5.13 (水) 17:10
「……くそう、なんで毎回俺だけこんな目にあわなきゃならねーんだよ……」
左頬にティッシュを詰め込み、そしてナイフのような桃のつま先の食い込んだ鳩尾をさする真央。
その視線の睨みつける先にあるのは、きびきびと、妙にテンション高く歩く桃の後姿。
「……あの暴力メスマウンテンゴリラ……いつかぜってー先生に言いつけてやっからな……あの胸だってぜってー乳じゃねーだろ……道理で小さすぎると思ったぜ……大胸筋だ大胸筋……」
「ん?」
ぶつぶつつと呟く真央の言葉が耳にかすったのか、不意に足を止め振り返る桃。
「何か言ったか?」
「い、いやいや! なんでもねーよ!」
その言葉に、身の危険を感じた真央は全身全霊で自身の言葉を打ち消す。
「……い、いやー、桃ちゃんがまた、臨時コーチ引き受けてくれて、ありがてーなー、ってよ。ぎゃははは」
そして取り繕うかのような卑屈な微笑を浮かべた。
「そ、そうだよ、桃ちゃん!」
慌ててフォローを入れ、そして無理やりの笑顔を作る奈緒。
「も、桃ちゃんも関東大会あるのに、ほ、本当に引き受けてくれて、ありがとうねー。えへへへー」
「ま、君たちと付き合う限りは、しょうがないと思っているよ」
ふう、とため息をついて前を向き、再びそのすらりと美しい足を進める桃。
「ほら、早く行くよ。あたしも忙しいけど、それより学校側の都合とかもあるからな」
「……はははは……やめときなよ、マー坊君……」
その整った顔面を蒼白にして真央の腕を採る丈一郎。
「……正直、あんなシーンあんまり見たくないよ……ボクシングやってていうのもあれだけど……ベアナックルが顔面にめり込むなんてさ……もし相手がマー坊君じゃなかったら、本当に死んでもおかしくなかったと思うもん……」
「……ひ、一つ疑問なんすけど……」
以前は真央の暴走を止めるために体を入れたレッドは、今度は無意識のうちに真央をかばうようにして桃と真央の間に入る。
思い出すだけでレッドの背筋を凍りつかせる、ミサイルのような右ストレートと、ジャックナイフのような前蹴り。
桃の耳に自身の言葉が入ることを恐れたのか、無意識のうちのその声は極力小さくなる。
「……あ、あれだけリングのうえでパンチを避け続けていらっしゃるマー坊先輩が、く、釘宮さんの右ストレート、避けることはできないものなのでしょうか……」
「……不意打ち気味だから、よけづれーってのもあんだけどよ……」
今度は一切の言葉が桃に届かないように、と、いっそう真央のその言葉のボリュームは絞られる。
「……運動神経のせいもあんのか? あの全身筋肉の固まりみてーな体だからな……その体で、ばねがはじめる見てーに一瞬で距離つめてくるし……なにより、すげー無駄のないフォームで、一ミリのぶれもなく体重を乗せてきやがる……」
そして、ふんっ、鼻につめたティシュを取り出すとポケットにしまい、新しいティッシュを詰め替える。
「……あんな見事なストレートがほとんど不意打ちで飛んでくるんだぜ……天才の俺だからこんなもんですんでるんだよ……」
「……た、確かにそうかもしれません……」
レッドのその額に光る汗は、ジムワークによるものではない。
それは、目の裏に焼きつく、真央を打ちのめす桃の姿によりにじみ出た、冷や汗によるものだ。
「……陸上ではなくてボクシングを選んでいたとしても……釘宮先輩ならばそれこそすぐにでも全国大会出られそうですね……」
「……んで、こんなところで何するつもりなんだ?」
バンデージが硬く結び付けられた拳を腰に当て、真央は怪訝な表情で訊ねた。
桃がボクシング同好会を引きつれて足を運んだ場所、そこは以前低たちとともに神埼桐生の試合を見た、あの図書館に附属するメディア棟だった。
「つーか大丈夫なのか? こんなところに勝手に入ってよ」
真央は素朴が疑問を口にすると
「勝手じゃありませんけど」
「うおっ!?」
びくっ、不意を疲れた真央の視線の先には
「一応、釘宮さんに言われたので、顧問として私が許可を出しました」
真央たちの立つ、スクリーンを背景にしたステージの脇から顔を出したのは、ひょっこりと顔を出す岡添絵梨奈だった。
「わ、私だって、その……」
やや頬を赤らめ、遠慮がちに真央の顔を確認すると、両手でその頬を押さえる。
「……こ、顧問として、秋元君のお役に立ちたいですから」
すると、ぼそり、苦笑いを浮かべ、誰にも聞こえない独り言を呟く丈一郎。
「……岡添先生、一応僕も関東大会に出るんだってこと忘れちゃってるのかな……」
「……それはいいんだけどよ……」
タオルを頭に巻きつけ、周囲をぐるり見回すと真央は呟く。
「一体こんなところで何をするつもりなんだ? ここでトレーニングでもするつもりなのか?」
オペラハウスのようなシックな作りのこのメディア棟には、スポーティーなスタイルのボクサーたちの姿はどう見てもミスマッチだ。
「まあ、はじめてみれば分かるよ」
階下のステージへと続く階段の中腹で、桃は真央たちに声をかける。
そして、オーディオ機器を操作するコントロールルームに、手を上げて合図をする。
「レッド君、操作方法は分かりそうか?」
“オ、オッケーです!”
