5.13 (水) 16:30
「おっしゃ丈一郎、リング上がれや」
すでに準備万端、真央はバシン、とグローブ同士を胸元で叩きつける。
昨日の西山大学付属での合同練習、西山大学のボクサーと一触即発の雰囲気のまま終わった。
やりこむべきスパーリングを十分にやり切れていない、二人のボクサーを容赦なくマットに沈めたはずの真央の胸は焦りといら立ちとで張り裂けそうだ。
「関東大会本戦も間近だからよ。お前だってトーナメントB代表で出場するんだからよ。もうそろそろ追い込んでおかなきゃよ」
真央は口中に無造作にマウスピースを放り込んだ。
しかし
「……いやー……関東本戦が近いってのは、重々承知してるんだけど」
ヒュン、ヒュン、ヒュン、懸命なロープスキッピングの手を緩めることなく、丈一郎は横目で真央の姿を見ながら苦笑いを返した。
「……受けて立つよ! って、普段なら言うところなんだけど……ちゃんと加減してくれる?」
「ああん? どういう意味だこの野郎」
リング中央からロープ際に丈一郎を見下ろすと、ガンッ、苛立ち紛れにロープを荒々しく叩く。
ビィ――ン――
張り詰めた空気の中に、細かく空気を震わせるロープの余韻が響く。
「まるで俺が体重差すら考慮できねえようなへっぽこボクサーみてーな言い方するじゃねえか。ああ?」
「だ、だめだよ、マー坊君! ちょっと落ち着いて!」
慌てて奈緒がロープ際に駆け寄り、そして両者の間に割ってはいる。
そして、おろおろと泡を食ったように、恐々と真央をなだめる。
「さ、最近マー坊君、なんだか力の加減がおかしいからさ……す、すこし……うん、ほんの少しだけ、落ち着いてからの方が……なんて……ね?」
その語尾には、あの愛らしい笑顔が添えられた。
あの桃ですら叶わないまん丸な奈緒の笑顔。
“鬼神も退く”その笑顔には、さすがの真央も引き下がるしかない。
「……ちっ、たくよお、しょうがねーな。ほんじゃ……」
ぐるりジムの内部を見渡せば、まおのみ実にも響く、ズシン、ズシンの重い突貫音。
「……体重も考えれば、あいつしかいねえが……さすがに無理だわな……」
はき捨てるかのように、苦々しい思いで呟いた。
「……あははは、さすがに……さすがにそれは無理だよ……」
「……うん、そうだねー。まだまともにマススパーすらしたことないのに、いきなりマー坊君とのスパーリングなんて……ねえ……」
丈一郎と直は顔を見合わせて苦笑い。
その三人の視線の先には
「うっしゅ! うっしゅ! うっしゅ! ぶはあっ!」
スピードはさほど感じられないが、ようやくその拳に体重を込められるようになったようだ。
するとレッドは、自身に寄せられる視線に気がつく。
「ぶっしゅ! ふっしゅ! はあはあっ……ん? ど、ど、どうかしましたか? はあはあっ、皆さん!」
お気に入りの電撃バップのTシャツを汗に染め、全身を震わせて呼吸するレッドの姿だった。
「とはいってもよ……どうすりゃいいんだよ!」
ゴキッ、再び苛立ちまぎれに、今度はリングのコーナーポストを力いっぱい殴りつける。
その衝撃に、リング全体がミシミシと音を立てる。
真央の脳裏に浮かぶ、縦横無尽にリングを支配する神埼桐生の姿。
「……あんの野郎はもっと頻繁に大学の連中とスパーリングやってるっつーじゃねえか……」
そしてその記憶は、先日の西山大学附属高校での合同練習へとさかのぼっていった。
「一体、どうしたというのかね?」
きしむ開閉トビラをあけ、鶴園監督は西山大学附属高校のジムへと姿を現す。
「ちょ、ちょっと、秋元くん!?」
その後につき従うように入城した岡添絵梨奈は、その視線の先にある状況に両手で口を押さえる。
「な、何があったというの? これはどういうこと?」
「今さっき説明した通りっすよ」
げんなりとした口調と表情で、西山大学拳闘部山本は腰に手をやる。
「うちら西山大のボクサー二人もあっという間にナックアウトして、そんでも暴れたりねえ見たいっすよ」
「……ううううう……あっ! 先生! 鶴園監督も!」
リング上で真央を背後からはがい締めにしていた丈一郎は、リングの下に“救世主”を見た思いがした。
そして最後の力を振り絞り腕に力をこめ、そして真央に声をかける。
「ほ! ほ! ほらマー坊君! 鶴園先生と! 岡添先生も来たからあっ! だっ! だからちょっと……欧ちょっと落ち着いて!」
「ああ?」
鼻筋にしわを寄せ、そして丈一郎の視線の先を追えば
「ちっ……」
その二人の姿に、さすがの真央も全身の力を緩めざるを得なかった。
すると
「ふっ、ふ、ふわっ!?」
「ちょっ、ええええ!?」
急に力を抜いた真央の体に、一生懸命前方に力を加えてそれを押しとどめようとしていた奈緒とレッドの体重がのしかかった。
その結果
ガンッ!
