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    5.11 (土) 19:50

「おーい桃ちゃーん! ちっと来てくれー! なんかやばいんだけどよー!」

 浴室の壁、そして長い廊下をものともせず、馬鹿みたいに能天気な真央の声が家中にこだまする。


 この無駄に広い家で、これだけ大きな声をこだまさせるあの男の肺活量に、驚くと同時に辟易としながらも、桃は洗い物の手を止めてキッチンを出る。

 そしてパタパタとスリッパを鳴らしながら、ボウリング場でも開けそうな広々とした廊下を渡る。


「何ー!? 一体何が会ったていうのー!?」

 一階の浴室の出入り口の前に桃は注意深く立ち、そして同じく声を張りあげて、おそらくはまた上半身裸のままであろう真央に対し声をかけた。


「お! おおおお! 桃ちゃん! 助けてくれよ!」

 慌てふためくその真央の言葉の背後に、先を圧迫した水道ホースが水をぶちまけるような音が響く。

「なんかよー! シャワー出したら根っこの部分のねじが緩んでたみたいでよー! すげー勢いで水が飛び出して止まらなくなっちまってよー! ほいで、はあ、とにかくわやじゃ!」


 はあ、またか、しかしトラブルを呼び込むのはこの男の常、と諦め、再び声をはりあげた。

「ちょっと落ち着きなってー! 君は今何してるのー!」


「お、おお!? 今のぉ! 両手で水を押さえつけとるとこじゃ! どうしたらいいんかのぉ!?」

 もはや自分が何をしているのか、何をすべきかも分かっていないのだろう、とにかく混乱しているということのみを伝えようとしているようにも見えた。


 爪を噛み、一瞬の逡巡を見せながらも

「分かったから! 今そっち行くから、とにかく何でもいいから服を着て!」


「け、けどの! 今浴室の扉開けたら、更衣室も水浸しになりよるど!?」

 子どものようにうろたえた声を上げる真央。


「しょうがないだろ! あたしはいったんモップとか取りに行くから、それまでに着替えとくんだぞ! いいな?」




 ガチャリ、頃合を見計らい桃は身長に更衣室へといたるドアを開ける。

 そこに真央の姿はなかったが、案の定更衣室は水浸しになり、真央のブレザーのスラックスが見るも無残な姿で散乱していた。

 そして部屋中に響く、擦りガラス調のアクリルパネルを叩きつける水流の破裂音。

 桃は腹の底から声をはりあげる。

「ちゃんと服は来たかー!? ドア開けるよー!?」


「お!? おおおお! 桃ちゃん!」

 もはや哀れみさえ感じる真央の声。

「だ、だだだ、大丈夫だから! 全部着込んでるよ!」


「じゃあ入るよー!」

 ガラリ、ドアを引く桃。


 と同時に

「おー! 助かったぜ、桃――」




 プシャ――――――――――――――――――――――――――




「……あ……」

 押さえるその手を緩めた真央のその指の隙間を、すさまじい勢いの水流が飛び出す。

 

