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    5.13 (水)  16:50

 グラウンドに心地よい日陰を作る初々しかった新緑は、来るべき夏の光に備え、すこしずつその色を濃く染め上げる。

 半袖にするべきか、それとも長袖を選ぶべきか、少年少女の頭を悩ませるこの時期の大切な選択。

 しかし、もはや前者を選択することに一瞬の躊躇もいらなくなるであろう。

 そのキャンパスを、都心からやや離れた位置に所有するこの聖エウセビオ学園においても、浮き足立つような春の喧騒は過ぎ去りつつある。

 しかしそれに代わり、熱い湿気の混じった季節風が少年少女の夏への期待を嫌が応にも高めてゆく。

 

 そしてグラウンドのベンチで休息をとるこのクールな少女の胸にも、確実に希望に満ち溢れた夏が押し寄せつつあった。


「きゃっ!?」

 念入りに束ねられた、駿馬の尾を思わせる髪の毛の隙間に覗くうなじ、そのうなじに不意に感じた鋭い刺激。

 陸上競技用のタンクトップとショートパンツに身を包むその少女釘宮桃は、その見た目にそぐわない甘美な悲鳴を上げた。

「ちょ、ちょっと!」

 その長い手指でうなじを押さえ、頬を赤らめてその後を振り返る。

「ちょっと! なにするんだよ!」


「にひひひー」

 姿は消えてもその微笑が残るという、チェシャ猫を思わせる、いつまでも頭に残るようなニヤニヤ笑いを浮かべる少女。 

 その手には、氷のように冷えたスクイージーが。

「“きゃっ!?”だってさー。本当に桃の反応ってかわいーんだから」


「もう! ふざけないでよ!」

 桃は眉間にしわを寄せ、その手に丸めたタオルをその少女に投げつけた。

「マネージャーのくせに、そういうわけの分からないことして部員のペース乱してどうするんだよ、文緒!」


「だって、こういう不意をついたときの桃って、すっごくかわいいんだもん」

 手元にしたスクイージーを桃の手に握らせ、恭しく、という表現がぴったりの仕草でタオルを桃の肩にかける、聖エウセビオ学園陸上部マネージャー日向文緒。

「いつもクールな桃だけに、たまにはこういう所だって見てみたいじゃん」


「……んっ…んっんっ……ぷはぁ、ったく……」

 目じりに指を当て、苦々しい表情で水分補給をおこなう桃。

「……そういうわけの分からないこと考えてる場合じゃないでしょうが……」


「にひひひ、そうでしたそうでした」

 ちょこんと桃の横に腰をおろした文緒は、桃の怒りをなだめるかのようにファニーな笑顔を浮かべる。

「愛しの秋元君との、関東大会アベック出場ですもんねー」


 ブッ、その文緒の言葉に、桃は口に含んだスポーツドリンクを吹き出してしまう。

「ちょ、ちょっと! 何いってんだ、文緒!」


 都内でも強豪校として知られる聖エウセビオ学園陸上部。

 当然加入者の多くは女子ではあるが、その中でも釘宮桃の存在は関東においても知れ渡っている。

 秋元真央に引き続き、聖エウセビオ高校陸上部釘宮桃は、100m・200mにおいて関東大会出場を勝ち取っていた。

 そして、真央や丈一郎同様、朝礼において全校生徒の前で賞状を受けるという栄誉に浴していた。


「べ、べ、別に、関東大会出るのはあたしだけじゃないだろ! なんであのバカとアベック出場なんて表現する必要があるんだよ!」

 全身を震わせながら、全霊をもってその言葉を打ち消した。


「えー、そのあわてっぷりが逆に怪しいんだけどー」

 じとりとした視線を、例のチェシャ猫の笑いに載せる文緒。

「でもさ、ほら。桃も秋元君がカレシとか思わせておいた方がいろいろ面倒くさくなくていいんじゃない? この間の朝礼の時も、黄色い声援すごかったしさー」


「……もうやめて……その話は……」

 その言葉に、桃はひたたび目じりを押さえ、がっくりとうなだれる。

「……あれ以来、また靴箱のラブレター増えちゃったんだから……」


「やっぱりそうなんだ。やっぱり何だかんだで聖エウセビオは女子校みたいなノリがあるからね」

 落ち込み方をすぼめる桃の肩を、ポンポンと叩いて慰める文緒。

「まあ、気持ち分かるよ。前見せてもらったラブレターの内容も、なんかすごかったもん。“愛してます、釘宮様”“私のお姉さまになってください”“あなたになら、すべてを捧げられます”だもんね。もう本気度が高すぎて、あたしでも引いちゃったもん」


