5.7 (火) 23:30
パシィッ
「なにすんのよ!」
古びた2LDKの玄関、空け放たれた扉にもたれかかるようにして、セーラー服に身を包んだ少女が頬を抑え叫ぶ。
小さく細い、やせぎすの体は、痛みと怒り、そして恐怖に小さく震える。
丸くくっきりとした二重瞼の瞳は、眉間に寄せられたしわに従いゆがみ、激しい怒りと共に自分の頬を張った人物の顔をにらみつける。
少女は怒りに任せ、激しい言葉をそのの人物に浴びせかけようとするが
「――ちょ、ちょっと!」
ぐいっ、その右腕は力任せに、荒々しく掴まれアパートの中に引きずり込まれる。
「――い、痛いよ! 痛いっつてんじゃん、離してよ! 離してったら……」
「……近所迷惑だ」
低いトーンで、そのその少女の顔を振り返ることもなく、力任せに少女を扱う少年。
「……このアパートは、大家さんのご厚意で相場より安い値段で借りさせてもらってんだ。ご近所の皆さんにこれ以上ご迷惑をおかけすることは許さん」
その少年神崎桐生は、やはり氷のような冷たさを以て、簡潔に、一切の無駄を省いた言葉を口にした。
そして、じろり、やはり凍り付くような視線で少女に語り掛ける。
「……大体、今何時だと思っている」
神崎は顎でしゃくるようにして、壁にかかった、分針の奇妙にゆがんだ時計を示す。
「……11時30分、何の連絡もなく中学生のガキが帰ってきていい時間じゃないだろ。それに、お前また学校サボったそうだな。いったいどこで何をやってやがったんだ」
ぶん、少女は渾身の力を込めて神崎の腕を振りほどき、そしてその瞳をにらみ返して叫ぶ。
「かんけーないでしょ、兄貴には! 大体学校いかなくたって成績はトップなんだから、別に文句はないでしょ!?」
ジンジンと痛むその左ほおを抑え、そして乱暴にローファーを脱ぎ散らかしてリビング、という言葉のそぐわない居間へと足を運び、どっかと腰を下ろして片膝を立てる。
「兄貴はいっつもそうじゃん! 何か何でもかんでもわかったような顔してさ! 自分だって毎日ボクシングやって好き勝手してるだけじゃん! 紫がどこで何しようが、紫の勝手でしょ? いちいち口出ししないでよ! 大体紫がちょっと遅く帰ってきたくらいで何だって言うのさ! 兄貴なんて、数年前まで毎日どっかで悪さを……」
桐生は眉間にしわを寄せ、今度はわずかに熱のこもった視線で、たった一人の妹の顔をにらみつける。
「……うっ……」
怒りのこもったその視線に気圧され、その盛んに動く口をしぶしぶと閉じる。
そして、うつむいてそのまま黙りこんだ。
「……心配させるんじゃない。お前は、俺に残されたたった一人の肉親なんだからな……親父が死んで、おふくろもいない。俺たちきょうだいは、たった二人の血を分けた兄妹として生きていかなければならないんだ。俺もボクシングやりながら、朝と夕に新聞配達のバイトもあって、かまってやれないのは申し訳ないと思ってる。だがな、心配だけはさせないでくれ」
普段つくり慣れていない、ぎこちない笑顔を作り、神崎桐生は妹の肩にその手を乗せようと試みるも
フン、神崎紫は激しく体を振りその兄の手を拒絶した。
「うるさいな! 自分だってちょっと前まで手もつけられない不良やってて、何回も警察とかに世話になてたくせにさ! ちょっとボクシング初めてインターハイ出たからって、昔のことなんでもかんでもチャラになったつもりでいるわけ? 何様のつもり!?」
そして、どんっ、両の拳で卓袱台を叩きつける。
「……ほかの友達は、当たり前のように両親がいてさ、何不自由ない生活してるって言うのに……なんであたしたちはこんなに寂しい生活していかなければならないのよ……」
神崎紫はうつむき、そして肩を震わせた。
軽く触れただけのはずのその手のひらが、無性に熱い痛みを伴って感じられる。
「……そこまで言われたら、俺にも何も返す言葉はねえよ」
同じく寂しそうに、目を伏せるようにして神崎は言った。
「……だがな、親父とお袋の遺産はしっかりと取ってある。お前がどこの高校に通おうが、きちんと満足のいく教育が受けられるようにな。それに、バイトと奨学金で、それなりの生活はさせてやってるつもりだ」
「そう言うのがむかつくって言ってるの!」
ばんっ、再び卓袱台を叩いた紫は、兄の顔を睨みつけた。
「なんでもかんでもあたしのために犠牲になってるようなことばっかり言ってさ! 恩着せがましいって言ってんの!」
フッ、ため息をつき、振り返った神崎は台所へと足を運ぶ。
そして台所から
「……どうせまだ何も食ってねえんだろ」
布のかけられた盆を手に居間へと戻って来た。
「……意地張ってないで、食えよ」
その手で盆にかけられた布を取り去ると、そこにはきちんと三角に握られた握り飯とみそ汁が。
