5.7 (火) 7:30
爽やかな陽光眩しい連休明けの朝、いつもと変わらぬ日常の始まり。
2年A組、真央や丈一郎らのクラスメートの女子たちが気怠い雰囲気の中にも、ティーンネイジの女の子らしいかしましさを振りまきながら学園への坂道を登校する。
「……ねえねえ、ゴールデンウィークどうだったー?……」
「……はぁ、あたし、ずっと塾の講習だったよ……」
「……あたしもー……でもあたし、特進クラス維持しないと親がうるさいし、早く卒業して大学生になりたいよ……」
堅牢な外壁の前を、足取りも軽く少女たちは過ぎ去り、守衛室の前の校門をくぐる。
桜の季節はとうに過ぎ去り、色づく緑の新緑は、来るべき夏の生命力を確かに感じさせてくれた。
少女たちがレンガ造りの小路をクラスルームの位置する校舎へむけて踏み出せば、いつもの見慣れた姿と聞きなれた声。
「おはようございます。おはようございます」
初夏を迎える爽やかな空気を、一層和らげてくれるその声、その姿。
青く艶やかなみずみずしいその髪は、初夏の日差しに美しい光沢を映えさせた。
「あ、礼家さーん! おはよう!」
一人の女性とが、クラス委員を務める礼家葵に声をかける。
「おはようございます」
目を細め、小首を傾げるようにして頭を下げる葵。
「今日もいいお天気ですね」
「おはよう、礼家さん」
「おはよう」
ほかの二人も葵に挨拶を返す。
――ザワ、ザワ、ザワ――
「あれ? なんかやたらと混雑していない?」
女子生徒たちと目の前には、多くの人だかり。
厳かな雰囲気を醸し出す、荘重なつくりの校舎の壁に大きな垂れ幕が。
「ああ、なんか部活の垂れ幕じゃない?……んーと……」
背の高いその生徒は、目を細めてその垂れ幕を凝視するが
「あたし目悪いから見えづらい……」
「これってまさか!?」
残る女子生徒が、明るい笑顔を作り両手を胸元で組む。
「きっとそうだよ!」
背の高い女子生徒が、その女子生徒の両肩を抱く。
「間違いないよね!?」
背の低い女子生徒は、その左腕にしがみつく。
そして三人は頷き、声をそろえて叫ぶ。
「「「マー坊君と川西君、関東大会出場決定したんだ!」」」
「ええ」
葵は、まるで自分の事のように明るく微笑み、そして答えた。
その脳裏には、一昨日の目にも鮮やかな真央のKOシーンが蘇る。
無人の野を行く孤高の天才、葵にはその真央の姿がそのように映った。
「マー坊君も丈一郎君も、本当に素晴らしい活躍でした」
「……ぜっ、ぜっ、ぜぇっ……」
聖エウセビオへ向かいごった返す生徒たちの一群をすり抜けるように、ウィンドウブレーカーに身を包んだ人物が。
「ふうっ」
180近い身長に、驚くべきことに、もうすでに伸び始めた刈り上げの坊主頭。
その視線は鋭く見るものに威圧感を与えるが、しかし涼やかで形の良い瞳がその奥に輝く。
葵が感じ取ったその表現を借りれば、まさしく無人の荒野を行くかのように、周囲の人込みなどまるで眼中にないかのように華麗なステップと拳を繰り出すその男。
――ザワ、ザワ、ザワ――
周囲の生徒たちは、あまりに軽やかな、美しい舞踊のようなその動きに、感嘆の声を漏らす。
タンタン、タタン、アスファルトを蹴る音は、遠い異国の地から伝わるドラムのように鳴る。
シュシュシュ、ヒュン、ヒュン、空を切る拳音は、最新鋭の戦闘機の飛行音のように響く。
高校ボクシング関東大会東京都A代表、我らが秋元真央の姿だ。
まるで、たった一人でダンスを踊っているかのように軽やかに、華麗にステップを踏みシャドウを繰りかす。
真央が校門の前で呼吸を整え、そしてシャドウを繰り返す。
そしてそこにやや遅れる形で
「……はあっ、はあっ、はあっ……」
真央や同年代の男子生徒と比較すればやや小柄にも感じられるが、その引き締まった肉体のしなやかさは、ウィンドウブレーカーの上からも見て取れる。
顔つきは少女のように柔らかだが、その仲に危ういバランスを保つかのように少年の顔もまた同居している。
周囲の女子生徒の、黄色い歓声が響く。
川西丈一郎、東京都大会優勝は逃したものの、公式戦初勝利とフライ級関東B代表を勝ち取った、その自身が体中に張り裂けんばかりに充満している。
「よう、だっらしねーな」
ニイッ、シャドウを軽々こなしながら、真央は余裕の表情で丈一郎に語りかける。
「昨日は久々に練習オフだったつーのによ、そんなにばててるようじゃ、話にならねーぜ、へへへ」
「……はあっ、はあっ、はあっ……ははは、な、なかなかマー坊君のようにはいかないよ……」
苦しさの中に無理やり笑顔を作り出すと、丈一郎はよたよたとシャドウボクシングを開始した。
「おう、シャドウもいいけどよ、そろそろ……」
シャドウを止め、真央は振り返ることなく親指で後ろに見える時計を指差す。
「……俺ぁお前ら見てーに優等生じゃねーからよ、遅刻とかして印象悪くしたくねーんだよ……」
真央の脳裏に岡添の顔がよぎる。