「どわっ!?」
明らかにオーバーボリュームのマイクから、コントロールルームのレッドの声が鳴り響く。
マイクを通し、かちゃかちゃとレッドのキー操作音が漏れ聞こえる。
“い、今、スマホとコントロールパネルつなげましたんで!”
かちゃかちゃかちゃ、パチン、キーボードのエンターキーを叩く音。
“これで、おっしゃるとおりの映像が流れます!”
「おっしゃるとおりの?」
と奈緒。
「映像?」
と丈一郎。
すると、ブゥ……ン、真央たちの両脇からハチドリの飛ぶような不協和音に続き、聞き覚えのある音が周囲を取り囲む。
カァ――ン――
メディア棟に、妙に後を引く大きくゴングの音が響き渡る。
「? こいつは――」
真央の表情が掻き曇り、眉間には深いしわが刻まれる。
そしてその後の静寂の後
“これより、関東高等学校体育大会――ボクシング競技群馬県予選大会ウェルター級決勝戦、両選手の紹介をします”
「この間の……神崎選手の群馬県大会決勝の映像ね」
岡添が呟いた。
「このくらいの設備がなくちゃ、できないない練習、さ」
ぱちん、と棟内の照明を落とすと、更に細かくレッドに指示を与える。
「レッドくん、もう少し小さくサイズ絞って――そうそう――うん、それくらいかな」
桃の指示によりその群馬県高い決勝の画像はダウンサイジングされる。
すると、ちょうど真央の目の前に
「……神崎……」
その高度なボクシングスキルをフルに引き出しながら、決勝戦を戦う神崎の姿がまさしく等身大で映し出されていた。
そして周囲を包む大音量とも相まって、まるで真央をして神崎桐生とリングにおいて対面せしめるような錯覚を覚えさせた。
「神崎選手がやっているような、パートナーをおいた練習は、確かにできない。だけど――」
そう言うと、桃はコツコツと階段を折り、そして真央たちのいるステージへと昇る。
「――だけど、こんな見事なメディア施設、きっと上毛商業にはないと思う。だからこそ、神崎選手にはできない君だけのトレーニングができるんだ」
その桃の言葉が、まるで耳に入っていないかのように、無意識に真央はファイティングポーズをとる。
「ま、もはや説明は要らないみたいだな」
桃は腕を組み、そして苦笑しながら説明を加える。
「このスクリーンは、講演会とかプレゼンテーション用に調整してあるから、このうえでどれだけ動いても影になることはない。だから、ここでイメージトレーニングをおこないながらシャドウボクシングをするんだ」
「そうか!」
と、手を叩く丈一郎。
「“淡々と今までやってきたことを繰り返すしかない”っていった鶴園先生の言葉通り、とにかくシャドウボクシングをこなし続ける、ってことか!」
「すごくいいアイデアだわ!」
小さく拳を握り、小躍りするように声を上げる岡添。
「聖エウセビオの最先端の映像音響システムを使えば、まるで神崎選手とリングに向かい合っているかのような、リアルなシャドウボクシングができるのね!」
「さっすが桃ちゃん!」
そのたわわな胸元を揺らしながら歓声を上げる奈緒。
「しかも、神崎選手は自分自身の調制の意味も込めて、3ラウンドをフルに、しかも、持てる技術を最大限に引き出しながら戦っているんだよ! だから、神崎選手のテクニックのせん術を、更に丸裸にできるんだね!」
「そういうことだね。現に、ほら――」
もはや自分の世界に入り込み、一陣の風と化したかのような真央に目をやる桃。
「このボクシングバカは、説明なんか聞いちゃいないけど勝手に画面上の神崎選手と戦っちゃってるよ。本当にリアリティーにあふれたシャドウボクシング、これは神崎選手には真似できない、聖エウセビオ学園ボクシング同好会の練習、さ」
ブゥ――ン
再び響くバズ音とともに、映像が消えうせる。
サンラウンドがあっという間に終了したのだ。
すると真央は、ようやく我に帰ることができた。
わずかな時間ではあったが、その全身からは輝く汗が水玉となる。
「……っかあっ…….はぁっ、はっ、はっ……いいぜ、桃ちゃん、この練習……」
そして、右の前腕部で汗をぬぐうと、ニィ、あのいつもの不適な微笑を浮かべる。
「……まってろやぁ、神崎ィ……俺の……俺等聖エウセビオのボクシングの底力ァ……たっぷり見せ付けてやっからよォ……首洗って待っとけよ……」