じとりとした目で、握り飯と兄の顔を見比べる紫。
「……今日も綾子さん来てたでしょ……」
その言葉、その視線に、一転して兄は気まずそうに言葉をなくす。
「……まあ、な……」
そういうと、こちらもちゃぶ台の偽を向けてもたれかかり、リモコンを手に取った。
その背中に、憎しみのこもった視線を投げかけ続けていたが
きゅるるるる……
紫は目の前に置かれた握り飯と香の物、そして暖かいみそ汁の誘惑に打ち勝つことはできない。
「ああもう! むかつく!」
そして、ばつが悪そうに、しかしその育ち盛りの盛んな食欲をいかんなく発揮し、むしゃぶりつくようにして握り飯にかぶりついた。
フッ、その様子を肩越しに見た神崎は、いつも通りのクールな微笑みを浮かべる。
そして、ピッ、テレビの電源と何代も前の型落ちのDVDレコーダーの再生スイッチを押した。
テレビモニターのスピーカーからは、質の悪い割れるような音が鳴り響く。
「……ふゎによ……ングッ……このビデオ」
もぐもぐもぐ、一心不乱に口を動かしながらも、憎々しげに訊ねる紫。
ずずず、一口味噌汁を口に含み、口中の白米を無理やり胃の中に流し込む。
「……んっく……はぁっ……ボクシングの試合? 兄貴がほかのボクサーの試合、録画してまで見るなんて珍しいじゃん」
神崎は、しかしその言葉にこたえることなく、リモコンを握りしめて真剣なまなざしでモニターをにらみつける。
返事が返ってこないことに、その島民前のリスのような頬をさらにぷう、と膨らませる紫。
「……ったく。こういうとこがむかつくって言ってんだよ……」
完全に返事をあきらめ、神崎紫もまたその視線をテレビモニターへとむけた。
――カァン――
ややくぐもった、割れるようなゴングの音が鳴り響く。
リングの中央、二人のボクサーが対峙する。
試合前の場内アナウンスによれば、二人とも神崎と同じウェルター級のボクサーたち。
二人とも同じ程度の多雨中のはずだが、青コーナーから飛び出したボクサーは、明らかに筋肉の梁、体つき、そして身にまとう雰囲気からして対戦相手を圧倒していた。
いったいどこの試合だろう、神崎紫はモニターの中にそれと思しき文字を発見する。
「……えと……これは……東京、東京の試合?」
「……ああ」
神崎は、ようやく妹のそのひとりごとのような問いかけに答えた。
「……今度の関東大会、東京代表、俺の対戦相手、さ」
画面上では、大きくスタンスをとった青のボクサーが、盛んに状態、首、そしてその両腕を動かし続ける。
そのたびに赤のボクサーはそれに反応し、そしてその瞬間を逃さずに青のボクサーのこぶしが赤のボクサーをとらえる。
青のボクサーは上体を動かし続け、そしてあっという間に距離を詰め、右に左にと赤のボクサーにこぶしを浴びせ続ける。
赤のボクサーはただやみくもにこぶしを振るうが、青のボクサーは柔らかく状態を使いことごとくそのこぶしをかわし続ける。
赤のボクサーはたまらずガードを固め、そしてロープへともたれかかる。
「……なにこれ。全然勝負になってないじゃん」
ゆかりは顔をしかめ、そしてスクールバッグから取り出したペットボトルのお茶を一口含む。
「兄貴の試合もそうだけどさ、高校のボクシングの県大会レベルの試合ってこんなもんなの?」
大きく状態を振る青のボクサー。
赤のボクサーはたまらず右フックを繰り出すが
フッ
「えっ?」
目の前で展開された信じられない光景に、同年代の女子中学生と比べて目の肥えているはずの紫も思わず声を上げた。
対戦相手のほうを凝視していたはずの青のボクサーは、そのこぶしの当たる瞬間に状態を大きくダッキング。
そしてそのまま大きく左腕を後転させ、まるでクロウルでもするかのように渾身の左フックを赤の顔面に叩き込んだ。
赤のボクサーは、そのまま固いマットへと体を沈み込ませた。
「……何こいつ? すごくない?」
紫は嘆息した。
兄がボクサーである関係上、紫も何度かボクシング観戦に足を運んでいる。
それは当然に兄、“天才”神崎桐生の試合であり、その圧倒的な強さと華麗なKOシーンを目の当たりにしてきた。
しかし、この青のボクサーは、すべてにおいて兄とは正反対だった。
冷静に、理知的に理詰めのボクシングを展開する兄を氷とするならば、この画面上、勝ち名乗りをレフェリーより受けるボクサーは、まるで炎だ。
紫は、熱い炎を飲み込んだような興奮を味わっていた。
「……誰? なんていうやつなの? この青コーナーのボクサー」
「……秋元……秋元真央、だ」
やはり視線をテレビ画面上から動かそうとしない神崎。
もう何度目かの観戦だが、紫同様、その鼓動の高鳴りを感じずにはいられない。
「聖エウセビオ学園、東京都ウェルター級A代表、さ」




