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    5.7 (火) 15:55

「へっ、よく言うぜ。ただ汗くせーだけだろーが」

 ニィッ、自嘲気味の微笑みを浮かべる真央。

「んなことよりよ、さっさと補習終わらしちまおーぜ。俺だって関東大会控えて練習に集中してーからよ」


「え、ええ。そうだったわね」

 慌てて取り繕うように、コホン、小さな咳払いをする岡添。

「ええっと、じゃあ、この問1からなんだけど――」




「……あのよぉ……」

 再び岡添から顔を背け、体を硬直させる真央。

「……さっきから思ってたんだけどよ……ちょっと……近くねーか?」


「え?」

 ふと岡添が手元を見ると、自身の手は真央のそれと柔らかく重ねられている。

 体、特に胸元は真央の肩口にぴったりと密着し、そして顔は、お互いの時気が肌に感じられるほどに接近している。

「きゃっ! ご、ごめんなさい!」

 慌てて岡添は体を話し、右手で胸元を、そして左手でスカートを抑えるようにして俯いた。

 そして、真央を上目遣いで見上げるようにして

「……い、嫌だった、かしら……? け、けど、近寄らないと……教えづらい、から……」


「……別に、嫌、ってわけじゃねーんだけどよ……」

 口元に苦笑を浮かべながら、岡添を直視できずに真央の視線は宙を泳ぐ。

「……俺ぁ一応いま桃ちゃんたちと暮らしてはいるけどよ……今までこんな女と密着したことなかったからよ。変な感じだけど、緊張しちまうっつーかなんつーか……」


「私もよ」

 熱っぽい視線を真央に向けたまま、岡添は小さく短く口を開く。


「あぁん?」

 

「私もよ。こんなに体を密着させた男性なんて……あなたが初めて……なの……」


 ガラッ


「失礼します!」

 不意に空け放たれる、自習室の扉。

「マー坊君マー坊君! ビッグニュースビッグニュース!」

 聖エウセビオボクシング同好会のジャージーに身を包んだ、やや背は低いが、それを補って有り余るほどのグラマーな肢体が見て取れるかわいらしい少女、釘宮奈緒だ。


 するとその後ろから、身長は同程度だろうか、二人の少年が顔を出す。


「マー坊君! 実はね、僕たちのために、川西大付属から――」

 丈一郎の言葉に食い込むようにして


「よっ、秋元」

 人差し指と中指で、気障な様子で敬礼をして姿を見せたのは、西山大学付属高校ボクシング部フライ級代表鄭文太だ。

 鄭は初めて足を踏み入れた学校であるにもかかわらず飄々とした様子で教室に足を踏み入れた。

「俺だよ俺。お前補習なんだって? 大体頭悪いお前が、聖エウセビオなんて進学校に通うのがそもそも間違ってるんだよ……って、ん?」


「よ、よお鄭。わ、わざわざどうしたよ。そ、そ、そ、そうなんだよな、俺って頭わりーからよ、こうやって補習をよ……ぎゃははははは」

「あ、あら、あなたは……に、西山大学付属高校の、て、鄭君、だったかしら。そ、そうなの。今、秋元君は英語の補習中なの」

 真央と岡添は、慌てて身なりを整え、真剣に補習を受けている様子を巧みにアレンジしていた。


「……なるほどね……」

 しかし、鄭はそこにただならぬ気配を感じ取っていた。

「……たく、俺もやっぱり共学校に入学しときゃ良かったかな……」


 その後ろから、にやにやと底意地の悪い笑顔を見せる丈一郎。

「まあまあ鄭さん……マー坊君もあれはあれで辛い立場なんだよ、きっと」

  

「ん? なーにー? どうしたのー?」

 二人のボクサーたちという壁に阻まれ、自習室の中の雰囲気をつかみかねた奈緒は訊ねた。


「……んー、あの人間関係に、“年上のお姉さん”系が割りこんできた、って感じかな……どんどん複雑になてるぞ、これは……」

 もっともらしく腕を組み、右手で顎を抑える丈一郎。

「……まあ、今日のところは子の関係を楽しむ、ってわけにも行かないか……」

 ふうっ、小さくため息をついた丈一郎は、あえていつもの、へにゃっとした微笑みを作る。

「補習終わった? 実は、今日鄭さんが来てくれたんだけど――」

 

