5.7 (火) 17:30
バンッ!
キイッ、キイッ、キイッ
神崎の振り返りざまの右拳が、スピードバッグにめり込み、苦しそうにきしむ音がジムに響いた。
「どうした。らしくねーな」
モニターを囲むベンチに腰掛けたままの内野。
常にクールな神崎がリング外で見せた感情の爆発、内野はややそれに戸惑いを感じた。
「タメのアマチュアボクサーにお前がこんなにいきり立つなんてよ。初めて見たぜ。ただまあ、分かる気もするがな」
すると今度は内野も立ち上がり
「っらァ!」
左右の連打を叩き込む。
ぎい、ぎい、ぎい、天上から伸びる錆びたチェーンを支点に、重いサンドバッグがわずかに揺れる。
「――ふっ、ふっ、ふっ、一見すれば、荒削りなパンチ力に任せただけのブルファイターって所か。だけど、なんつーか、なんともとらえどころがねえボクシングをしやがる。それに、よっ!」
ズンッ、右のボディーアッパーを渾身の力で捻り込む。
「――滾るんだよ。こいつのボクシングはよ」
「……ええ……そうっすね……」
スピードバッグに寄りかかり、右前腕部を額に当てながら、神崎は答えた。
そのたたずまい、その言葉はいつもと同様に肌寒くなるほどに冷静であった。
しかし、その後姿。
その後姿には、隠し切れようのないほどの闘志と熱さがにじみ出ている。
「ど、どうなんだよ桐生ぉ!」
内野、そして神崎のナーバスな言葉に、神崎の同級生は心配そうに声をかける。
「た、確かにこいつは……俺らみてえな凡人が見てすらタフな相手だと思うけどよ……お前なら……お前なら、何の問題もなく勝てる……よな?」
「そ、そうっすよ! 何言ってんすか!」
神崎の後輩もいきり立ち、しかし不安そうな様子を隠そうともせずに口走る。
「き、桐生先輩が、こ、こんなぽっと出のわけのわかんねえ野郎に、負けるわけないじゃないっすか!」
「……訳のわかんねえ野郎か。確かにな」
神崎桐生は傾けていた上体を起すと距離を取り、そして再びサンドバッグに拳をめり込ませる。
神崎の頭の中には、関東大会東京都予選における真央の姿が焼き付いて離れない。
左右に頭、そして体を振り、皆川の拳のほぼすべてをかわし続ける真央の姿。
ダッキング、ウィービング、ややガードを下げながら、時にはそれを高く上げる変幻自在な構え。
あらゆるパンチに反応し、必ず織り交ぜられるカウンター。
野生動物のように上体を振りながら接近し、そして的確に急所をとらえる固く重そうなその拳。
中学生でボクシングに出会って以来、あらゆるタイプのボクサーと拳を交えねじ伏せてきた神崎だったが、これほどに融通無碍でとらえどころのないボクシングを目の当たりにしたのは初めてだった。
そして、はやる呼吸を力ずくで抑えながら隣で同じくサンドバッグに向かう内野に訊ねる。
「……何モンなんすか、こいつ。去年の関東大会でもインターハイでも、こんな訳のわかんねえ奴見たことないっすよ」
「俺にもわからん」
天を仰ぐ内野。
「ただ言えるのは、こいつは去年まで東京都予選に出場はせず、今年になって急に現れて圧倒的な力で関東大会出場をもぎ取った、ってことだ。かといって、こいつの動きは、粗削りではあるが昨日今日ボクシングを始めた動きじゃねえ。間違いなくボクシング経験者だ」
「……それだけじゃないっすね。確実な証拠はないんすけど、匂うんすよ」
トントントン、軽快にフットワークを刻みながら姿見の前に移動し、シャドウを刻む神崎。
「……こいつは、俺と同じだ。間違いない。間違いなく路上上がりのボクサーだ」
内野は眉間にしわを寄せ、鋭い視線で神崎を睨みつける。
「路上上がり、いわゆる喧嘩自慢の不良上がり、ってやつか」
「……認めねえよ」
ヒュン、その残像すら認識できるか怪しい、閃光のような右ストレートに思いのたけを乗せる。
「……俺は認めねえよ、こんな野郎。リングてのは、ただの腕っぷし自慢の不良なんかが上がっていいような場所じゃねえんだ」
内野、そしてボクシング仲間たちの方を振り向き、闘志にあふれた言葉を、とびきりクールに口にする。
「……俺は自分自身が天才かどうかなんてわからねえよ。ただ、俺は誰にも負けねえよ。俺自身のためにも、俺を信じてくれる人たちのためにも」
パン、拳を掌にたたきつける。
「……1ラウンドでKOして見せてやるよ」
「桐生さん!」
「桐生さん!」
「桐生!」
部員たちが神崎を取りかこむ。
「桐生さん! こんなやつ1ラウンドでノックアウトして、さっさとインターハイ出場決めちゃってくださいよ!」
「桐雄さんがこれだけ自信を持ってKO宣言するなんて初めてじゃないっすか? だったら間違いなくノックアウト勝利決定っすよ!」
