3.8 (土)23:00
「お、もう始まってんぞ」
興奮を押し殺したような声で真央は言った。
すでに試合は始まっており、第二ラウンドの中盤であった。
会場は恐ろしいほどの熱気、いや、むしろ殺気に包まれており、多くの人々がリング上の両者に歓声を送っていた。
「会場どこだ?」
テレビ画面を睨むように眺め、真央は呟いた。
「客層見る限り、北米て感じじゃねーな」
観客たちの多くは、褐色の肌に黒い髪。
会場には、巻き舌の独特なイントネーションの声援が飛び交う。
タキシードにドレスのシックな装いに包まれた、北米のボクシング会場とはやや経路を異にしていた。
真央の言葉を受け、奈緒も画面に目を釘付けにする。
「そういわれてみれば……」
普段なら全く気にかける事のない会場の雰囲気の違いに、奈緒も気がついたようだ。
しばらく画面を注視していたが、見当もつかない。
「どこだろうね?」
テレビ画面の中ではチャド・フェルナンデスの軽やかなフットワークとジャブが軽快なリズムを刻む。
「……初めて見たぜ、チャド・フェルナンデスの生の試合……」
呟く真央の目は画面に釘付けとなる。
メキシカン特有の伸びやかなジャブを顔面に数発放った後、綺麗な右ストレートを叩き込む。
意識を顔面に集中させた後、今度はリズムカルにボディを攻め立てる。
流れるように、正確にパンチを打ち分け、正確にヒットさせる。
そしてそのまま距離をとり、情況を見てクリンチで距離をつぶす。
「……うめえ……」
それは、真央が理想とする、まさしく技術の宝庫だった。
はじめは真央と奈緒の様子を心配してリビングに戻ってきた桃だったが、その画面で展開されるムーブメントに釘付けになった。
桃は思い出した。
初めて真央の戦う様を見たときのことを。
すべての攻撃を上体で全てかわしきり、そして断った一発のパンチで急所を捉える。
その動きを、美しいとすら思った。
そしてこのリングで戦うメキシカンの姿に、桃はその時以上の美を感じ取った。
華麗なアウトボックスを見せるフェルナンデスに対し、ペドロ・ムニョスはべた足で頭を前面に出し、ジャブをほとんど使わず左右のフックを何度も振り回している。
「フェルナンデスはメキシカン、ムニョスはプエルトリカン、二人ともラテン系ボクサーだね」
奈緒が真央に語りかけた。
曲がりなりにも、一年間ボクシング同好会のマネージャーを務めてきたせいだろうか、ボクサーのくせや特質を分析する習性がついてきたようだ。
「ロベルトクレメンテ・コロシアム、開催地はプエルトリコ」
不意に、まるで自身に語りかけるように真央は呟いた。
「たぶん、間違い、ない」
「え? どういうことだ?」
真央の言葉に反応する桃。
「どうしてわかるのー?」
奈緒も訊ねる。
「見てりゃわかるよ」
その一言を口にした後、押し黙ったように画面を注視した。
その真央の様子を見て、釘宮姉妹も画面へと視線を戻した。
改めてみると、それは異様な光景だった。
フェルナンデスのシャープなジャブが当たるたびに、観客席から悲鳴にも似たブーイングが上がる。
「この声援が、本当にチャンピオンに与えられるべきものだと思うか?」
冷静に真央は呟いた。
一方ムニョスそのほとんどは空振りだが、パンチを打つその度に割れんばかりの完成が会場を包む。
「あー、確かに」
奈緒は気づいたようだ。
「手数ではどう見てもフェルナンデスが上回っているのに」
「成程、そういえば。どうみてもフェルナンデスがアウェーな感じだね。ってことは、君の言うとおり、ここはムニョスにとってのホームタウン、プエルトリコってことか」
桃は気づくと同時に、内心舌を巻いた。
わずかこれだけの情報で、リングの上情況をこれほどまでに冷静に分析できるものなのか。
ことボクシングにおいて、この少年の性格は変化する。
闘争の場において、この少年はとことんクールでクレバーなのだ。
「サッカーとかではよく聞くけど、ボクシングでもアウェーが不利ってあったりするのか?」
「サッカーのことはよくわからんけど、もともとホームタウン・デシジョンってのは、ボクシングで使われていた言葉だしな」
と説明を加えた。
「たぶんチーム戦では分散しているはずの悪意がリング上のたった一人の人間に向けられてるんだぜ。想像してみろよ」
