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    5.11 (土) 17:30

「ただいまー、っと」

 ごそごそと放り出すように、無造作に靴を脱ぎ捨てると、真央はどたどたと騒がしくリビングまでの廊下を歩いた。

 まだまだ着付けぬ、というよりも一生なじみようのない聖エウセビオ学園のブレザーとスラックスに身を包んだ、しかし胸元のネクタイがだらしなくぶら下がったまま。

 いつまでたっても、良男良女を育成する聖エウセビオ学園の校風の枠からはみ出したままだ。

「……あー、ったく、今日も勉強面倒くさかったな、っと――」

 勝手知ったる他人の家は、もはや完全に生まれ育ったマイホームに変わりつつある。

 ガチャリ、真央は体にわずかに残るトレーニングの疲労感を心地よく寛二ながらリヴィングのドアノブを回した。

「……ただいまかえりましたぁーん、っと」


「ああ、お帰りマー坊」

 そこには、もうすっかり真央の存在を当たり前のものとして受け入れた桃の姿。

 カラン、左肘をつき、氷の入ったグラスを右手で摘み上げ、リラックスした様子で返事を返した。

「珍しいじゃないか。いつも奈緒と二人で帰ってきているのに」

 くっ、グラスに入った液体、アイスコーヒーか何かだろう、それを一口含む。

「ふう」

 小さくため息をこぼすと、コトリ、グラスををテーブルに置いた。


「おお、なんかな、帰り道で二人で歩いてたらよ、なんかケータイなってたぜ」

 んしょ、という言葉をこぼすと、どんと重々しいエナメルバッグをフロアに置き、こちらもリラックスした様子でソファーに腰をおろした。

「そんで“ごめんねマー坊君、ちょっとクラスの友達から呼び出しがあったの”って途中で駅のほうにひっかえしてったぜ」


「そうなんだ。じゃあその内かえってくるのかな」

 そう言うとグラスを片手にキッチンへと姿を消す。

 かちゃかちゃ、きゅっきゅっ、姿は見えないが、水道から流れる水の音と、手早くグラスを洗浄する音がキッチンより響く。

「なんにしても、夕ご飯はあの子の当番だからな」

 同じく、冷蔵庫のドロワーを引く音が聞こえた。

「まあ、食材もあるから、今から買出しとかもいく必要はないみたいだな」

 再びリビングに姿を現した桃。

「ところで、何時頃帰ってくるかどうかって、あの子何かいっていなかったか?」


「ああん?」

 これまた無造作に、しわがつかないように、などと言う考慮を見せない、すがすがしいまでの無神経さでブレザーを脱ぎ捨てる。


「ちょっと、君、少しは着ているものに気を使いなよ」

 桃は顔をしかめ、ため息交じりにそのブレザー拾い上げる。

「何だかんだであと二年は袖を通すものなんだからな。しかもうちのブレザーは白がベースなんだ。ちゃんと扱わないとダメじゃないか」


「お、おお。すまねーな」

 申し訳なさそうに、真央は頭をかいた。


「……ったく。こんなに面倒くさいなんて思わなかったよ。男の子と一つ屋根にクラスのがさ」

 ぶつくさとこぼしながら、ブレザーを手早くたたむと、それをソファーの背もたれにかけた。

「今日の補習、きちんと受けたのか? それに明日、古典の宿題提出日だぞ。君は中間テストオール一桁の成績をたたき出したんだからな。なんとか提出物だけでも完璧にしないと、本当に留年するからな」


