5.13 (水) 22:00
薄暗い一室、一人の男性が腰の高いスツールに足をかけもたれかかっている。
カラリ、時折ロックグラスをくゆらせ、それを一口含む。
時折眠そうにコキコキと首を曲げると、あごひげの蓄えられた口元を撫で回す。
高層ビルの、屋上間近なバーカウンター、その男性はベージュの無難なスーツにノーネクタイの、やや砕けたスタイルで無言のままくつろいだ表情を見せる。
サングラスの代わりなのだろう、度の入っていないレンズを通し、東アジア最大の都市の夜景が映る。
「やあ。奇遇だね、世界チャンピオンとこんなところで出会えるなんて」
ポン、肩を叩く、そして自分の名を呼ぶ手馴れたような感覚。
もはや誰だと聞き返す必要もない。
気だるい雰囲気を引きずったまま、ミドル級世界統一王者、フリオ・ハグラーはその背後を振り返る。
「ようこちらこそ光栄だ」
会釈を返すフリオの右手には、琥珀色の液体が入ったロックグラスが掲げられていた。
「あのミドル級世界統一チャンピオンのトレーナー兼マネージャーと、こんなところで出会えるとはな。それに……」
ちらり、その後にいるもう一人の人物にも、グラスを掲げて声をかける。
「そちらの、南部出身の、世界チャンピオンの専属ドライバー兼友人に出会えるなんてな」
「オーヤー。オーヤー、ミスター」
数本が抜け落ちた、やや黄ばんだ歯が、年齢に似合わぬ朗らかな笑顔の中にこぼれ見えた。
「オーヤー、ミスター。話には聞いていましたが、オーヤー、世の中にはこんなに華やかなバーが存在するもですね、オーヤー」
「気に入ってくれたかい? ベン」
その朗らかな笑顔に、こちらは大きく口を開いて豪快な笑顔を返すフリオ。
「まあ、このバーはあの大金持ちの持ち物らしいからな。全部あのじじいのつけでオーライさ」
“大金持ち”、すなわち、世界のエンターテイメントの中心であるアメリカの、そのまた中心地帯に座を占めるラスベガスの、そのさらに頂点に君臨する世界三代プロモーターの一人、ロバート・ホフマンのことだ。
「何を飲んだところで、どんな高いシャンパンを頼もうが、100ドル札でケツを吹くようなあのじじいにとっては痛くもかゆくもないんだからな。ベンじいさん、あんたも好きなだけ飲むといいぜ」
「フリオ、少々この空間では下品すぎるよ」
苦笑いを浮かべ、フリオの横のスツールに腰をかけるネッド。
「君ですらウィスキーだかバーボンだかを飲んでしまうような、このシックなバーではね。数十年ぶりのアルコールの味はどうだい?」
「言ったはずだ」
「え?」
するとフリオは、ロックグラスを無言でバーテンダーに差し出した。
バーテンダーは洗練された手つきと笑顔でそれを受け取り、そしてその無表情な笑顔のまま同じく琥珀色の液体を差し出した。
「言ったはずだ」
同じ言葉を繰り返し、そしてその液体を一口喉に流し込む。
「俺は引退するまで一切のアルコールも、できうる限りのカフェインも摂取することはない、とな」
「オーヤー、ミスター、オーヤー」
ひょ懲り、今度は左手のスツールに腰掛けるオールド・ブラック・ベンジャミン。
「それではオーヤー、そちらのグラスの飲み物は一体なんですかな、オーヤー」
すると、フリオは無言でそのグラスをベンジャミンに差し出す。
ベンはそれを受け取り、それの香りをかぎ、そして一口含む。
すると、その大きな目はさらにまん丸になる。
「オーヤー」
「ベンじいさん、それはなんだい?」
ネッドがめがねに手を当て、訊ねる。
「MUGICHA、“ムギチャ”さ」
ベンからロックグラスを受け取ると、それを一気に喉に流し込み、先ほど同様、殻になったグラスをバーテンダーへと渡した。
「バーレイ・ティー、大麦をいり焦がし、そこから抽出した飲み物、さ。ビタミンも豊富で、何よりも微粒子ほどのカフェインも含まれていない。その辺のアイソトニック・ウォーターなんぞより、よっぽどヘルシーで安上がりだ。しかも、これは特注だぜ。みてみろ」
チラリ、フリオはバーテンダーに顎をしゃくるような合図を送ると、バーテンダーは心得たかのようにボール紙の箱を取り出してみせる。
「イシカワ・フーズのオリジナル・ミネラル・バーレイ・ティーだ。このトーキョーの蒸し暑い夏に必要なのは、あまったるいスポーツドリンクじゃない。この“ガンソ・ミネラル・ムギチャ”さ」
「しかし、ねえ、フリオ」
あっけに取られたように、ネッドは口を開く。
「確かに、昼間は常人ならば耐え切れないほどのハードワークをこなしたんだから、それぐらいのケアは必要なんだろうとは思うけどね。しかし、この高層階に位置するバーで、バーレイ・ティーだなんて……」
「まあ、それはこのテンダー・ボウイにもいわれたがな」
カラン、バーテンダーから受け取ったグラスを、またも豪快に飲み干すフリオ。