集団競技における、いわゆるアウェーの洗礼と、個人競技におけるそれとの違いに、真央は身震いする。
「あ!」
桃が叫んだ。
「ムニョス、ちょくちょくバッティングしてないか?」
「けど、審判は注意すらしてしてねえだろ」
桃のほうを一瞥すらくれずに真央は言った。
「これがボクシングにおける“アウェーの洗礼”ってやつだ。ファイティング原田とファメションの第一戦も、こんな感じだったのかも知れねーな」
ムニョスは無数の声援に押され、軽やかなジャブなどものともせずに前に突っ込んでいく。
とにかくパンチを当てていけば、きっと技術差を打開できる、と信じているのだろう。
「けどよ、ムニョスにもたまったもんじゃねえと思うぜ。」
画面に注視したまま、桃と奈緒のほうに目をくれることもせずに真央は言った。
「えー? どうしてー?」
奈緒は首をかしげた。
「こんなに有利な状況なのにー?」
「声援ってのはな、常に失望と表裏一体なんだよ」
達観したかのように真央の言葉。
「もしこの戦いで負ければ、この歓声はすべて失望とあざけりに変わっていくんだ」
その後、一進一退の攻防が続き、第4ラウンドが終了した。
「ふわー」
奈緒が大きく深呼吸した。
「わたし、もしかしたらぜんぜん息してなかったかも」
奈緒の手には、べっとりとした汗が光沢を増していた。
そしてそれは桃も同じだった。
ボクシングを久しぶりに観戦したが、思いもよらず引き込まれてしまった。
まだまだボクシングに対する抵抗感はある。
しかし、高度な技術を持つフェルディナントのスタイルに、野蛮なだけのスポーツという考え方は改めなければならない、そう桃は感じていた。
「見た感じ、今のところ引き分けくらいかな? あたしにはよくわかんないけど」
桃は首をかしげた。
「どうかな」
真央は言った。
その表情はあくまでも真剣なものだった。
「この試合オープンスコアだから、それでわかるだろ」
そして両者の採点が発表されると、会場がすさまじい歓喜に包まれた。
「え? ほんとに?」
桃が叫んだ。
「三者一様に挑戦者、40-36って、点差つき過ぎじゃないか?」
そして第5ラウンドのゴングが鳴った。
会場の大声援の後押しを受けてムニョスの豪腕はさらなる唸りを上げる。
「おかしくないか? こんなアンフェア、有り得るの?」
納得のいかない表情の奈緒は、怒りの混じった言葉を口にした。
「プロボクシングはスポーツじゃねえよ」
真央は、桃をなだめるかのように言った。
「どういう意味?」
奈緒は訊ねた。
「ボクシングがスポーツじゃないって?」
「うまく言えねえけど、つうか、俺も受け売りなんだけどな」
前置きしつつ、真央は言った。
「ボクシングは、ボクシングなんだ」
「君さ」
桃はあきれた表情。
「なに言ってるかぜんぜんわかんないよ」
「だから言ったろ。俺にもよくわからないって。ただ少なくともこの試合に限って言えば、敵地におけるタイトルマッチなんだ」
悟り済ましたような冷静さを見せる真央。
「あらゆることを想定しておかなきゃならねーし、当然フェルナンデスもこの状況は織り込み済みだろーよ」
「じゃさ、なんであえて不利なところでタイトルマッチを決行したのかなー?」
奈緒が素朴な疑問を呈した。
「これもたぶん、だけど」
真央は静かに口を開く。
「さっきから君、あいまいな言葉が多いな」
と桃が真央の言葉に割り込む。
「俺頭わりいんだよ」
少々ひねくれた様子の真央に
「知ってる」
とこちらも冷静に返す桃。
「うっせーよ」
真央は顔をしかめた。
すると再び真剣な表情に戻り
「たぶん、1978年、カルロス・サラテのリベンジを狙ってるんだ」
「カルロス……なんだって?」
桃は聞き取ることができず、その言葉を聞き返した。
「ごめん、君と違ってあたしボクシング詳しくないんだ。説明してよ」
「1978年のことさ」
その視線は相変わらずテレビ画面に注がれていたが、その言わんとする内容を丁寧に説明した。
「このロベルトクレメンテ・スタジアムでプエルトリコの挑戦者ウィルフレド・ゴメスと、WBCチャンピオン、メキシコのカルロス・サラテが戦ったんだ」
