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    5.12 (日)  6:15

「あ、おはよう、マー坊」

 毎日の日課、早朝のランニングから返ってきた桃は、呼吸を整えながらリビングに足を踏み入れる。

 首にタオルをかけたまま、心身を清めるような心地の良い春の早朝の空気の余韻を楽しんでいるように見えた。

「体調はどう? 少しは良くなった?」


「よぉ、桃ちゃん」

 ソファーに寝そべるような大成で挨拶を返す真央。

 その顔色はやや優れないようにも見えるが、昨日の体中がサンドペーパーでこすり上げられたような感覚はどこかへ消し飛んでいた。

「なんか、体がまだちっとばかし重てー感じがすっけど、まあ、昨日の夜中よりかはだいぶましだわ」


「そっか、よかったな」

 ランニング後の爽快感がそうさせるのだろう、桃は真央の看護の疲れを微塵も見せることなく笑顔でそう答えた。

「そういえばさっき奈緒からメールあってさ。これから帰ってくるってさ」


「ふーん。つーか――」

 チラリ、真央は壁にかかった時計に目を移す。

「――つーか、まださすがに早すぎねーか? まだ朝の六時ちょい過ぎだぜ?」


「まあ、宿題終わったっていうし。それに……」

 桃は目じりを押さえ、苦々しい表情で言った。

「……君が熱を出して今日同好会に行けない、ってメールしたらさ、君の看病をする、って言うメールが帰ってきたんだ……」


「マジか? つーか俺、もうほとんど治ってんぞ?」

 すると真央は、腋の下に挟んであった体温計を取り出してその数値を確かめる。

「ほれ。もう37度ちょいまで体温下がってるからよ。別に奈緒ちゃんにまで迷惑をかけるつもりはねーんだけど」


 その言葉を耳にすると、ポツリ、桃は小さく呟く。

「……まあ、あの子のことだから、きっと君を看病したくってたまんないんだと思うよ……」


「ああん? なんか言ったか、桃ちゃん?」

 ぼそぼそと聞き取りづらい桃の言葉に、真央はその内容を問いただすが


「なんでもないよ」

 一転してぶっきらぼうに桃は言った。

「それじゃあたしシャワー浴びてくるから。着替えたらご飯作ってあげるから、もう少し待ってて」


「ああ」

 すると、何かを思い出したかのように

「……あっと、桃ちゃん!」

 廊下の奥に消え去る直前の桃の後姿に声をかけた。


「? なんだ?」

 ポニーテールをふわりと揺らし、後を振り返る桃。

 そしてその髪を止めているのは、運動用の黄色いヘアゴム。


「……っと……あの……」

 しばらく頭の中で言葉を捜すかのように逡巡したが、ニィッ、あのいつもの不敵な笑顔を浮かべた。

「……サンキュな。桃ちゃんは俺の命の恩人だわ」


 その大げさな表現に、つい桃の表情も緩む。

「ったく、大げさなんだから。そんな程度のことで恩を着せるつもりはないよ」

 そういって振り返ると、軽やかな足取りで階段の奥へと消えて言った。


 その後姿を見送りながら、真央はポケットの中で拳を握りしめる。

 そしてその硬く握りしめられた拳の中に、ふわふわと柔らかな、桃が真央のベッドの中に落として言ったシュシュが握りしめられていた。

 



 ドンドンドン


「あんだ?」

 わずかに体を震わせる寒気に、インスタントコーヒーをすする真央。

 その耳に、一切の遠慮を感じることのできない、ぶしつけな足音が鳴り響く。


 すると勢いよくリビングのドアが開け放たれ


「マー坊君、大丈夫!?」


「うぉうっ!?」

 その大きな声、爆発する感情が、発熱後のざらつくような真央の体に痛々しく響く。


 バッグを抱え、制服のブレザーに身を包んだ奈緒がリビングに飛び込んできたのは、誰あろう菜緒だった。

 その黒目がちな大きな瞳はいっそうまんまるに見開かれ、そして全身を大きくばたつかせながら、まるで火事場の見物人のような趣を醸し出す。

「……はあっ、はあっ、はあっ……あのねあのねあのねあのね! 昨日宿題終わらせて、それで寝ちゃったんだけど寝ちゃったもんだから桃ちゃんのメールとかにね! それでね! 気付く余裕!? ていうかそう言うあのね!」

 髪の毛を振り乱しながら、その愛くるしい顔をこわばらせて真央の肩を力いっぱい掴んだ。

 そして熱などほとんど下がりきった真央の顔に、ごつん、思いっきり自分自身の額をぶつける。

 自分自身の額で真央の熱を測ろうとしたのだろうが


「あがっ!?」


 その勢い余った頭部はストレートに真央の鼻の付け根を強打した。


「ね、熱はないみたいだね――って、あーっ!」

 奈緒が至近距離に位置する真央の顔を覗き込むと


 つううう――


 目から火花を散らせている真央の鼻から、一筋の鼻血が流れ出す。


「いやー! マー坊くーん! 鼻血出てるじゃない!」

 すると奈緒はその近くにあったティッシュをまくるとそれをくるくると一つにまとめ、勢いよく真央の右の鼻に突っ込んだ。



「おごがわっ!?」


「ああ、マー坊君、本当につらかったんだねー。今日は、私がしっかり看病してあげるからねー」

 今にも泣き出しそうな顔でそう叫んだかと思うと


「――ぅもふわっ!?」

 

