5.7 (火) 16:40
――カァン――
“第二回”
かろうじて興奮による声の上ずりを抑えたアナウンスに、再び会場は沸き立つ。
自分自身へと向けられた声援をかみ捨てられたガムのように扱いながら、神埼桐生はやはり淡々と、氷の表情でリング中央へと飛び出していく。
相手選手、前橋教駿館の関本とのその距離2メートルというところ、アップライトに構えていた神崎は不意にクラウチングスタイルにシフトする。
“待ってました”とばかりの歓声とどよめきが会場を揺らす。
ガードを高く維持したまま
ヒュンッ
スナッピーで切れ味鋭い神崎のジャブが関本の顔面を捉える。
「この回は、神崎選手が先手を取ったわね」
岡添が声を上げる。
岡添を含む、視聴覚室に集まった全員が、固唾を呑んで見つめる中、スクリーン上ではしなやかな神崎の左ジャブが関本の顔面にあとを残す。
そのスピード、その軌道は、何度か拳を交えたはずの関本にとってももてあますものだった。
第一ラウンドとは明らかにギアの入り方が違う、その場にいる誰もが実感した。
「それにしても、不思議なパンチですね」
青いが何かを確かめるかのように、ひらひらと腕を振る。
「真央君や川西君も、あの……左ジャブですか、そのパンチは出しますが、万田か全く別物のようにも感じられますね」
「おっ、よく気がついたね、葵ちゃん」
嬉しそうに、しかしやや大げさに鄭が葵の顔を覗き込み微笑む。
「俺達西山大附属でもそうなんだけどさ、基本的にジャブは際杏距離をスピーディーに打ち抜くもんなんだ。まあ、秋元の奴はほとんど左ストレートみたいにねじ込むパンチになっちゃってるけどさ」
すると鄭は立ち上がり
「――こう、こう……わかる?」
シュッ、シュシュッ
葵の前で最短距離でピンポイントに打ち抜くジャブを実演する。
「これがまあ、オーソドックスなジャブなんだけどさ。こういうのももあるんだ。こう……こういう感じ」
ヒュ、ヒュ、ヒュン
肩から先行し、ムチのようにしなるジャブを続けて披露する。
「一瞬の予備動作の後にほんの刹那遅れて拳が来るもんだから、結構反応しにくくて、打ち抜くというよりしなるような拳になるんだ」
「なるほど」
葵は小さく何度もうなづいた。
「なんていうか……真央君のパンチが“剛”だとしたら、しだれ柳みたいな“柔”のパンチなんですね」
「けど、リーチとか、たぶんナチュラルな体のサイズで言えば、関本さんの方が有利な感じ?」
奈緒はあごに指を当てて首をかしげる。
「クラウチングには戻したけど、やっぱり神崎選手ってボクサータイプなのかなー」
「まあ、本質的にはそうかもしれないな」
再び腰を落ち着けて鄭は口を開く。
「けどさ、さっきも言っただろ。何でこいつが天才ボクサーって言われてるか」
ふうっ、ため息をこぼし、首に後ろ手を組む。
「ま、こっからさ。それが見えてくるのは」
スクリーン上、左ジャブに苛立った様子の関本は、がっちりとガードを固めて一気に距離をつめる。
ジャブで完全に試合をコントロールし始めた神崎は、そのまま後に下がり距離をとるか――
いや――
「受けて立つの?」
ガタン、丈一郎が拳を固めて思わず立ち上がる。
神崎はなおもガードを固めたまま、同じく距離をチ締め手足を止め、真っ向からの打ち合いに挑む。
その体をなぎ倒すかのような関本のフックの連打を、パーリングとスウェーでかわしつつ
ボンッ
左のストレートをボディーにねじ込ませる。
そしてその体の回転を利用し
ガンッ
今度は右フックを関本の左の側頭部へ。
さらに、左足を関本の左足の更に外側へと運び、
ズンッ
体の回転と体重移動が見事に連動した左のボディーフックをレバーへと叩き込む。
上下左右、ありとあらゆるところから飛び出す拳が関本に襲い掛かる。
「すごい……全然関本選手がついていけてないよ……」
普段ボクシングを見慣れている奈緒ですら、その流れるようなコンビネーションに見入ってしまった。
いや、コンビネーションだけではない。
「……闘争本能だって、技術に負けないくらいすごい……」
「身体能力とサイズの差を、闘争本能と技術、センスで補っている、ってわけか」
ようやく真央も口を開く。
「上下の打ち分けだけじゃねえ。コンビネーションにかならず内と外の打ち分けをさらに絡めてやがる。なかなかだぜ、こいつは」
「へぇ、お前が他人をほめるなんて、珍しいこともあったもんだな」
目を見開き、鄭は驚嘆の声を上げる。
「でもさすがだな、ボクシングを見る目の確かさは。そうなんだ。こいつには一発がない、ってわけじゃないんだけど、こいつの最大の武器はコンビネーションなんだ。そしてそのコンビネーションを最大に生かすことができるのも、相手と足を止めて真っ向勝負を挑むことができるだけのハートの強ささ」