「それで、どうなったの?」
奈緒は訊ねた。
「どっちが勝ったの?」
「勝ったのはゴメスさ。あの時の試合も、相当に白熱したものだったらしーぜ。なにせメキシコとプエルトリコ、ボクシングにおいては宿命のライバル同士だ」
そう言うと真央は拳をぎゅっと握りしめた。
「フェルナンデスは、この雪辱を果たしにこの不利な戦いにあえて臨んだんだ。あえて不利な情況で戦ってるんだよ」
ムニョスは頭を前に突き出し、なおも突進を繰り返す。
底なしの体力でフェルナンデスを追い詰めていく。
「あー、でも、どう見てもムニョスの方が勢いに乗ってるよー」
奈緒は心臓が破裂しそうな思いがした。
6ラウンド中盤、一瞬の出来事だった。
今までパンチをかいくぐるのみであったフェルナンデスは、本当に何気ない動きを見せた。
トンッ
「うぉっ!」
真央は思わず飛び上がった。
「なんだありゃあ!」
今まで何かを試すように繰り出されていたフェルナンデスの左ストレートがカウンターでムニョスの顎の上に、文字通り触れ、そして離れた。
それまで休むことなく繰り出されていたムニョスの腕の回転は完全に停止し、そしてそのまま足元から崩れ落ちた。
「今の何?」
奈緒は何が起こったか判断がつかないようだ。
そしてそれは会場のプエルトリカンも同様だった。
会場に悲鳴と絶叫が響き渡る。
「あれで人が倒れるの!?」
桃の両目はその瞬間を捉えることができたようだ。
「左手が顎を撫でただけじゃないか!」
「何てスウィートなんだ…」
真央が感嘆し、呟いた。
「スウィート? どういうこと、マー坊君?」
奈緒は興奮の中、真央に訊ねた。
「俺も詳しい意味はわかんねーけど」
真央は両拳を握り締めた。
「あーいうのをスウィート、って言うんだ」
ムニョスは何度か立ち上がろうと試みたが、完全に足は脳の統制下から外れていた。
無情のテンカウント。
フェルナンデスの防衛戦成功は、同時に祖国の英雄の雪辱、ひいてはメキシカンの愛国心を満たすものであった。
「すごい試合だったねー」
奈緒はまだ興奮した様子だった。
「いやー、いいもん見さしてもらったわ」
真央も満足げに両手で顔を撫でた。
「まあ、そう、ね」
桃もその興奮を隠し切れないようだ。
それをごまかすように、ちらりと時計を一瞥する。
「さ、そろそろ寝たほうがいいんじゃない? もう12時になっちゃうよ」
と桃が二人に就寝を促した、そのときであった。
『さあ、来週はいよいよ絶対王者フリオ・ハグラーとコンゴの“マンイーター”ビヌワ・ブウェンゲのタイトルマッチです!』
桃の言葉にわって入るように、テレビのスピーカーからナレーションが響いた。
それは、三人がカフェ・テキサコで目の当たりにした、あのフリオ・ハグラーの防衛戦のコマーシャルだった。
「あ、もう来週なんだねー、タイトルマッチ」
奈緒は、いまだに冷め遣らぬ興奮の中にいた。
画面上に、ダイジェストのように流されるフリオのノックアウトシーンに
「わー、やっぱりすごいねー」
無邪気に興奮する奈緒。
しかし
ピッ
「あー、桃ちゃん、何で消しちゃうのよー?」
桃は無言でテレビの電源を切った。
「あのフリオ・ハグラーの防衛戦の情報だよ? 全米の、世界中の人が心待ちにしているビッグマッチだよ!?」
奈緒はまだテレビを見たいと駄々をこねるが
「もういいだろ」
桃はそれに耳を貸そうとはしなかった。
「あんたは朝食当番だってことわすれないでね」
「ぷうう、そうだけどさー」
奈緒は不満そうだ。
「ねー、マー坊君もみたいよねー?」
と真央に同意を求めたが
「いや」
そう呟くと立ち上がり
「もうそろそろ寝たほうがいーだろ」
意外にも奈緒に就寝を促した。
いや、意外と言うべきではないかもしれない。
一生を拳闘に捧げると決めているいる彼にとって、朝は重要な時間なのだ。
「んんー」
それでも奈緒は不満そうであったが
「わかった……」
しぶしぶ了承した。
「さ、明日ちゃんと起きるんだぞ? もうあたしが奈緒に代わって朝食作りするなんてこりごりだからな?」
桃はそういって奈緒の頭を撫でた。
「わかってるって」
そういうと奈緒は
「じゃーね、お休み、マー坊君」
「ああ」
そういうと真央もリビングを出て行った。