自分に対する警戒感を解いてくれたはいいが、その結果ダイレクトに伝わる“大人の女性”のもつ雰囲気に、胸騒ぎのような戸惑いを覚えていた。
チラリ、丈一郎は真央の指差す方向に目を移し、合点する。
「はあっ、はあっ、はあっ……そ、そうだね……」
すると二人は、まさしく無人の野を行くかのごとく、周囲に根をくれることもなく今来たばかりの道を引き返した。
「……ぎぎぎっ、くっ……」
打って変わって、苦しそうに歯を食いしばり学校へと続く坂道を登る真央。
「……いいか、げん、や、やせろ、っつーんだ、てめーは、よ……」
その背中には
「……ぶしゅう、しゅぅ、しゅぅ……」
負ぶさられているのにもかかわらず、息も絶え絶えに苦しい表情を見せる、やや太り気味の男。
その両手にはしっかりと使い込まれた、真央からプレゼントされたバンデージのみが、かろうじて彼がボクサーであるということを証明している。
「……す、す、すいません……お、お、お二人とも……試合が終わったばかりで……お疲れだというのに……」
「あははは、気にしないでよ、レッド君」
その背中を押す丈一郎が、励ますように声をかけた。
「君は大事な仲間輩なんだからさ。それに、体重、明らかに前よりも軽くなったと思うよ?」
「……お、お気楽なこと、言ってんじゃねー!」
やはり苦しげな声を上げてだなりつける真央。
「この坂道、お前を負ぶって登るのはな、どんな距離ランニングするよりきついっつーんだよ!」
「す、す、す……ません」
その男、瀬川隼人、西山大附属高校の生徒たちからは、親愛を込めて“ぶーちゃん”と呼ばれ、聖エウセビオ高校ボクシング同好会では、その敬愛する変身ヒーロー、“電撃バップ”のりーだのなにちなみ、“レッド”と呼ばれる男はその表情と顔色を暗転させた。
「こ、こ、これでも、以前よりはやせたつもりなんですが……」
「っはあっ!」
ドスン、倒れこむように、校内の広場に倒れこむ真央。
「っはあ、な、なんとか間に合いそうだな……」
「い、いつも、す、すいません……」
レンガ造りの小道の脇の、芝生に突っ伏すレッド。
「いやー、なんだかこれから授業が始まるのが本当に憂うつになるね」
なぜか、一番元気そうに輿に手を当てて余裕の表情を見せる丈一郎。
その様子に、真央は忌々しそうな視線を投げかける。
「……この野郎……テマーが一番らくらくしやがってよ……」
へにゃっ、その殺意のこもった視線を、丈一郎は柔らかい微笑で受けながす。
「はははっ、まあまあ、そんなに気色ばまなくても……って……」
丈一郎は、異変に気付く。
自分たちの回りにまとわりつく、今まで感じたことのないような視線を。
腰を上げ、小さく屈伸をおこなう真央は
「ったくよお、この借りはきっちりと返してもらう……って……ぁんだあ?」
同じく自分たちを囲む、くすぐったくなるような視線を感じ取る。
真央、そして丈一郎の視線とその視線が交錯する、その瞬間
黄色い歓声が爆発した。
「マー坊君! 丈一郎君! おめでとう!」
「すごいよすごいよすごいよ! 東京都優勝と準優勝でしょ?」
「そういえば、男子の部活でこういう実績出したのって初めてじゃない?」
「ねえねえねえ、大会オ綿ばかりなのに、こんなに朝から練習してるの?」
数え切れないほどの女子生徒に、真央と丈一郎は取り囲まれた。
「う、うおっ!? な、なんだよ一体!」
「い、いったいどうしたの? 僕たち、何かした?」
「もう、とぼけちゃってぇ」
一人の女子生徒が、真央の腕を取り抱きつくような仕草を見せる。
「と、とぼけるってどういうことだよ!?」
その腕を振り払い、真央が困惑の表情を見せると
「ほらほら、あれ見てよ」
また別の女子生徒が、その女子生徒と真央を刃先込むように体を密着させて
「あれ皆見たんだよ!? あーんもう、二人とも格好良すぎ!」
「あ、あぁんと……」
真央は、その見っ役から体をよじるように抜け出し、その垂れ幕の文字を読み上げる。
「祝 関東大会出場……東京都大会優勝、秋元真央君(ウェルター級) 東京都大会準優勝川西丈一郎君(フライ級)ボクシング同好会……って……」
「僕たちの、聖エウセビオボクシング同好会の垂れ幕だ!」
ぐっ、丈一郎は遼の拳を突き上げ、子どものような歓声を上げた。
「やったよ! 僕たちの活躍、ようやく認められたんだよ! マー坊君! レッド君!」
「や、や、やりましたね! ぶ、しゅひゅっ!?」
祝福の声をかけようとするレッドが、信じられないほどの圧力で女子生徒の大群に吹き飛ばされる。
「ねえねえねえ、川西君とマー坊君、二人とも関東大会出れるの?」
「あたし達、女子全員で二人のこと応援するからね?」
「うんうんうんうんうん、今度いつ試合あるの? ゼッタイ応援しに行くからね!?」
二人が認識しきれないほどの、雨霰の言葉が飛び交う。
女史に不慣れな真央も、女史の扱いはお手の物であるはずの丈一郎もその謎の気迫に押され、一言も発することができなかった。