「成績のことはほっとけよ!」

 真央の方向がリビングにこだまする。

「……ったく、大体桃ちゃんはいちいちこまけーんだよ……」

 そう言うと、ごそごそと首もとのネクタイをはずし始めた。


「何を言ってるんだ。それもこれも君がきちんと身支度くらいの事もできないからじゃないか」

 腰に手を当てて仁王立ちした桃は

「はい」

 そういって右手を差し出した。


「? お、おお」

 差し出された手に戸惑いを感じながらも、なんとなく首にぶら下がるネクタイをその手に渡した。


「ん」

 そう言うと桃は小さく微笑み

「面倒臭いときは、最低限これ位しておけばいいから。ね?」

 そういってネクタイをブレザーの上に丁寧に広げた。


「……」

 そのやさしい、暖かな仕草に、真央はついつい見とれてしまう。


「……?」

 真央のうつろにも見えるその視線に気付いた桃は

「どうかしたか、マー坊。あたしの顔、何かついてるのか?」

 と首をかしげる。


「……っと……い、いや! なんでもねえ!」

 そう言うと顔を両手でぴしゃりと叩き、立ち上がってよそよそしく叫んだ。

「さーってと、奈緒ちゃんまだ帰ってこねーのかなっ! そろそろ腹減り限界だぜ! 奈緒ちゃんかえってこねーと、飯も食えねーからな!」


「そういえばそうだな」

 桃はそう言うと、テーブルの上に置かれている携帯に手を伸ばした。

 指先で画面を手馴れた様子でフリックすると、とん、羽尿に軽く親指で画面に触れた。


 ――RRRRRRRR――RRRRRRRRR――RRRRRRRRR――


 数十秒の沈黙の後


『……もしもし? 桃ちゃん、どうしたの?』

 携帯電話からは、相変わらずののんきな声が響いた。


 ふう、いつものことではあったが、それでもため息をつかざるを得ない桃。

「奈緒、あんた今どこにいるの? マー坊から聞いたよ。きちんとあたしにも連絡よこさなくちゃだめじゃないか」 


『……あー、そうだった。ごめんね桃ちゃん』

 本人からも、すっかり電話をしなければ、という考えが抜け落ちてしまっていたのだろう。

 奈緒の素っ頓狂な声がまたもやリビングに響いた。

『……実はね、クラスの友達の、郁美、知ってるでしょ? その郁美がね、休み明けに提出するレポート、一緒にやらないかって誘われちゃったんだー』


「なに言ってるんだ。あんたがむしろ手伝ってもらう立場でしょうが」

 あきれたように、目じりに人差し指を当てて顔をしかめる桃。

「まあ、それは分かったからさ。いつ帰ってくるか、ちゃんと教えなさい」


『えへへへへー、ばれてたかー』

 照れ笑いの声。

『それでね全然終わりそうになくなっちゃって、明日日曜日だから、今日郁美の家に泊まることにしたんだー』


「へっ?」

 今度は桃の素っ頓狂な声がリビングに響く。

「ちょ、ちょっと! 勝手にそんなこと決めるなよ! だ、大体郁美ちゃんの家にもご迷惑がかかるじゃないか! そういう大事なことはもう少し早く……」


『ごめんねー。わたしも宿題提出が月曜日だってことすっかり忘れてたからさー。でもその代わり、しっかり終わらせてゼッタイに赤点とらないようにするから! じゃ、後でメールするねー』

 

「って、ちょっ……!」

 

 ――ツー・ツー・ツー・ツー――


「って切れてるし!」

 桃の突っ込みは、またもむなしく響いた。

「……ああもう、どうしてこういう……」


「ようよう、桃ちゃんよう」

 桃の後から、こちらものんきに声をかける真央。

「ほんでよ、奈緒ちゃんなんつったんだ? いつ帰って来れるかとかの話したんか? 早くメシにしてーからよ、教えてくれよ」


 なんだかまたこういうやり取りを繰り返しているな、と桃はめまいがする思いがした。

「……ほんとに、お母さんも奈緒もマー坊も……」

 へたり込むようにしてテーブルへとよろめいた。


「ん? どうしたよ桃ちゃん、なんか悪いもんでもくったんか?」

 相変わらずの、“でりかしー”のかけらもない言葉を口に知る真央。


 しかし、もはや桃にはそれに反応する気力もない。

「……今日、宿題終わらせるために友達の家に泊まりにいくから帰って来ないんだって」

 目じりを押さえながら、弱弱しく呟いた。


「へっ?」

 急に、驚いたような声を上げる真央。


「なんだよ、急にへんな声だしちゃってさ」

 眉間にしわを寄せ、苦々しい表情で真央を見上げる桃。

「まあ、確かにあの子らしいっていうか、まあ何事も唐突なんだとは思うけどさ」


「……ま、まあ、それはそう……なんだけど、よ……」

 急に桃から顔をそむけ、よたよたと足取りも重くソファーに腰を沈ませる真央。

「……まあ、その、なんだ……」


「なんだよ、急に君らしくない。気持ち悪いなあ」

 桃はテーブル席から腰を上げ、真央の前に仁王立ちになりその顔を覗き込む。

「いったろ? あたしそういううじうじした感じで言葉隠されるの嫌なんだって。いいたいことがあるんなら、はっきりいいなよ」


 ちらり、一瞬桃と視線をあわせたかと思うと、うつむきもしゃもしゃと髪の毛をかく真央。

「……い、いやよ……つーことは……今夜……」


「今夜? 今夜なんだって?」

 怪訝な表情で聞き返す桃。


「……い、いやなんつーか、奈緒ちゃんにねーから……」

 真央派桃に目を合わせることができずに、呟くように言い切った。

「……俺と……桃ちゃん……二人っきりなんだなあ……て、さ……」


「ぁいっ?」

 ようやく奈緒の電話の持つ意味に気がついた主は、素っ頓狂な声を上げる。

 そして、慌てふためいてよたよたとテーブルによろめき倒れるようにして寄りかかる。

「……あ、あたしと……マー坊……二人きり?」


「……ま、まあ、そうなるわな……」

 ぎこちない愛想笑いを浮かべる真央。

「ぎゃはははは……は、は、は、は……」 


 その言葉を契機に、リビングに言いようのない緊張と無言の時間が流れる。


 二人とも、数メートルの距離を保ったまま、互いにうつむき目をあわそうともしない。


「……」

「……」


 無言のままお互いにお互いの様子を確認しようとするが、その視線が不意に交錯した。


「!」

「!」


 二人は慌てて視線をそらすと、再びうつむき口を貝のように閉じた。


 そのまま何分、いや何時間とも知れないような、緊張と沈黙の、そしてお互いの過剰な意識に包まれた二人だけの空間が形成され続けた。


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