「大丈夫だからねー! ゼッタイに私がなおしてあげるからー!」

 奈緒は、その慈悲と愛情とに張り裂けんばかりのボリュームにあふれる、世界中の男達が愛してやまないその偉大なる胸元に真央の顔を抱き寄せる。


「……」

 一瞬の抵抗の後に、真央の体から一切の力が奪われていく。

 制服のブラウス越しに感じる、柔らかくも張りのある、最上級の谷間に顔をうずめた真央の頭に、体中の地が集まっていく。

 すると


「あーっ! マー坊君、また鼻血出てきてるよー!?」

 気がつけば、真央の鼻からは更なる鼻血が流れ落ちていた。

「マー坊君!? ……わあー! 意識がないよー!? 気を確かに持って! そっちにいっちゃだめー!」

 奈緒はぶんぶんと真央の肩を揺さぶると

「えいっ!」

 再びティッシュを丸め、強引に真央のもう片方の鼻の穴に突っ込んだ。

 そうして、また力いっぱいその真央の頭部を、胸元のヒマラヤ山脈の谷間へと沈める。

「だめだよマー坊君! しっかりと深呼吸して!? リングの上みたいにー!」

 量の鼻にがっしりと詰め込まれたティッシュ、そして顔面に吸い付くような柔らかな脂肪の壁が真央のその呼吸の機会を奪い去っているであろう事に、奈緒は一切の考慮が及んではいなかった。

「待っててね? いま栄養のあるもの作ってあげるからね?」

 そう言うと真央をソファーの上に横たわらせ、自身のブレザーを丁寧にかけると、弾丸のようにリビングを飛び出す。


 しかし、もはや完全に気を失っていた真央はその様子を白目をむいて見送るしかなかった。




「……う……ん……」

 ようやく自分自身の呼吸が確保されたことに気付いた真央。

 酸欠状態から介抱された真央の両頬は、天国を思わせるような心地の良い、ふわふわとした何かを感じ取る。

「……うーん……」

 夢と現をさまよいながらも、その肌触りの心地よさに真央の頬は思わず緩み、寝返りとともにそれを最大限に味わい取ろうと体をよじる。


「まあ」


 軽やかで清楚な、しかし恥じらいと喜びに満ちた声が真央の頭上から響く。


 その声の主は、優しく真央の髪の毛を、まるで子犬をあやすかのように柔らかに撫で付ける。

「ふふっ、そういえば私、真央君の寝顔を見るのは二回目になるのですね。改めて見ますと……格好いいだけではなくて、かわいらしいお顔でもあるのですね」


 その聞き覚えのある声、真央の精神は少しずつ現実に引き戻される。

 ぼんやりと目を開けていくと、その視線の先に見えたものは、薄手のカーテンのような、白い布に包まれた何かだった。

 思わず真央は、それに手を伸ばし、さするような仕草を取る。


「……きゃっ……」

 その声の主は小さな悲鳴を上げると、真央の手の上にその手を重ねる。

「……いたずらはやめてください。でも……真央君がそうなさりたいのでしたら、お好きになさって結構ですよ……」


 頭上より吹き降ろす熱っぽい吐息に

「うおっ!?」


「!? ど、どういたしました!?」


 飛び起き、ソファーの背もたれに飛びのいた真央の目の前に

「え……あ……あ、葵?」


「寝ていなくてはだめです!」

 葵は無理やり真央農で、そして頭部を掴み


「ちょ、お、ま、待っ!」


 抵抗する真央を無理やり自分の膝枕に押し倒した。

「川西くんからのメールで事情は察しました。お見舞いに、と思って釘宮さんのお宅へ足を運んだのですが、ドアが開けっ放しだったもので、ぶしつけとは思いましたが上がらせていただきました。そうしたら――」

 やさしく真央の髪の毛、そして顔を撫でる。

「――顔を真っ赤にして、鼻血を流している真央君の姿があったではありませんか。ああ、かわいそう、真央君。今日はこの私が、しっかりと看病して差し上げますからね」

 そう言うと葵は、その黒水晶のような瞳を潤ませながら真央の頬に自分自身の頬をつけた。


「わーった! わーったからおちつけって!」

 対抗を試みるも、信じられないほどの力で頭の上をさえつけられた真央になすすべは存在しなかった。


 すると


 ドンドンドン


「……やべえな、これ……」


 再び廊下から鳴り響く、真央の人生を危機に落としいれかねない足音。


 ガンッ!


 勢いよく、まるで蹴り飛ばしたかのように開け放たれるリビングのドア。


「どうしたの!? マー坊君!」

 エプロンを片手に、息せき切って飛び込んできたのは、ミニスカートにピンウのタンクトップを見にまとった一人のグラマーな少女。

 もはや言うまでもないであろう、奈緒だった。


 葵の心地よい膝に体をゆだねる格好になっていた真央、その頭によぎるのは、もはや悪い予感を除いてほかには存在しなかった。

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