5.7 (火) 16:30
カァ――ン――
会場に響き渡る、大きく余韻を残す一鳴のゴング。
その余韻が作り出す一瞬の静寂の中
“これより、関東高等学校体育大会――”
すぅ、一瞬のためを残し
“――ボクシング競技群馬県予選大会ウェルター級決勝戦、両選手の紹介をします”
場内アナウンスがその静寂を引き裂く。
そして、いずこかの学校のマネージャーなのであろう、女子生徒は異様に母音を強く発音しながらリングへと一組のボクサーを召還する。
“赤、前橋教駿館高校、関本選手”
低く、重々しい声援が会場中を占拠する。
一切の色のない、完全な男の魂がにこだまする叫びだ。
「こいつは?」
真央は画面を一心に見つめ、問いかける。
「こいつはどの程度やれるんだ?」
「前橋教駿館の関本。三年だよ」
足を組み、アームレストに肘をかけながら鄭は答える。
「一応去年の国体出場選手さ。んで5位入賞してる位だからそんなに悪い選手じゃないぜ」
その言葉とは裏腹に、明らかに鄭は関本のボクサーとしての底を見透かしたような態度で言葉をつなげる。
「たださ、あいつが二年の時、国体以外の大会ではことごとく全国出場の機会は奪われたのさ」
チッ、舌打ち交じりに真央は吐き捨てる。
「……あの野郎にか」
「ああ」
鄭は視線を再びスクリーンへと移し、短く簡潔に言った。
「あの男に、さ」
スクリーン上、淡々とすでに“あった”結果のみが映像として映し出される。
冷徹な、動かしようのない、何の解釈もさしはさみようのない現実のみが。
“青、上毛商業高校――”
再び一瞬のためが生じる。
その瞬間、アナウンスのトーンは一段高くなる。
リングアナウンスは常に中立の立場でいなくてはならない。
しかし、そのリングサイドに置ける“コモン・センス”など破綻した銀行の債権程度に軽んじさせてしまうほどに、その男の持つ魅力は圧倒的だ。
観衆の前でその名を呼ぶことができることに、ある種の快感と高揚を感じているようにも思える。
会場の雰囲気は、跳躍のために縮小するばねのような、明らかな期待をはらんだ静寂へと変化する。
すべての観衆が、おそらくは彼の敵も含め、これからリングに駆け上がる一人の英雄的な男を渇望している。
“――上毛商業高校、神崎桐生選手”
先ほどの関本の場合とは打って変わった、色とりどりの声援が神崎を包む。
その声援の中、一切の感情の揺らぎを感じさせることなく、神崎はゆったりと、そして静かに歩を進ませる。
「ものすごい歓声ですね」
スクリーン上の光景、大声援を背景に静かに歩む神崎の姿は、葵をしてすら感動を感じさせる。
「西山大学附属の声援もすごかったですけど……なんていうか、こう……みんなの期待を一身に受けているというか、地元のヒーロー、って感じがします」
「もしかしてそれ、うちらの学校の悪口言ってる?」
ニヤリ、鄭はニヒルな笑顔を葵に向ける。
「い、いえっ! そういうわけじゃなくって!」
葵は顔を真っ赤にして両手を振る。
「いいよ、別に。気にしてないからさ」
鄭は小さく微笑み、再び視線をスクリーンへと向ける。
「“地元のヒーロー”か。全く以ってその通りだよ」
ボクシングにおける弱小校から彗星の如く現れた一人のボクサー。
その新星があっという間に全国制覇を成し遂げ、そして将来のオリンピックのメダル候補としてもてはやされる。
その快進撃はサクセスストーリ、まさしくボクサーの持つ神話そのものだ。
「んー、それにしてもさー。それだけじゃないんだよねー」
奈緒は小首をかしげて声を上げる。
「なんていうかさー、声援の中に女の子の声が多いような――」
ひくっ、鄭の右眉が痙攣したように引きつる。
そして小さな声で、呪詛の言葉を口にするかのようにぶつぶつねちねちと呟く。
「……くっそ……俺も……俺も共学校にいれば……」
ヘッドギアの間から見える、切れ長の鋭い目。
シャープで堀の深い輪郭。
一見近寄りがたいように見えるその雰囲気は、この上なくクールな男のにおいを感じさせる。
神崎が首を振り、小さなステップとシャドウを刻むそのたびに、悲鳴にも似た女性の黄色い声が爆発する。
その様子に、奈緒はすべてを把握した。
「そっかー、神崎選手って、もしかしたら女の子にすっごくもてるのかもしれないねー」
「たまたまだよ! たまたま!」
聖エウセビオ学園に足を運んで以来、初めて鄭が声を荒げる。
「俺の方がイケメンだし! あいつはたまたま共学校にいたから女が寄ってくるだけなの!」
そして右手の真央、後方上席の丈一郎に向かい
「お前らにも言っとくぞ!? お前らに女が寄ってくるのはたまたまお前らが共学校にいるからなの! 俺も聖エウセビオにいたら、女の子なんてより取り見取りだっつーの!」
