5.11 (土) 22:00
「ふぇーっくしょい!」
心地よく弾む大きなベッドに横たわる真央は、部屋中に響き渡るような大きなくしゃみを一つ。
勢いよく反り返った上体は、ぼすん、羽毛のたっぷり詰まった枕が過不足なくその衝撃を受け止める。
そして枕もとのティッシュペーパーで鼻をかむと、ややかすれたような声で呟いた。
「あー……なんかすげーだりィ……」
「……しょうがないよ。よく考えれば、君だって素っ裸でシャワーも冷水を目いっぱい浴びて、その後も上半身裸で脱衣所のドアをこじ開けたんだからな」
真央の横たわるベッドの傍らに腰掛け、腕を組む桃。
その体は、真央からかけられたフード付きのスウェットを相変わらず羽織り続ける。
ピピピピピ・ピピピピ――
真央のわきの下から、雀のさえずるような機械音が。
「……おぅ、なんかなったっぽいぜ……」
「ん。それどれ……」
真央の言葉に従い、その布団を一部剥ぎ取り、そしてやや汗ばんだ真央のTシャツから体温計を取り出す。
「……38度5分か……急激に体温が上がってきたな……」
「さ、さんじゅうはちどごぶぅ!?」
上半身を起こす気力もない真央だったが、初めて耳にしたその数値に驚く。
その浅黒い顔を真っ青にして、恐怖と驚愕の入り混じった声をはりあげた。
「お、俺今まで生きてきて、そんな高熱一度も出したことなぁぞ!? なんじゃ? 一体俺に何が起きたんじゃ? 俺ぁ死ぬるんか?」
「……大げさだな君は……」
あきれたようにため息を一つつくと、桃はなだめるようにやさしくその上体を寝かしつけると、丁寧に布団を真央の上にかけた。
「……確かに熱は高いけど、そこまで高いわけじゃないじゃないか。一日ゆっくりしていれば治る範疇だと思うけど」
「……ううー……」
真央は赤ん坊のような、子犬のような弱気な唸り声を上げる。
「……だけどよぅ、俺今まで生きてきた中で、こんなに高い熱出たことなかったんだぜ? 出たところで精々37度ちょいちょい位なモンだったからよ。もし、なんかすげー重い病気だったりしたらよ……」
「はいはい。わかったわかった」
その真央をなお励ますかのように、というよりもまるで赤ん坊を寝かしつけるかのように、ポンポンと布団に包まる真央の体をさすった。
「……ああくそ、頭いてえ。いままで“馬鹿はナントカ”で乗り切ってきたはずなのによ……」
「それって“馬鹿は風引かない”って事じゃないのか?」
またもやあきれたように言葉を返す桃。
「あのさ、ふつう隠すところはそこじゃないだろ? “ナントカは風引かない”ってぼやかすべきだと思うけど」
「……」
“誰が馬鹿だ!”と怒鳴り返したいところだったが、まさしくその通りなので何一つ反論ができない。
何よりも、今まで経験したことのない悪寒と頭痛、喉の痛みに辟易とした気分だった。
「たぶん疲れがたまっていたんだと思うよ。考えてみれば、あっという間の三ヶ月、君の生活は180度変わっちゃったし、環境の変化に体がついていかなかったんだろ。それに、君いつも尋常じゃなく体追い込んでいるから、免疫も相当下がっちゃってたんだ」
そういって、真央の額に優しく手を当てる。
「ん、これくらいなら、そんなに心配する必要はないから。まあ、普段ほとんど休養する火間もないんだから、体が上げた悲鳴に素直に耳を傾けて、ゆっくり休むんだな」
「……うーうう……」
朦朧とする意識の中で、いつか感じた桃の手のひらの柔らかさに、真央はじんわりとした暖かさ、心地よさを感じていた。
「……そんなもんかねぇ……」
「そんなもんだよ。どんな強い人間にだって、休息の時間は必要なんだ」
そう言うと、桃は小さく微笑んだ。
「君がどんなに強い肉体、精神を持っていたって、体の悲鳴に耳を貸さずに酷使しちゃえば、いつかは許容量を超えちゃうんだ」
優しい言葉とともに、布団越しに何度も桃は真央の体をさすった。
まさしく、子どもをあやす母親のように。
「……そうだな……」
その言葉に、真央はやや寂しそうな目で呟いた。
「……体の……ダメージの許容量か……」
「……そうだな……」
一方の桃は、その微笑をどこか寂しげな、悲しげな影を感じさせる微笑を浮かべる。
「……意地とか……プライドとか……そういうのが何よりも大事だ、その気持ちは理解できるよ。だけど……やっぱり……やっぱり体とか、命とか、そういうものの方が何よりも大切なんだ……」
「……桃ちゃん……」
おぼろげな意識の中で、その複雑な表情に真央は気がついた。
その表情の理由、真央は疑問に思ったが、しかし意識の混濁がその追求を許さなかった。
今その瞬間、ただただ桃の柔らかい手のひらと心地よい重さのみが真央のこころを捕らえていた。
真央は子どものように、額をこすりつけるように揺らし桃の手のひらの温かさ無邪気に味わった。
「……ううううー……」
「もう。さすがに、今日ばっかりは君も人の子だな」
桃はその真央の甘えた様子に逆らうこともなく、苦笑しながらもそのなすがままに任せていた。