「これだよ、これ」

 鄭はバッグの中から、プラスチックのケースに包まれた円形の物体を取り出して見せる。

「山本さんが、これお前らに持っていけってさ」




「……んで、山本の野郎がお前に持たせたものって、ありゃいったい何だ?」

 聖エウセビオ学園の図書室の位置するメディア棟、その中の一室に視聴覚室が存在する。

「しっかしよぉ……」

 真央はきょろきょろと落ち着きなく首を振る。

 そこに丁重にすえつけられた最新鋭の映像機器とオーディオシステムは、荘厳なつくりの校舎の中に溶け込み、ヨーロッパのオペラハウスのような趣を醸し出していた。

「なんだか落ち着かねーな」


「まあまあ真央君」

 音もなく、ふかふかとした、かといって柔らか過ぎないクッションのついた椅子、真央の隣に位置を占めたのは葵だった。

 そして隣の真央の席の、がっしりとした木製の背もたれにもたれかかるようにして語りかける。

「せっかく視聴覚室を開放していただいたのですから。私も滅多にこの教室を使うこともないものですから、こういう雰囲気、少しドキドキしちゃいますね」


「お、おお。つーかすまねーな葵」

 少々居心地悪そうに、葵の位置から距離をとろうと身を離す真央。

「お前が鄭を受付で見つけて、わざわざ視聴覚室の予約までしてくれたんだろ? 恩に着るぜ、お前も大会前で忙しーっつーのにな」


「いえ、お役に立てて光栄です」

 頬を赤らめ、心の底からの笑顔を作った葵だった。


「……ったく、いい御身分だねえ……」

 頬をづえをつき、こぼす鄭は葵の隣に席を確保。

「……うちと全然違うよなあ、やっぱ。まあ、こうやって葵ちゃんの隣に座れれば、まるでデートみたいだから、わざわざ来たかいもあったってもんか」


「ったく、てめーは何かあるごとに女のことしかねーのかよ」

 呆れたような皮肉を真央は口にした。

「で、さっきからきーてんじゃねーか。一体何を山本はてめーに持たせたんだよ」


「準備できたよー」

 リモコンを手に、ぴょこぴょことはじけ飛ぶような雰囲気の奈緒も、真央の隣の席につく。

「えへへへへー、鄭さんの言う通り、何か映画館でデートしてるみたいだねー。したことないけど」


「……完全に見んな、僕たちのこと忘れているみたいだね……」

 かしましい四人の席の一つ上の段、丈一郎はため息をこぼす。

「……ですよね、先生?」


「……さあ、別に……」 

 こちらは一層不機嫌そうな表情の岡添教諭。

 先ほどとは打って変わった、クールで近寄りがたい不に気を身にまとっている。


 にやり、やや底意地の悪いいたずらな微笑みを丈一郎は浮かべる。

「あれー? 先生、なんだか不機嫌そうですね。やっぱり、お仕事忙しそうですから、こういうのって面倒くさかったりするんですか?」


「……まあ、これもボクシング同好会顧問としての務めですから」

 眼鏡の位置を直すそのしぐさは、その雰囲気をいっそう大人びて見せる。

「こういう場面にも、お付き合いするしかなさそうですね」


「そうですかー、なるほどね」

 そして、そのクールな年上の女性に対して、丈一郎はにやにやとその顔を覗き込む。

「さっき自習室の時と、全然雰囲気違いますねー。僕はてっきり、マー坊君と二人っきりになれなくなったから不機嫌にな譚じゃないかとばかり……」


 どきんっ


「な、な、な、な、何を言っているのかしら? べ、べ、べつに、秋元君と一緒にいたのは、そ、そう言うことじゃないんですから! あ、あ、あれは補習の……」

 慌てて取り繕うように岡添は眼鏡の位置を直すが、その手と言葉は疑う余地もなくふるえていた。


 にやり、その笑顔はさらに深くなる。

 完全に岡添のこころを、丈一郎はその手で転がすかのようにコントロール下に置いた。

「羨ましいなあ。マー坊君は大人の女性も虜にしちゃうほど、魅力的な男だってことですよね? ねっ、先生?」


「川西君!」

 岡添は顔を真っ赤にして立ち上がる。


 すると

「よぉ、どうしたよ、先生。なんかあったか?」

 のんきなトーンで真央は語りかける。


「何でもありません!」

 そっぽを向いてどなり声を上げた岡添は再び椅子に腰掛け、その美しく肉感的な足を組んだ。


「はははは……ちょっとやりすぎちゃったかな……」

 丈一郎はポリポリと頬をかいた。




「ここを押せばいいのかな?」

 ピッ、奈緒からリモコンを受け取った鄭は、赤い再生ボタンに指を押し付ける。

「これ、山本先輩の友達、その人拓洋大学の人なんだけどさ、その人に頼み込んで送ってもらった、関東大会出場者の県大会の映像なんだ。その中で、群馬県大会のやつ持ってきたんだ」


 ピィン


 先ほどの柔らかな雰囲気が、一気に張りつめたものに変化する。


「群馬県大会……ていうと……あの人の動画、ですか?」

 奈緒が首を傾げ、やや震わせた声を漏らす。


「ああ」

 鄭は小さくうなずく。

「秋元、お前と対決するあの男の動画さ」


「……あの男って……“あの男”ですね……」

 丈一郎のその柔らかかった表情は、すでに戦う男のそれとなる。

「……二年生にしてすでに、国体を除き高校ニ冠を達成。その国体も、弱小校故に選出されなかっただけで、実質高校三冠を達成してもおかしくないほどの実力者」


「ああ。ウェルター級において、この俺を差し置いて“天才”の名をすでにほしいままにしている、あいつさ」

 少々不服気に、しかしそれを認めざるを得ない忌々しそうな表情で鄭は言った。


「……もしかして、この間川西君のお持ちになった雑誌に載っていた……」

 心配そうに、御見つめた表情で葵も口を開く。


「葵ちゃんまで知っているとはね。妬けるよ」

 一瞬苦笑を見せたかと思うと、鄭はすぐにまたこれも戦う男の表情で言葉を繋ぐ。

「群馬県立上毛商業高校ボクシング部二年、神崎桐生、のさ」


「……ウェルター級、ということは……」

 ごくり、岡添ものどを鳴らす。

「……秋元君の、対戦相手、ということですね……」


 真央は一言も発することなく、氷のような視線で全面の巨大なスクリーンを見つめていた。

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