「……ねえ文緒……」

 うつむきながら、この生命の躍動かな触れる少女には似合わない、弱弱しい声で訊ねた。

「……あたしって、そんなに男っぽく見える……?」


「え、えっとぉ……別に男っぽく見える……っていうことじゃないとは思うけどぉ……」

 しどろもどろになりながら視線を中に泳がせる文緒。

 まるで空の雲の中に答えるべきこと場を探すかのように。

「ほ、ほら、桃って格好いいじゃん。かわいいっていうか……綺麗、っていう表現が似合うもんね。だって今すぐにでもモデルに慣れそうなスタイルしてるんだもん」


「……やっぱりそうだよね……」

 はあ、深いため息をつき再びうなだれる桃。

「……別に男にもてるもてないなんて心底どうでもいいんだけどさ…せめて女枠に入れてみてもらいたいよ……」


「でも、いいじゃん。桃って身長高いしスタイルいいし。確か身長、ひゃくななじゅ――」


「ひゃくろくじゅうきゅうてんきゅう!!」

 目を見開き、引き裂くような声で反論の声を上げる桃。

「文雄がどう思おうが、あたしの身長は169.9! 一ミリだって逆サバなんか読んでいないんだからな!」


「わ、わかった! わかったから落ち着つこ? ね?」

 まるで暴れ馬をなだめるかのように、慌てて文緒は桃の背中をさすった。

 そして、その顔を見つめてにっこりと笑う。

「大丈夫だって。確かに桃は女の子にももてるけどさ、それと同じくらい男子にも人気あるの知ってるし。それだけ綺麗なんだからさ。羨ましいくらいだし」


「何いってんの。大体文緒には大事なカレシが――」

 そういってようやく笑顔を浮かべた桃にたいし


「別れた」

 文緒は小さく呟いた。


「え?」

 その瞬間、桃の顔に小さな後悔と困惑が広がる。

「……ご、ごめん……その……知らなくて……」


「別に気にしなくていいよ」

 そう言うと文緒はベンチから立ち上がり、桃に背を受けたまま

「……んん――っと、はあ」

 大きな伸びを一つ見せた。

 そして、そのままあっけらかんと口を開く。

「まあ付き合ってから結構長かったし。向こうも大学生で、最近全然会えなかったしさ。まあ、あたしも忙しかったし、しょうがないかな、って」


「……ごめん文緒、変な感じになっちゃって……」

 同じく立ち上がり、その背中に小さく頭を下げる。

「……なんか、デリカシーのないこといっちゃったね……」

 桃は目を閉じ、うなだれたようなしぐさを見せた。


 すると

「……もし悪いなって思っているんだったら……」

 文緒は再びあのチェシャ猫の笑顔を見せたかと思うと

「えいっ!」


「ひゃっ!? っちょ、ちょっと!」


「にひひひひひ」

 桃の後ろに回りこんだ文緒は、桃のそのささやかな胸元をもみしだいた。

「しばらくあたしの体も寂しいからさー、あんたのこのぴちぴちの体で慰めてもらうしかないかなー!?」


 顔を真っ赤にした桃は、全力を込めてその体を振りほどいた。

「いい加減にしろあんたは! 変態親父か!」


「にひひ、なんだ、結構いい体してんじゃん」

 いたずらな微笑で桃を茶化す文緒。

「ま、桃には、あたしなんかよりあの秋元君の見事な肉体の方がお好みですかな?」


 またもや真央との関係を揶揄するようなその言葉に、ついに桃は怒鳴り声を上げようとする。

「もう頭きた! さっきから聞いていれば! 何度もいうけど、あたしと――」


「「「「もーもちゃーん」」」」


「――あたしとあいつは、恋愛感情とか、そういう――」


「「「「もーもちゃーん!」」」」


「――そういうの、あたし――」


「「「「もーもちゃーん!!」」」」


「あ」

 いつぞやのように文緒はグラウンドの左奥隅を指差す。

「奈緒ちゃんじゃん。妹さん。あとは、あ、川西君! それと……新しい同好会の子かな、一年生だと思うけど。それと……」

 口元を押さえ、ニヤニヤとした笑いを浮かべた。

「にひひひ、ほらほら、最愛のあのお方がお呼びですよー」


 桃は無言のまま、ゆらりとその文緒の指差した方向へと歩みを進めた。


「文緒センパーイ」

 桃を見送るその背中から、陸上部の一年生が声をかける。

「スクイージー回収に来たんですけど……って、あれ? あれ、釘宮先輩ですよね? なんだろう……なんていうか……」

 そう言うと、後輩は困惑気味に眉間にしわを寄せて桃の背中を見送る。


「うん。そうだよ」

 すました顔で、文緒は後輩とともにボクシング同好会の一群に近づく桃の姿を見つめる。

「確かに、いつもと違って、こう……うん。禍々しいオーラを身にまとってるね」


「あ! すごい!」

 後輩が口を押さえてグラウンド奥の桃を指差す。

「さすがすごい瞬発力ですね! 一瞬で距離をつめて……わっ! 右の拳が……えと……秋元先輩! 秋元先輩の顔に突き刺さった!」


「そうだね! あたしも初めてみたよ! 人の顔にグーパンチがめり込んだとこ!」

 後輩同様、文緒も驚嘆の声を上げた。

「うわー、今度はつま先がもろにみぞおちに食い込んでるよ……きっとあれさ、相手が秋元君じゃなかったら……うん。死んでるね」


「……そういえば、あの二人、って言うか、A組の釘宮さん、釘宮先輩の妹なんですけど、三人で一緒にすんでるって本当ですか? もしかして、釘宮先輩と秋元先輩、あの二人って恋人同士なんですか?」


「違うよ。親戚同士で一緒にすんでるらしいから」

 後輩の言葉に、文緒は苦笑を返す。

「……でもなんか……あの感じはそれだけじゃないような気もするけどね……」

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