5.12 (日) 8:00
旧型の鍵を錆び付き始めたピンタンブラー錠に押し込み、時計回りの方向へ倒す。
カチャリ、常はスムーズに開け放たれたが、築40年を数えるであろうアパートのドアはやすやすとは開かない。
神埼桐生は肩をその表面に押し当てるようにしてがたがたとゆする。
すると、きしむような音とともにようやくドアは開く。
いつものことだ、何一つ問題はない、神崎はこれも体全体でドアを閉め、そしてチェーンロックを降ろした。
いつものトレーニング兼アルバイト、早朝の新聞配達を終えた神崎は、がさごそとスニーカーを脱いだ。
「……ん……」
ふと気がつけば、リビング――とはとても呼ぶにははばかられる居間から、何事かの気配がする。
タオルで首筋や額を拭きながら、神崎ががらりと、これも時代遅れのガラスのはまった障子戸を開く。
「……起きてたのか、紫……」
神埼桐生の妹であり、現在残るたった一人の肉親、神崎紫は、まるで意図的に兄の存在を無視するかのようにその問いかけに反応を示さない。
やれやれ、と神崎は頭をかいた。
最近、特に折り合いの悪くなりつつあるこの血を分けたたった一人の肉親、その年齢によるせいであろうか、神崎は少々もてあまし気味だった。
「……ほら。これ、販売所の人がお前のために朝食持っていけってさ……腹減ってんだろ……」
右手に提げたビニール袋を卓袱台に乗せる。
神崎としては、できうる限りの笑顔と優しい言葉で接したつもりであったが
妹、紫は一言も発することなくビニール袋を乱暴にあさり、中にあった握り飯やから揚げ、卵焼きやウィンナーソーセージなどを口いっぱいに突っ込んだ。
ふう、神埼桐生の心労は絶えない。
ため息の後、先ほどより妹が一心不乱に眺め続ける、そのテレビ画面の映像に目を凝らす。
「……お前またこのDVDみてんのか……」
こくり、このときばかりは紫も首を縦に振る。
「……どうでもいいがお前……」
そう言うと、神崎は紫の着ている服装に苦言を呈す。
「……そんな下着みたいな格好してると、風邪引くぞ……夏前っつっても、まだまだ朝晩は冷え込むからな……」
しかし、相変わらず紫は無言のままテレビモニターを注視し続ける。
その服装は、小さなピンク色のパンツに、同じくピンクのキャミソール。
髪の毛は無造作に、そして天子の翼のように両の首筋で揺れている。
例え神崎が紫の肉親ではなかったとしても、は男性としては注意の一つも入れざるを得ない服装だった。
そして、ファサッ、神崎は首もとのタオルを紫に投げ渡す。
「……せめてそれかけてろ……」
そのせめてもの、という兄の心遣いに、キッ、妹は兄を睨み返し、乱暴な言葉を投げかける。
「ほっといてよ! 大体、新聞配達言って汗ふいたあとのタオルなんて、臭くて使ってられるかよ!」
そういって、力いっぱい兄の顔面にタオルを投げつけた。
「……まあ、何でもいいんだが……」
投げつけられたタオルの隙間から、あのクールな視線で紫を指差す。
「……見えてんぞ……」
その言葉に、妹の紫は眉間にしわを寄せながら訪ねる。
「? いったい何の話?」
「……あーんと、そうだな……」
すると、兄は気まずそうに口ごもり、そして意を決したように口を開く。
「……見えてんだよ、先っぽ……」
「……」
恐る恐る自身の胸元を覗くと
「いやああああああ! 変態! バカ兄貴! なんでもっと早く言わないんだよ!」
そう言って両腕で胸元を大げさに隠した。
「……見られて困るんならきちんとしまっとけ……まあ、しまうほどの量もないだろうが……」
面倒くさそうにため息をつく兄。
「……大体、お前そんな高そうな下着使って、全く効果ないじゃねえか……」
すると、紫は両目を潤ませながらデリカシーのかけらもない言葉を吐く兄に食って掛かり
「うっさいな! 紫の胸がどうだろうと、兄貴には関係ないだろ! 大体、中学生の妹の胸を嫌らしい目で見る兄貴の方が問題だよ!」
「……見たんじゃねえよ。見えたんだ……」
食って掛かる妹を華麗にスルーし、台所に足を運ぶ神崎。
ガシャン、年代物の冷蔵庫を開けると、そこから麦茶を取り出し二つのコップに注ぐ。
そしてそれを持って居間の卓袱台へと置いた。
「……大体妹の体に欲情するほど俺は暇じゃない。そもそも親父とお袋が夜勤でいない時は、俺がお前の風呂の面倒見てたんだ。今更俺に裸見られたくらいでそんなに大声上げる必要もないだろ……」
「大ありだよ!」
しかし妹の紫は、不満そうに座布団を兄のもとへ投げつける。
「それに兄貴! 今紫と綾子さんの体頭の中で比べたろ!」
妹の投げつけた座布団をしっかりとキャッチし、それに腰掛ける神崎。
「……くだらねえこと言ってんじゃねえ。そんなわけあるか……」