「そうだぜ桐生! なんつったって、お前は天才ボクサーなんだからよ! お前が勝つこと、群馬県中の誰もが期待してっからよ!」
その様子を内野は、目を細め眩しそうに見つめる。
内野と神崎が初めてであったのは、高崎市の路上においてであった。
当時上毛商業高校のボクシング部に所属していた内野は、三対一の劣勢にもかかわらずあっという間に相手をのした神崎の姿。
狂犬のようなすさんだ目を持つ神崎に、内野は一瞬底冷えするような緊張を体中に走らせた。
そんな手のつけられない不良であった神崎が、今はボクシングのスポットライトという日の当たる場所を見つけ、多いとは言えないが仲間たちに囲まれ、その期待を一身に背負い奮起する。
その姿は、内野のこころに言葉では表現できないような感慨を呼び起こしていた。
「……秋元真央、か。悪いな」
不敵に微笑みながら、内野は小さく呟いた。
「悪いが神崎にとって、お前は通過点に過ぎないんだよ。この男には、インターハイですら通過点に過ぎないんだ。この男の目指すべき場所は――」
すると内野は後輩たちの輪の中に近づき、そして神崎らと肩を組んだ。
「よっしゃ、目指すは高校7冠、そんでオリンピック出場だぜ」
「おお!」
その言葉に、上毛商業ボクシング部部員たちも色めき立つ。
「そうだぜ桐生ォ! 目指すはオリンピック、ゴールドメダリストだぜ!」
「桐生先輩! 桐生先輩なら間違いなくゴールデンボーイになれますよ!」
「そうっすよ! 日本人初のウェルター級での金メダル、俺たち……いや、日本中のボクシングファンが期待してますから!」
「……お前ら……」
あっけにとられたような表情を見せた神崎は、フッ、普段はめったに見せることのないリラックスした微笑みを浮かべた。
「……ああ。約束するよ」
そう言うと、天を仰ぎ、短くも力強い言葉を繋いだ。
「……こんなに守らなきゃならないもの、いろんなもの背負い込んじまったからな……」
「すいませんでした。わざわざ貴重な時間つぶさせてしまって」
丈一郎は折り目正しく頭を下げる。
やや日も傾き始めた聖エウセビオ高校の校門前、関東大会群馬県代表、“天才”神崎桐生の映像を持ってきてくれた鄭に対し、聖エウセビオ学園ボクシング同好会の面々、そして葵と岡添絵里奈は見送りに姿を見せた。
「別にいーよ。今更川西にそんな頭下げてもらわなくてもさ」
そう言うと鄭は、頭をあげたばかりの丈一郎の額を人差し指で弾いた。
「ま、俺らと聖エウセビオは、なんて言うか、もう仲間みたいなもんだろ。それに俺、ちょっと期待してるんだぜ」
そして真央の顔を見つめて言葉を繋げる。
「俺を差し置いて“天才”なんて豪語している奴、認めたくないからさ。ここは癪に触るけど、この某若無人の理不尽大王に、ちょっとは期待してみたくなるってもんだろ」
「くだらねーこと言ってんじゃねーよ」
いつもの不敵な微笑みを浮かべる真央。
「この俺をだれだと思ってんだよ。この世界一の“大天才”、秋元真央様に敵なんかいねーんだよ。お前ら凡人どもが余計な心配しなくたってよ、いつもどーり圧倒的な力の差でノックアウトしてやるっつーんだよ」
「……ま、お前にこういう繊細な言葉をかけるだけ無駄だった、ってわけね」
鄭はじとり、と真央を見つめ、呆れたようにため息をついた。
「てわけでさっ。今度俺と遊びにいこーぜ」
そういうと、鄭は葵と奈緒の手を取る。
「なあいいだろ? もうじき関東大会で忙しくなると思うしさ」
そして、同じく岡崎の瞳を見つめ
「先生もよかったら俺と連絡先交換してよ。まあ聖エウセビオの生徒なら問題になるかもだけどさ、他校の生徒だから問題ないっしょ? 俺年下だけどさ、そんじょそこらの男より――」
ゴンッ!
「いい加減にしやがれこの野郎! 女と見ればいちいち盛りやがって!」
真央の怒りの鉄拳が鄭の顔をとらえた。
その様子に葵と奈緒は苦笑いを浮かべ、岡崎絵里奈は顔を引きつらせた。
「……ってぇ……何度も言うけど、俺の方が年上なんだから、少しは敬意ってもんを見せろっつうの……」
頭のてっぺんに大きなこぶをこさえた鄭は、忌々しそうに頭を抑えた。
「ところでさ、あいつどこ行った?」
「「「あいつ?」」」
聖エウセビオの面々は、きょとんとした表情で言葉を返す。
「あいつだよ、ほら、打ちの後輩がぶーちゃんって呼んでるあいつ。レッドってやつだよ」
怪訝な表情で答える鄭。
「「「……あー……」」」
聖エウセビオの面々は、表情をこわばらせ、そして苦笑いを浮かべた。
「……はあ、はあ、はあ……」
ヘビーバッグの前、へたり込んで心細そうな声を上げるレッド。
「……み、皆さんはいったい……どちらへ行ってしまったんでしょうか……」