「あでっ!」
体勢を崩した真央は、豪快にキャンバスに後頭部を叩きつける羽目になった。
「……すいません皆さん。わざわざ合同練習を引き受けてくださったというのに……」
リングサイドの板の間で、深々と頭を下げる岡添。
「……本当にごめんなさい……こんなになっちゃうなんて、予想もしなかったので……」
そして同じく大きく腰を折る奈緒。
先ほどまで、乱闘寸前の一触即発の状況を迎えていた大学生。
当然、そのような謝罪など受け入れられるはずもな――
「い! いえいえいえいえ! そ、そんな謝罪なんて、全然いらないっすよ!」
「そうそうそうそう! な、奈緒ちゃんと、先生が謝罪する必要なんて、全然ねーんすから!」
「おおおおおお! 俺ら、全然気になんかしてねーっすよ! ホントっすから!」
――鼻の下を伸ばした学生たちは、大げさに手を振りその謝罪を受け入れた。
当然その視線の先にあったもの、それは、事務の暑さに耐えかねブラウスのボタンをはずし肌蹴た岡添の大人の色香薫る胸元と、そして“聖エウセビオ学園”のロゴが載ったTシャツからのぞく、その幼い外見からは想像も出来ないようなわがままな奈緒の谷間だった。
「まあまあ、スパーリングでの出来事です。しかも相手は大学生だ。“最後まで立つ者が勝者”、それがリングのおきてですからな」
そう言うと、鶴園は目を細めて岡添と奈緒に頭を上げるように促した。
そして真央に向かって口を開く。
「しかし秋元君。少々君はあせりすぎだ。いくら試合が近い、そして相手が天才とうたわれた神崎桐生君であったとしても、そこまでナーバスになる必要はあるまい」
「……別にそんなつもりはねーよ……」
はき捨てるようにしてそっぽを向く真央。
しかし、ポケットに突っ込んだその両手は硬く握り締められていることが手にとるように分かる。
その言葉とは裏腹に、その心はあせりにとらわれ、通常のテンションではないことは火を見るより明らかだった。
「……まあ、気持ちはわからんでもないがね……」
鶴園は苦笑いで真央の姿を見つめた。
その笑いからは、真央の才能に見合うウェルター級のボクサーを育てられていないことへの自嘲が感じられた。
「ただ、自分で自分をコントロールできない人間に勝利はありえないこと、君も分かるね? 聞いた話だが、神崎君もすでに同年代にパートナーがいないために、頻繁に拓洋大学の選手とスパーリングをおこなっているらしい」
「ああ、そういえばそれ、聞いたことありますよ、俺も」
鶴園の言葉に鄭も同調する。
「拓洋大の主将の内野さんが上毛商業出身で、そんで未来のオリンピック候補を囲い込むために大学側でも神崎のことを最大限にサポートしているらしいっすよ」
「……んだと?」
その鄭の言葉に、再びいきり立つ真央。
「神崎の野郎、そんな環境で練習してやがんのか?」
「俺に切れてどうすんだよ、秋元。少しは冷静になれよ」
両腕を組み、顔をしかめる鄭。
「俺が言うのもなんだけどさ、傍から見る限りお前だってあいつと比べて劣るってわけじゃねーよ。まあ、タイプは違うけどさ」
「ああ。となると、勝敗を分けるのは精神力だ」
鄭の言葉にうなずく山本。
「お前が今みたいに空回ってばっかいたんじゃな、向こうがアマチュアのリングのキャリアで勝ってる分、お前、勝負落とすことにもなりかねねえぜ」
その山本の言葉に
「誰が空回ってるだと!? ああ!? 言ってみろやこの野郎!」
「そういうのを空回ってるっていうんだよ」
冷静な言葉を返したのは鄭だった。
「とにかく、今から新しいことをやったところで何一つ身につくはずもねーよ。今は冷静に、自分のやってきたことを一つ一つ見つめなおしていくしかねーんじゃねーの?」
「こればかりは鄭の言う通りなのかもしれないね」
その言葉に、目を細めてうなずく鶴園。
「今はとにかくあせってはいけない。とにかく自分自身を押さえて、淡々と今までやってきたことを繰り返すしかないだろう。そうでなければ、君の目指す金メダルもおぼつかなくなる。今を試練の時だと思いなさい。わかったね?」
鶴園の言葉に、聖エウセビオ学園ボクシング同好会の面々は、言葉なく耳を傾けるほかなかった。
「ああもう、面倒くせえっ!」
鶴園の言場にもかかわらず、やはり苛立ちを隠せない真央は叫ぶ。
そして、丈一郎とレッドの二人を指し
「おう、お前ら合体しろ! 丈一郎の技術とレッドの重さがあれば、何とかなんだろ!」
「む、むちゃくちゃっす! マー坊先輩!」
「あははは、気持ちは分かるんだけどさ……」
丈一郎とレッドの二人は、むしろ困惑の方を隠しようがなかった。
「ったくよお、使えねえやつらだぜ……」
理不尽大王の捨て台詞もむなしく響く。
「……やってきたこと一から見直すっつってもよお、そんなもんいまさら意味あんのかよ……」
すると
「……やっぱりあの人にご登場願うしかないかなー……」
腕を組み、悩ましげな声を上げていた奈緒がようやく口を開く。
「こういう時は、やっぱりあの人に聞いているのが一番だよ」
「そっか!」
と丈一郎。
「それならきっと大丈夫かも! やっぱりあの人しかいないよね!」
「……うーん、あんま気が進まねーな」
と真央。
「けど、やっぱしょうがねーか」
「!? ど、どういうことっすか!?」
三人の様子に、困惑気味の声を上げるレッド。
すると真央は、すでに伸び始めた頭をもしゃもしゃとかいて答える。
「……ま、ついてくれば分かるよ……」
「そうと決まれば、善は急げ、だね!」
「うん! じゃあ、行こうか」
奈緒と丈一郎は、意気揚々と部室の立て付けの悪いドアをこじ開けた。