「まあ、そのボーイにもボーイなりのビジネス・ルールがあるんだろうよ。だからこうして、面倒くさいがバーボンのロックみたいなフェイクをかましているというわけだ」
「オーヤー、ミスター」
腕組みをして、感心したように唸り声を上げるベンジャミン。
「ミスター、あなたはリングの上だけではなく、オーヤー、私生活でも天才ですだ、オーヤー」
世界チャンピオンとそのマネージャー、そして専属ドライバーは、カウンターに腰を落ち着け互いの一日の労をねぎらいあう。
静かに流れるグランドピアノのソロ演奏、その穏やかな流れに身をゆだねる三人。
三人の間に流れる空気は、ビジネスという衣を脱ぎ捨てた、大人同士の最上の時間だった。
「オーヤー、それにしてもミスター、オーヤー」
ベンじいさんはきょろきょろと周囲を眺め回し、そして寂しげなため息をつく。
「このビルの陰には、オーヤー、ニンジャが身を潜めているとばかり思っていましたが、オーヤー。それに、きれいなキモノを着たゲイシャ・ガールの一人も見ることができませんでした、オーヤー」
「だから何度もいっているじゃないか、ベン」
励ますように、苦笑しながらネッドが声をかけた。
「このバーだって見てみなよ。日本は世界一二を争う先進国さ。ニンジャが飛び回るような、そんな時代じゃないんだよ」
「オーヤー、しかしですよ、めがねのミスター、オーヤー」
不服そうに、ワイルド・ターキーを一口含むベンジャミン。
「この国のショーグンのキャッスルはあったじゃないですか、オーヤー。それなのに、ニンジャがいないとは、オーヤー、このベンじいさんにはとんと合点外きませんだよ、オーヤー」
「ショーグンの持ち物だったのは、昔の話だ」
ミネラルムギチャをあおるフリオは、説き伏せるように丁寧に説明を加える。
「今はテンノーヘイカ、ジャパニーズ・エンペラーの住まいになっているのさ。まあ、一般の市民には有名なランニングコースになっているがな。俺たちも、毎朝毎朝、ロードワークで世話にもなっている。生粋の南部のブラザーには、なかなか理解しがたいことかもしれんが、古い歴史と最先端の文明が共存する、それがこの日本、トーキョーという場所なんだ」
「まあ、わが祖国イタリアも負けてはいないけどね」
こちらはスプモーニを片手にネッド。
「このバーだって見てみなよ。君の知っている日本の中で、こんなものは想像できたかい? もはやいろんな国を人は行き来し、国境なんてものがそう意味のない時代が近づいているのかもしれないね。だから、ベン、君もここがオクラホマでもテキサスでも、なんだっていいからホームタウンにでもいるような心地でくつろいだらいいのさ」
――パチパチパチ――
「オーヤー」
それでも不服そうなベンじいさんの背後で、終了したピアノソロへの惜しみない賛辞の嵐が吹き荒れる。
“ご清聴ありがとうございました”
スタンドマイクを手にした、日本人ピアニストが簡単な挨拶を口にする。
“もしよろしければ、ここでリクエストなどを受け付けさせていただきます。後には簡単なバックバンドも控えております。どのような曲でもお申し付けください”
「オーヤー、ミスター。ナント一輝だね、あのアジアのタキシードは」
日本語を解しない弁は、不思議そうに首をかしげる。
「そうだな、ようするにリクエストはないか、ってことさ」
そういってフリオは、ベンじいさんの腰を叩く。
「いいじゃないか、ベン。どうせだったら、あんたの好きな曲と、あんたのあの美声を響かせてくれよ。正直おれはこんなかたっくるしい感じよりも、いつかのマクラウドのダイナーで一緒にハンバーガーを食べた、あの感じが好きなんだ。スカしたアジアのヤッピーどもに、南部のソウルを見せ付けてやれよ」
すると、ベン爺さんの目がぱっと輝く。
「オーヤー、ご命令なら、オーヤー」
ベンじいいさんは、ひょこひょことピアニストの男性の前に近づくと、
「“‘F’at'd I Say”ですだ、オーヤー、ピアノのミスター、オーヤー。“‘F’at'd I Say”、偉大なるブラザー、レイ・チャールズの“‘F’at'd I Say”、オーヤー、分かりますか、オーヤー?」
きつい南部の鉛を何とか理解したピアニストは、どうやら十八番であるらしいその曲をバックバンドに指示し、そして自らは軽快に、アップテンポな鍵盤を叩き始める。
するとベンじいさんは、がっしりと自分よりも背の高いマイクスタンドを掴み取り
“Hey mama, don't you treat me wrong……”
南部出身の黒人のソウルを込め、ファンキーな美声を響かせ始めた。
ドッ、バー全体に火がついたような歓声が起こり、そして大きな拍手が鳴り響いた。
その様子を、フリオとネッドは大きな笑顔を浮かべ長々目、全身を奮い立たせるようなバンドの演奏とベンジャミンの美声に酔いしれた。