「ところで、症状はどんな感じなんだ?」
「……症状……」
ごろり、体を横に向け、真央は自分自身の状態を述べる。
「……なんか……こう……ぞくぞくして、背中がひりひりして……そんで頭がガンガンして……顔だけやたら熱っつい……」
「まあ、典型的な風邪の表情だよ」
そう言うと桃は、ベッドから起き上がってドアノブに手をかけ言った。
「いま、薬と水持ってきてあげるから。それで日曜日もしっかり休んだ方がいいよ。部活休むこと、なおにメールしとくからさ」
「……やっぱ、部活やすまなきゃダメか……」
はあ、弱弱しくも物悲しいため息を真央はつく。
そして、桃に向かって言った。
「……ごめんな……もともとは俺のせいでこんなことになっちまったのに……風邪なんか引いちまって……そんで、また面倒見までさせちまった……」
「君らしくないな」
背中越しに言うと、優しい微笑をたたえ振り返った。
「確かにそうかもしれないけど、君が羽織っていたこれ――」
そう言うと、桃はスウェットをぬぎ、ベッドに戻ると真央の布団の上から更にそれをかぶせた。
「――これをあたしに貸してくれたことが一番の原因だからさ。だから……うん、世話くらいはするさ」
そしてぷいと振り向き、足早にリビングへと続く廊下へと出て行った。
真央はその後姿を見送ると、パタパタと響くスリッパの音にぼんやりと耳を傾けた。
「ほら、あーん、しな」
上体を起こした真央の首を仰向けにさせ、そしてその口に風邪薬をさらさらと振る。
そして指先で袋をピンと叩くと、真央にミズノは言ったコップを手渡した。
「ほら、これ飲んであったかくして寝るんだな」
ハリセンボンのように口を膨らませた真央はコップを受け取ると、意を決したようにゴクリとそれを飲み干す。
「……にがぃ……」
「はいはい、そうだね。苦いけどすぐに楽になるはずだから」
大きな子どもをあやすかのように、桃は優しく真央の上体を倒して再び肩口まで布団をかけた。
「君は普段薬なんて飲まないんだろうから。すぐに聞いてゆっくり寝られるよ」
そして、ぎゅっ、テーブルの上におかれた沿面気にタオルを固く絞り、真央の額に乗せる。
「今日のところは何も考えなくていいから。体の悲鳴に、しっかりと耳を傾けるんだ」
すると
すう、すう、すう、すう
「って、もう寝てるし!」
あまりの薬の効きの速さに、桃は驚愕した。
そして、ふっ、慈愛に満ちた表情を浮かべぬれたタオルの上に自分自身の手をおいた。
「……こうして寝ていると、本当に子どもみたいだな」
しばらくした後、熱を吸いとったタオルをその額から取り去ると、再び蒸らして固く絞り、そして真央の額に置いた。
真央の傍らに腰を据えた桃は、何度もそれを繰り返した。
「……ん……ん……」
固まった体の痛みに、うっすらと意識を取り戻す桃。
気がつくと桃は、自分自身が真央の体に多い数去るようにして居眠りをしていたことに気がついた。
ふと時計に目をやれば、すでに夜中の一時を回っていた。
「……そっか、あたし……」
ベッドに横たわる真央の姿にすべてを思い出し
「……んーん、んっ……」
大きく背筋を伸ばした。
そして、真央の額からタオルをとろうとしたとき、薬が効いたのであろう、真央の体中が汗まみれであることに気がついた。
桃はそのタオルで額を拭いたが、とてもそれでは追いつかない。
「……マー坊、マー坊ったら……ねえ、起きて……」
そういって真央の体を揺さぶった。
「……んーん……うん……」
完全な寝ぼけ眼で、真央は意識を取り戻し、上体を起こしてベッドに腰掛けた。
「君、すごい汗かいてるから。新しい布団と持ってくるから、今のうちに着替えておいて」
そういって真央の首にバスタオルをかけ、別途の脇に乱雑に転がっていた洗濯物から下着類とハーフパンツを手渡した。
すると
「ちょ! ば、ばか!」
おもむろに、真央は無言で服を脱ぎ始め、そしていしきを朦朧とさせたまま体を拭き始めた。
「も、もう! いくら寝ぼけてても、音のの子の前だってこと忘れるなんて、デリカシーなさ過ぎるじゃないか!」
恥ずかしそうに頬を染め、桃は再び足早に二階へと登って言った。
「さ、これでいいよ」
そう言うと桃は股らしい着替えに身を包んだ真央をベッドに腰掛けさせ、そして寝るように促す。
「まだ少し熱あるみたいだけど、明日休みだからゆっくりしてていいからな」
こくり、薬が効きすぎているのだろう、もはや催眠状態にあるかのように真央派首を縦にした。
「じゃ、あたしも寝るから、何かいるものがあったらいつでも言いに来ていいからな」
横たわる真央に声をかけ、そしてその体に布団をかけようとする。
その言葉に、またも真央派催眠状態でこくんとうなずく。
その瞬間
「きゃっ!」
桃の右腕は激しく引っ張られ、そしてベッドへと引きずり込まれた。
そして
「……うーん……」
「ちょ! ちょっと君! マー坊!」
その抵抗もむなしく、桃はベッドの中で真央のがっしりとした太い腕に抱きすくめられてしまった。