ゴキィ
スクリーン上、渾身の左アッパーが関本の顎を捕らえる。
「身体能力だけに頼らない、ハートの強さと技術を兼ね備えた真性のボクサーファイター、それがこの神崎桐生、ってボクサーってわけさ」
――カァン――
第二ラウンド終了を告げるゴングが響く。
「第三ラウンドまでもつれ込んだね」
ふうっ、呼吸の存在をようやく思い出したかのように息をつく丈一郎。
「けど、見ていれば分かるよ。ナックアウトできなかったわけじゃない」
「ああ」
うなづき同意する鄭。
「できなかったんじゃない。“あえてしなかった”んだ。この県大会の決勝戦ですら、神崎桐生って言うボクサーにとっては調制にしかならないってことさ」
「その視線は、常に全国大会へ、っていうことですね」
葵がまぶしそうにスクリーンを見つめる。
「しかもそれが、慢心からでも傲慢さからでもない」
岡添が続けて口を開く。
「自分と相手の、関本選手との実力差を、冷静に分析した上でのこと」
なおもそれに続く。
「闘争本能とクレバーさを併せ持ったタイプ、だね。そういう点ではマー坊君と似てるかもだけど――」
「スタイルは真逆さ」
鄭は立ち上がり、ファイティングポーズを作る。
「がっちりとガードを固め、アウトとインを滑らかにシフトして使いこなす神崎に対し、ガードを下げ気味に上体を揺らしながら、インへインへとねじ込んでくる秋元。互いの拳を互いがどこまで捕らえきれるか、タフな試合になりそうだな」
ガッ
体育館の裏、数人の少年達がもみ合いになる。
一人はジャージー姿、その両手には、その少年がボクサーだということを示すバンデージがしっかりと巻きつけられている。
そのジャージーの背中には“上毛商業ボクシング部”の文字が。
そのジャージー姿の少年の胸倉を、学生服の少年が掴み上げ、コンクリートの壁に押し当てている。
同じく学生服を着た複数の少年が、その周囲を取り囲んでいる。
ジャージーを着た少年の胸倉を掴み上げる学生服の少年が怒号を上げる。
「おいこらぁ、神崎ィ! テメェまた俺らの集会サボりやがったなあ!?」
ジャージー姿の少年、それは同時刻、真央たちがスクリーン上で見つめるボクサー、神埼桐生だった。
神崎はその学生服の少年達の怒号を端から無視し、しかし一切手を出すことなくそのなすがままに壁に押し付けられていた。
「……何度もいってるだろ……もう俺はお前らとつるむつもりはねーって……」
気だるい物言い、しかしその鋭い眼光が周囲の男達を威圧する。
その眼光に押されるように、男達はたじろぐ。
「て、てめえ! 下級生のくせして舐めた口利きやがって!」
「……“もう僕は先輩方とつるむつもりはございません”……これでいいか……?」
そう言うと神崎は胸倉を掴む腕を外側からぐいぐいとひねり上げる。
「がっ……がああっ……」
間接を逆方向に決められたその男は、苦しそうにうめき声を上げる。
「ああ! って、てめえ、なにしやがる!?」
「お、俺らに逆らうつもりか、てめえ?」
周囲の男達は神崎に飛びかかろうとしたが
ギロリ
「……う、うう……」
神崎のその氷のような鋭い視線に足をすくませ、一歩も動くことができなかった。
その時――
「おい、お前ら何やってるんだ?」
校舎の影から姿を現したのは
「げっ! あ、あんたは……」
その姿に、神崎も拍子抜けしたよな声を上げる。
「佐久間ァ! てめえまだそんなことやってやがんのか?」
佐久間と呼ばれた少年の花から、真っ赤な鮮血がはじき飛ぶ。
そして佐久間は再びその場にへたり込み、顔を抑える。
「……あ、ああ、内野さん……すいません……」
「……内野さん……なんでまたこんなところに……」
その姿に、神崎は間接を決めたその腕の力を緩める。
しかし神崎に一瞥することも無く、拓洋大学ボクシング部の内野はその場にへたり込むその男の元に向かう。
そして今度はその男の胸倉を掴み上げ、そして
バシィッ
体重の乗った平手打ちを喰らわせ叫ぶ。
「てめえ留年して、来年には二十歳になるんだろうがぁ!? いい年こいてまだ“族”なんかに入ってやがんのか!?
内野は見下ろすように佐久間の前に立ち、怒号を浴びせる。
「それだけじゃねえ! 真面目ンなってボクシングに取り組む後輩にちょっかいかけやがるなんざ、てめえそれでも男か!? 恥を知れ、恥を!」
「……す、すんま……すんません……」
佐久間はすくみあがりよろよろと立ち上がると、仲間に支えられながら校舎の奥へと消えて言った。