 そして、その水流は、一直線に桃の全身に浴びせかかった。

 フルフルと怒りに体を震わせる桃。

 そして、ガシャンと扉を閉め

「一体何をやっているんだ君わぁああああああああああああ!」


「うわぁあああああ! すまねー! 桃ちゃーん!!」

 混乱した真央は、とにかくこの現状を何とかしようとあがき、その体で水流を受け止めようと桃との間に割り込んだ。


 その必死の形相で距離をつめてくる真央に、桃は仰天する。

「ちょ! ちょっと! 君は一体何を――」


「何をって――うぉ!?」


「ちょ! 危ないって――」


 大きな重りを落としたような鈍重な音がバスルームに響いた。




「……ててててて……」

 頭、そして腰に軽い痛みを覚える桃。

 そして体の前方部に、厚みのある厚い塊のような何かがのしかかっていることに気付く。

 恐る恐る目を開ける桃の目の前には――


「……あいたたた……」


 ――自分の胸元に顔をうずめ、混乱の淵であがきうごめく真央の顔。


「……い……」


「……ってぇ……おお、桃ちゃん、怪我は……」


「いやああああああああああ!」


 その桃の叫び声に、真央もようやく自分のおかれた状況に、自分の命が不全のともし火のような状況にある事に気付く。

「ちょ! ちげえんだって! 俺は! 桃ちゃんがあぶねーと思って! そんで!」


「いいからはなれろぉお!」


「おぐぅわがっ!?」

 桃の膝が真央のみぞおちに食い込む。


 その瞬間 


 ガタン


「「……え?……」」


 擦りガラス調のアクリルパネルを通して二人が見たものは




 立てかけていたモップが、二人の乱闘により傾き、ドアの取っ手の間に差し込まれ、外部から浴室をロックしてしまう瞬間だった。


「ちょ! ちょっと! どうするんだよこれ!」

 ガタガタガタ、桃は力ずくでドアを横に引くが、引けば引くほどモップの柄が深く挟み込まれ、いっそう硬くドアをロックする。


「そ、そ、それより桃ちゃん!」

 真央派再びシャワー口へ駆け寄り

「こ、これどうしたらいいんだ? 水が全然とまんねーんだよ!」

 そして両手で水流を押し戻そうと格闘する。


「ああもう! 今それどころじゃないでしょ――って、ふわっ?」

 再びシャワーからの水流が桃を襲う。


「あああー! わ、わりぃ! 桃ちゃん大じょあがっ!?」


「だ、だからこっちに来るなって言っているでしょーが!」

 桃は無我夢中で胸元を押さえ、そして振るう右拳は真央の左頬に食い込んだ。




 キュ、キュッ――


「「ふうっ」」


 シャワーの元栓を締めるという至極簡単な作業をおこなったその数秒後、二人は胸をなでおろした。


 ピチョン――ピチョン――


 ふうっ、桃は硬くロックされた出入り口のドアにもたれかかりため息をこぼす。

 体中がシャワーの水でびしょぬれになり、首筋にまとわりつく髪の毛を鬱陶しげに掻き退ける。

「……ったく、水が止まらなくなったっていったから、どんだけ面倒くさいことが起こったかと思いきや……」

 そして、鋭い視線で真央をきっ、と睨みつける。

「……ただホースの接続口が緩んでいただけじゃないか。どうして君は水を止めるという至極簡単な発想を持つことができなかったのかな?」


 責めなじるような桃の言葉にも、もはや何一つ反論する言葉を真央は口にすることができない。

「……おっしゃる通りです……」

 バスタブの淵に座り込み、頭を抱えて呟いた。


 これ以上なにをいってみても無駄だと感じた桃は

「もういいから。とにかくここから出る算段をつけなきゃな」

 自分がもたれかかる土何がっしりと噛み付いたモップのロックをどのようにしてはずすべきか頭をめぐらせた。


「……そ、そうだな――ふぁっ?」

 奇妙な叫び声をあげた真央は、顔を真っ赤にしてすぐさま顔を背けた。


 桃は無言のまま、右腕で胸元を隠すような仕草をとり、同じく顔を真っ赤にしてうつむく。

 先ほどまで情け容赦なく浴びせられた水流は桃の着ていた薄手のTシャツを濡らし、それはぴたりと胸元に張り付き、その下の下着の白さと控えめな谷間を浮き立たせていた。

 張り付いたシャツの上からとはいえ、て下着を異性に見られてしまうという初めての経験に、桃の晋像は経験したことがないほどに高鳴っていた。

 きゅっ、無意識のうちに腕に力がかかり、右の上から左腕を交錯させる。 

 しかし、両腕ごときで隠そうとしても隠し切れるものではない。

 桃は交差した足を更にきつくぴったりと閉じ、やはり無言のままうつむいた。


「……あ、あのさ、桃ちゃん……」

 何事かを口走ろうとした真央も、破裂しそうなほどに高鳴る心臓の音に二の句を告げることができない。

 雑念を払おうとすればするほどに、自分の左にあけすけな姿を展開する美しき少女に全身系が集中してしまう。

 すると

「……ちょ、や…べ…」

 小さな呟きを残し、真央は体を縮込ませる。


 ぴくん、その真央の小さな変化の理由を、桃は敏感に察知した。

 ぼんっ、という破裂音がしそうなほどに顔を赤らめ、殻に閉じこもるようにしてその場にしゃがみこむ。

 大きく深呼吸をし、その事実を頭から振り払おうと試み、その事実に全く気付いていない、という暗示を自分自身にかける。

 しかし、それは無駄な努力だった。


 数秒か、はたまた数時間か、二人はお互いに痛いほどに意識を集中したまま、無言で小さくうずくまっていた。




「うがあああああああ!」

 何かに取り付かれたように真央が叫び、立ち上がる。


 ビクッ、そのあまりの巨大な咆哮に桃は体を激しく反応させる。


 一言も口を聞くことができない。


 体を動かすことができない。


 何かを拒絶しなければ、しかし、どこかでそれを待ち望んでいるかのような、言い知れない、経験したことのない感覚が全身を捕らえる。


 すると立ち上がった真央は、上に羽織っていたフードつきのスウェットのファスナーを下げ、その下に隠された鍛え上げられた裸体を晒す。


 桃は、心音がコンサートホールのオーケストラのようにバスルームにこだまするような錯覚にとらわれる。


 真央は上半身裸のまま、桃の方を振り向く。


 もはや桃は目を開けることも叶わない。

 

 全身を硬直させたままそのまま、桃は静かに目を閉じ――


 ファサッ


「え?」

 桃の体に、柔らかく暖かな何かが舞い降りた。


「寒みーだろ、悪かったな。これ着といてくれよ」

 真央はその手に抱えていたスウェットで、やさしく桃の体を覆った。

 そしてそのまま立ち上がり、腰に手をやる。

「とりあえず、何とかしてこのドアこじあけねーとっ、なっ! ん! んんんんっ!

 ガタガタガタ、力いっぱいその扉を開け始めた。


「……マー坊……」

 体に打ちかえられたスウェットのぬくもりを寛二ながら、呆然としてその様子を見守る桃。

 そして、ふと我に帰り

「いやいやいや! いいよ! 君だって寒いじゃないか! あたし別に――」


 しかし、真央は一心不乱に扉を開け続けた。


 その様子を見て、桃は素直に真央のスウェットに袖を通した。

「……マー坊……」

 そしてフードをかぶり、自分自身の体をきゅ、と抱きしめる。

「……うん……すごく……あったかいよ……」

 真央の熱いからだのぬくもり、それを桃はスウェットを通して体の芯から感じ取った。

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