「どうだか!」
紫はむくれてリモコンを手に取ると、再びその再生スイッチを押した。
「……しかし、お前も物好きだな……」
もぐもぐもぐ、握り飯を頬張りながら、呆れたような表情で妹に対しつぶやく。
一心不乱に関東予選の東京都大会の映像を見つめる妹、なぜそこ撫で子の映像に執着するのか、神崎にはその真意が測り兼ねていた。
「……この間から暇さえあればそのDVD見てるよな。何か気になることでもあったのか……」
いつものあのけだるい、抑揚のないトーンで語りかけた。
すると、紫はすっくと立ち上がり
「ねえ」
後ろを振り向いてその質問に答えることなく兄に命令する。
「ねえ、髪切ってよ、今すぐ」
兄はくりぬいた新聞紙から顔を出す妹の髪の一束を丁寧に櫛の柄ですくう。
プシュウ、プシュウ、その一束一束に、丁寧に霧を吹きかける。
「……いつもながらに唐突だな、お前の行動は……」
そして、すいすいと櫛でその髪をすく。
「……大体、お前の散髪代くらいは与えているだろう。俺みたいな素人じゃなく、きちんとした床屋なり美容室できればいいだろうが……」
「うっさいな。つべこべ言わずにさっさと切ってよ」
ふくれっ面を隠そうともせず、紫は兄にぞんざいな言葉で答えた。
そして、誰にも聞きとれないような小さな言葉で呟く。
「……兄貴以外の人に、この髪の毛触られたくないんだよ……」
ちゃき、ちゃき、ちゃき、手慣れた手つきで神崎は妹の髪の毛にハサミを走らせる。
「……しかし、そろそろ本当に俺の散髪から卒業しろよ。俺ができるのなんて、毛先をそろえたり、長さを調節してやるくらいのことなんだからな……」
「それぐらいで十分だよ。別にわざわざお金払ってまで美容室で髪の毛切ろうとは思わないから」
散髪の最中だからだろうか、ややリラックスした表情で紫は答えた。
「ヘアゴム二つで頭の脇に結んでおけば全然問題ないし。ずっとこの髪形のままで行くつもりだし。ところでさ」
「……なんだ……」
しょきしょきと指を動かしながら、妹の問いかけに答える神崎。
「あのDVDの奴……あきもとまひろ、だっけ? あいつどんなやつなの?」
首を固定したまま、流し目で後ろを見るようなしぐさで兄に対し問いかける。
「……俺もよくわからねーよ。少なくともボクシングのスタイル以外のことはな……」
相変わらずに軽快にはさみを走らせ、時折シュッ、シュッと霧引きをかける神崎。
「……ただ……」
「ただ?」
すると兄、神崎桐生は顔をしかめて口を開く。
「……とてつもなく頭は悪いらしい……」
ぷっ、思いもよらぬ兄の言葉に、妹は噴き出す。
「ちょ、兄貴! そういうこと聞いてるんじゃなくって……でもまあ、確かに何度見ても頭悪そうな顔してるよねー!」
そういうと、その顔にようやく笑顔が浮かんだ。
「……そうだな……」
ようやく和らいだ妹の表情に、兄も安堵の笑顔を浮かべた。
それからしばらく、兄と妹は散髪をしながら、久しぶりの和やかな雰囲気の中で会話を続けた。
「んー、まあまあかな」
合わせ鏡で、上機嫌で自分の髪型全体をチェックする紫。
「この間よりもうまく切れてるし、これなら70点挙げてもいいかな」
「……いってろよ……」
神崎は紫の髪の毛を始末しながら、呆れたような声を返した。
「……そうだ、今度、お前綾子に切ってもらえよ。俺みたいな素人が切るより、美容師目指してる女に切ってもらった方が――」
すると、ぼすん、紫はその無防備な兄の顔面に、またしても座布団を叩きつける。
「ふざけんな! せっかく髪の毛気持ちよく切ってもらったのにさ、何でそこで綾子さんの話が出てくるのよ!」
思わず口走ったその言葉、さすがの神崎もばつが悪い。
「……すまない。いや、別に他意はないんだ。ただ純粋に、俺が着るよりは、あいつに切ってもらった方がいいと思ってな……」
「普通、妹と二人っきりでいる時に、にやにや鼻の下伸ばしてほかの女の人の話する!?」
目を潤ませながら、本当に何か不潔なものでも見るかのような視線で神崎を睨みつける。
すると紫は、床に無造作に転がっていたジーンズに足を通し、上にはフード付きのパーカーを着込む。
「いっつもいっつもこんな感じじゃんか! やってらんないってんだよ!」
そう言って玄関に足早に向かった。
「……どこ行くんだ、こんな朝っぱらから……」
神崎は、やれやれ、とでも言いたげなため息をつく。
「……大体お前、また中学サボっただろ。いくら義務教育で、お前が成績いいからって、さすがに……」
「うっさい! どこ行こうが紫の勝手だろ! 兄貴には関係ない!」
ぞんざいな捨て台詞を残し、神崎紫はそのままアパートの外へと姿を消した。