その言葉に丈一郎、そして葵と奈緒は苦笑するほかなかった。
しかし、真央は全くその言葉に耳を傾けることなく、無言のままスクリーン上の神崎を目で追い続けていた。
――カァン――
“第一回”
ゴングの音とともに、試合開始を告げるアナウンス。
関本と神崎、二人のボクサーは慎重に距離を測りながらじりじりとその距離を縮めていく。
「身長はどれくらいなのかしら」
岡添が疑問の声を上げる。
「見た感じだと、秋元君の同じくらいか、少しい小さいくらいなのかしら」
「ん。正解」
ひゅう、口笛の様な声を鄭は漏らす。
「記録上だと身長は177センチ、秋元より少し小さいくらいかな。んで、リーチも同じくらいだから、サイズの点で言えばたぶん秋元の方が有利にはなると思うけどさ」
リングの中央やや赤コーナーよりの位置、神崎は細かくリズムを刻みながらフットワークを踏む。
顎をしっかりと首元に引き、腕を正確に八の字に構え、それを高く掲げて硬くガードを閉じる。
「天才ボクサーって騒がれるくらいだから、もう少し奇抜なスタイルを想像してたんだけど」
拍子抜けしたように丈一郎は言葉を漏らす。
「変な表現だけど、ありえないくらいに正統派というか、オーソドックスなスタイルだね」
「そうだな」
こくん、鄭も頷き同意する。
「がっちりとガードを固めて前傾スタイルを作る。ある意味では典型的というべきボクサーのスタイルさ」
「んー、てことは、神崎選手はファイターなの?」
真央の体越しに奈緒が訊ねる。
パンッ
先に仕掛けたのは、関本のほうだった。
数度左のジャブを放った後、左右のフックを振り回し距離をつめ、そして右ストレートを瞬く間に叩き込む。
しかし、そのすべてを硬く引き絞った上腕で神崎はガードする。
丈一郎はあることに気付く。
「神崎君……スタイル変わってない?」
おもむろに立ち上がるとファイティングポーズをとり、その動きをトレースする。
「さっきまで典型的なインファイターだったんだけど、ほら」
丈一郎の指差すスクリーン上、サークリングしながらガードを続ける神崎の姿。
その姿は一見堅牢なガードのみでそれを裁いているように見えるが、その瞬間瞬間に細かな状態の移動、スウェーを交えている。
「ただ、がちがちにガードを固めるだけの亀ボクサーじゃないんだよ、神崎は」
鄭は奈緒と丈一郎、二人の質問に対し答えを投げる。
「インファイターの構えから、場合を見てアウトボクサーのスタイルに切り替えながら細心の注意を払いつつ被弾をシャットアウトする」
回転数を上げる関本の拳、それを神崎は細かな体重移動とスウェーを交えながら派リングで叩き落し続ける。
「自分よりリーチのあるボクサーに対しては柔軟にスタイルを変化させて拳を防ぎ、リーチで勝る場合には一気にインファイトを仕掛けるその柔軟さ、そしてその切り替えの瞬間を嗅ぎ取る嗅覚こそが、神崎が天才って騒がれている所以さ」
数週間後に拳を交えるその対戦相手、その姿を、やはり真央は無言のまま注視し続ける。
――カァン――
第一ラウンド終了を告げるゴングが響く。
「そういえば、神崎選手はほとんど攻撃を仕掛けませんでしたね」
葵は小首をかしげ、疑問を口にする。
「素人目線から見ても、明らかに相手の関本選手の方が手数が多かったようにも見えましたが」
「けど、やっぱりクオリティーブローはほとんどなかった気がするよー」
奈緒はその疑問に答えるかのように口走った。
「まあ、関本選手の方が優勢に試合を進めていたのは確かだと思うけど、それほどポイント差はついていないと思うよー」
チッ、ようやく口を開いた真央の口から漏れたものは、舌打ちだった。
「抜いてやがるあの野郎。あからさまに、手ぇ抜いてやがる」
「たぶんだけどさ」
その言葉に同意を加えるように頷きながら、鄭は口を開く。
「ウェルター級って選手層そんなに厚くないし、弱小校だからスパーリングパートナーもいないんだろ。だから、試合勘自体を実際の試合の場で確かめながら戦ってるんじゃないの」
「ある意味では、すごい余裕ね」
岡添が言葉を加える。
「それだけ自分自身の実力に自身があるってことなのかしら」
「舐めてんだよ」
真央は頭をかきむしる。
「舐めてる、って言い方が正確かどうかわからないけどな」
苦笑する鄭は真央をなだめるように言った。
「ただ、これは否定しようのない事実だろ。神崎と関本の間に存在する実力差は、さ。リング上のあいつは、神崎はそれを正確に把握して、第一ラウンドでの相手の優勢も含めて完璧にシナリオを作り上げているんだ。これから始まる、自分自身の反撃を計算に入れつつ、な」




