ、それ絶対本人の前で言っちゃだめだぜ……」

 真央は顔をしかめてレッドに言った。

「……んなこといおうもんならな、お前のその真ん丸な顔面にあのおねーさんの右拳がめり込むぜ? 人間の女だと思っちゃだめだ、マウンテンゴリラだよ、マウンテンゴリラ……」 

 腕組みをして、うんうんとうなずく真央。


 すると

「あ! 釘宮さんだ!」

 と丈一郎が後ろを振り向く。


「うぉおっ!?」

 頭を抑え、おびえたような表情で後ろを振り向く真央。


「なーんてね」

 くすくすと笑う丈一郎。

「だめだよマー坊君。女の子をゴリラ扱いするなんてさ」


「てめえ! まただましやがったな!」

 ゴンッ、真央派その拳を丈一郎の頭にめり込ませる。


「……あいたたたた……はははっ、ごめんごめん」

 頭を抑えながら、なだめるようなごまかすような笑顔を返す丈一郎。

「でもだめだよ。マー坊君はそんなこというけど、釘宮さん、本当にもてるんだからさ……まあ、主に女の子だけど……」


「なんかねー、桃ちゃんこないだも、たくさんラブレターもらってたよー」

 苦笑いで言葉を加える奈緒。

「ああ見えて本人結構気にしてるんだから。中味はちゃんと女の子なんだもん」


「へいへい。だったら俺への暴力も少しは減らして貰いてーもんだわ」

 苦虫を噛み潰したような顔の真央。

「お前らにゃあわかんねーだろうけどな、あの右ストレートのいりょくっつったら、とてもじゃねーけど人間の女のものとは……」


「あ! 釘宮さんだ!」

 と丈一郎は今度は前方を指差す。


「しつけーんだよ!」

 ガンッ、再び丈一郎の頭部を殴りつける真央。

「そんなに何度も何度も騙されるほど馬鹿じゃねーんだよ、俺は!」


「……ったたたた……違うよ、ほら……」

 顔をしかめて頭を抑え、丈一郎はまたもや前方を指差す。

「見てよ。校門のところに、ほら――」


 その言葉に従い、真央派前方に視線をずらす。

 するとその言葉通り、クラブバッグを方に抱えた桃の姿が。


 しかし、よく見れば桃一人ではない。

 桃と警備員に囲まれ、聖エウセビオのものではない、見慣れぬ制服に身を包んだ一人の小柄な少女の姿。


「おう、桃ちゃん」

 その場に駆け寄った真央は、その少女に話しかけている桃に対し声をかけた。

「どうした? そいつぁ桃ちゃんの友達か?」


「あ、マー坊!」

 困ったように眉をひそめ、真央を振り返る桃。

「実は、この子――」


 桃の言葉を無視するかのように

「あんたが秋元真央?」

 その少女は真央の面前に建つ。

 身長は奈緒よりもさらに低く、体つきにも全体に幼さが残る。

 見たところ、中学生くらいであろうか。


「ああん?」

 怪訝な表情でその少女を睨む真央。

「誰だお前。お前は俺のこと知ってるみてーだが、俺はお前のことなんかしらねーよ」


「……お前……って……」

 そのあまりにもぶっきらぼうな物言いに、眉をひそめて言い放つ。

「……ったくさあ、ボクサーって何でそんなにデリカシーないの? 兄貴といい秋元真央といい……」

 独り言のようにぶつくさとこぼす少女。


「ボクサー? 兄貴?」

 怪訝な表情で問い返す桃。

「ねえ、君は一体誰なんだ?」


「あたし? あたしの名前は、神崎紫」

 生意気そうな微笑を浮かべ、真央の瞳を見つめる。

「あんたの対戦相手――神崎桐生の妹だよ」




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