5.11 (土) 17:45
――カチ、カチ、カチ――
壁にかけられたアンティーク調の時計が、やけにくっきりと時を刻む。
重苦しいような、それでいて全身をそわそわとさせるようないたたまれない空気が二人の間に流れる。
ようやく口を開いたのは、桃だった。
「……とりあえず……いつも通りご飯の支度しようか」
そういって、ぷいと足早にキッチンへと姿を消す。
「すぐに支度するから、マー坊はその辺でくつろいでなよ」
「お、おお。すまねーな」
そう言うと真央は、わざとらしくもぎこちなくソファーに寝そべった。
「あ、あのさ、なんか手伝えることあったら、何でも言ってくれよな……」
「……別に、君に手伝ってもらうようなことは、特にないと思うから」
さらさらと流れる水流音の中に混じる、まな板を叩く軽妙な包丁の音。
桃はあくまでも、何事もないかのように冷静に真央に言葉を返した。
――ヴヴヴヴ、ヴヴヴヴ――
「ん?」
テーブルの上で鳴り響く、振動音に真央派思わず上体を起こす。
そしてテーブルの元へと足を運び、携帯電話をつまみ上げる。
「……おーい桃ちゃん、なんか携帯なってたぞー」
ドタドタドタドタ
「うぉっ!?」
真央は、勢いよくキッチンから駆け込んできた桃に突き飛ばされるようにしてその手から携帯電話を取り上げられた。
「勝手に人の携帯に触るんじゃない!」
桃は顔を真っ赤にして、胸元に携帯電話を抱きかかえるようにして真央をきっ、と睨みつける。
「携帯電話って言うのは、その人のプライバシーの塊なんだからな! そういうのがデリカシーない、っていっているんだよ!」
「人聞きのわりーこというんじゃねーよ!」
“でりかしーのもんだい”という言葉に、売り言葉に買い言葉で真央も突っかかる。
「ケータイ鳴ってんぞっつって知らせただけじゃねーか! 俺がいつそんなもんの中味見たっつーんだよ! そんなもん一ミリも興味なんかねーよ!」
「どうだか!」
同じく負けず嫌いで気の強い桃は、真央に対して詰め寄り叫ぶ。
「葵の水着姿見て鼻の下伸ばしたり奈緒のスカートの中味見て鼻血だすような男の言うことなんか、誰が信用できるって言うんだ!」
「んだあ!? ああ!? っと……」
実際にそうであるから言い返すことができない。
また、もともと頭の回転の速い男でもないので、反論する言葉も浮かんでこない。
何とか反論を試みる真央が、何とかその頭の中からひねり出した言葉は
「……ば、ばーかばーか! ちげーよ、ばーか!」
「子どもかあんたは!」
桃は顔をしかめて突っ込みを返すほかなかった。
「……くっ……」
口げんかではどう転んでも桃に勝ち目がない。
もともとの頭の作りからして違うのだ。
しかしこのもどかしさを何とかして解消してやりたい、そう考えた真央は
「……だ、だいたいな! なんでケータイと葵と奈緒ちゃんのことが関係あんだよ! それともあれか!? あれだろ!? 自分の胸がぺったんこだから胸のでけー、葵と奈緒ちゃんのことねたんでっからそう言う発想にごべあっ!?」
その瞬間、みぞおちにめり込んだ右拳から全身に伝わる痛みが、真央の口を強制的にシャットダウンした。
「……おふぉっ……ふっ……やべっ……腹筋締めるの遅れた……」
「ったく! あんたの頭かち割って、中身この目で直に確認してやりたいよ!」
ふう、ふう、鼻息も荒く桃は携帯をとり、そしてその内容を確認する。
「……はあもう、一体誰から……」
ため息をつきながら見れば、着信ではなくメール受信の知らせだった。
画面をフリックし、文面を確認すると
『急な話でごめんねー。マー坊君と二人っきりになるけど、ぜったいへんなことしちゃダメだからね! 抜け駆けはゼッタイに――』
「ふざけんなああああああ!」
文面を最後まで確認することなく、桃は直球で携帯をソファーに投げつけた。
体の中心をむしりとられるような痛みにみぞおちを押さえながら顔を上げる真央。
「? メールか? 奈緒ちゃんか? 一体どん……ふごっ!?」
バキイッ!
「あんたには関係ない!」
桃はその長く美しい足を瞬時には値上げ、その足裏とかかとが真央の顔面にめり込ませた。
「……い、一体俺が何したっつーんだよ……」
朦朧とする意識の中、真央が耳にした言葉は
「うっさい! さっさとご飯のしたくしてやるから、おとなしく気絶してろ!」
男らしくもすがすがしく、それでいて冷酷な桃の言葉だった。
薄れ行く意識の中、真央は思った。
ああ奈緒ちゃん、早く帰ってきてくれ、俺の五体が満足な内に――
「――ほらおきなよ」
暗闇の奥から響く言葉、そしてゆさゆさと揺さぶられる体。
途切れていた意識が徐々に戻り、そしてみぞおち、顔面に少しずつ痛みが蘇る。
「はっ!?」
がばっ、勢いよく応対を起こし、そしてきょろきょろと周囲を確認する。
「ようやく目が覚めたのか。大げさな奴だな」
あきれたような表情で、真央の前に膝を突く桃。
「さ、晩御飯できたからさ、さっさと食べちゃいなよ」
表情一つ変えずにそういい残すと、先ほどとは打って変わったクールな仕草でダイニングへと足を運んだ。
みぞおちに響く鈍痛に、少々の食欲不振を感じながらも
「……あ、ああ。サンキュな」
そういってその後につきダイニングへと足を運んだ。
「コーヒー入ったよ」
キッチンから、穏やかな桃の声が伝わる。
「君も飲むか?」
「ん? あ、ああ。よろしく」
食事を終え、洗物をキッチンに運んだ真央は、リビングのソファーでくつろぎながら言葉を返した。
カチャリ、きちんとソーサーとティースプーンを沿え、丁寧に桃はリビングのテーブルにコーヒーを置いた。
「ほら、君はブラックでよかったんだよな?」
その口元にわずかは微笑をたたえる桃。
「ん? あ、ああ」
その微笑に戸惑いながらも、真央は応えた。
「ブラックでいい。桃ちゃんと同じだ」
「そうだね、あたしとおんなじだね」
そう言うと桃は真央と向かい合うように、リビングのソファーに腰掛けた。
真央は、そして桃は再び無言でコーヒーをすする。
真央のこころの中は混乱していた。
二人きりの空間に緊張していたかと思えば、携帯電話に触れたというだけで猛り、しかしキッチンやダイニングでは柔らかく温かな言葉や仕草を見せる。
真央自身、自分が女性に対しての理解に乏しいということは重々承知している。
しかし、女性というものがこれ程までにころころと表情。そして表情が移ろいゆくものだとは想像もしていなかった。
もしゃもしゃと頭をかくと、改めてまじまじと目の前にいる少女の姿に目を移す。
春の日差しの待ち遠しい三月のあの夜、真央は会場にいる桃の姿を階下から見上げた。
奈緒のもつ可愛らしさでもない、そして葵の持つ清楚さでもない、気高くも凛々しい、自立した個人のもつ美しさ。
美しい、といういかにも陳腐な言葉が、真央のこころの中に浮かんだ瞬間だった。
なぜだろう、真央は考えた。
その美の性質の違いもあるのだろうが、なぜか桃の姿を見ると、異様のない胸騒ぎを覚える。
それは一体――
「で、どうなんだ?」
「ぶふっ!?」
沈黙を破る桃の端的な言葉に、真央は思わず口中のコーヒーを噴出しそうになった。
「……な、なんだよ一体。汚いなあ……」
桃はそのしぶきを大げさに避けるような仕草で、顔をしかめて言った。
「ただ、あたしは、関東大会への準備はしっかりできているかって聞いただけだろ。そんな驚く必要もないじゃないか」
「ぎゃははは、わりーわりー」
照れ隠しの、やや大げさな笑顔を浮かべる真央。
「葵から聞いたよ。なんか、全国でも有名な、天才ボクサーと戦うことになるそうじゃないか」
すぅ、桃はソーサーから丁寧にコーヒーカップを口元へと運んだ。
「DVD見たんだろ? 強いのか?」
「ああ。間違いなく、俺が今まで戦ってきたボクサーんなかでは、ダントツだろうな」
真央は一転真剣な表情で、そして冷静に口を開く。
「俺と違って、きっちりパーリングをつかって、すげー卒のないボクシングをしやがる。それでいて、上下の打ち分けのコンビネーションと、ここぞと言う時のたたみかけの切り替えも速ええ。ただな――」
ハンドルに指をかけることもなく、右手で摘み上げるようにしてコーヒーカップを口元に運び、一口含むと断言した。
「この世界一の大天才が、天才ごときに足踏みなんかしてらんねーんだよ」
「相変わらずだな、君は」
桃はそういって、再び柔らかな笑顔を浮かべた。
「けどまあ、君らしいといえば君らしいし、ボクシングにおいては君は絶対に嘘をつかない男だって、信じているから。インターハイ出場、あたしも応援するよ」
「あ、ああ」
真央はくしゃくしゃと頭をかく。
なぜか、その頬が熱く紅潮していることに気がつき、顔を抑えるような仕草を見せた。
「そういや、陸上部も来週東京都予選じゃねーか。桃ちゃんも関東大会出場目指して頑張ってくれよな。俺らボクシング同好会も、応援してっからよ」
「ああ。そのつもりだ」
そういって桃は、今度はそれと分かる大きな笑顔を浮かべた。
「そしたら、もしかしたらみんな一緒にインターハイに出場できるかもな。まぁ、君は女子生徒たちにちやほやされる要因が増えるから、嬉しいかもしれないがな」
その笑顔は、今度はいたずらっぽいものに変わっていた。
「……べ、別にそういうのは興味ねーよ……」
真央は照れたように、コーヒーカップに顔をうずめるようにしてコーヒーをすすった。
「……桃ちゃんだってよ、聞いたぜ? うちの女子生徒の中で、桃ちゃんのファンクラブがあるっていう噂をよ」
「らしいね」
すると今度は、その笑顔はいささか困惑したようなものへと変化した。
「けど、本当にいい女ってものは、同じ女を惚れさせるくらいいい女っていうじゃない? だからあたしは、そういうの気にしてないから」
その堂々とした様子に、なぜか真央はコーヒーカップにうずめた顔を上げることができなくなった。




