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    5.5 (日)13:00

「おら皆川! 何ビビッてやがんだ?」


 会場へ続く廊下、西山大学のジャージーに身を包む山本が声をはりあげる。


 山本はヘッドギアに包まれた顔を抑え、そして顔を近づけ語りかける。

「確かにあの野郎は……つええよ。だがな? お前だってこの名門西山大附属でみっちりトレーニング積んでここまで来たんだ。大丈夫だ。お前もつええ。自分を信じろ」


「そうだぜ皆川」

 試合後のクールダウンを終え、後輩たちのサポートに回る鄭も言葉をかける。

「リングの上じゃさ、結局は今までやってきたことの積み重ねだけがモノを言うんだ。あいつとお前の積み重ね、どっちが上だったかはっきりさせるだけなんだよ。俺は、お前が積み重ねてきたものはあいつに負けるもんじゃないと思ってるぜ?」


 山本と鄭、二人のがかけたのは、力強くも暖かい励まし。

 それに対し、ふう、西山大学附属高校ウェルター級代表皆川は大きく深呼吸。

「わ……わかりました。俺、ぜ、絶対勝ちます!」

 震える声で宣言し、パンッ! 胸元にグローブをたたきつけた。

 そしてトン、トトン、トン、トトン、小さくステップを踏み柔らかく上体を揺らす。

 グッ、グッ、そして屈伸を行い、全身の緊張を解きほぐす。

「な、なんか、やれる気がします! と、ところでなんすけど……」


 腕を組み、皆川の仕上がりを確認していた山本は

「なんだ?」

 と言葉を返す。


 皆川は懇願するような表情で訊ねる。

「あ、あの、具体的に……どういう狙いで戦ったらいいんでしょうか……アドバイスとか、してほしいんすけど……」


 山本と鄭、二人は表情を凍りつかせ

「「……」」

 無言で明後日の方向を向く。


「……やっぱないんすね……」

 またも弱弱しい表情で肩を落とす皆川。


「まあね、正直あの男に対して具体的な対策なんて採りづらいさ」

 ポンポン、皆川のその落胆した肩をやさしく叩く鄭。

「なんつーかさ、鶴園先生も言ってたけど、あいつのボクシングってなんとも捕らえ所がないんだよなあ」


 腕組みをし、眉間にしわを寄せる山本。

 無意識のうちに、そのがっしりとした下あごを撫でる。

「……あの野郎……」

 やや濃くなり始めた髯の下に再現されるあの衝撃。

 その硬い、痛い拳が、まさしく己の視野に捕らえきれないところから飛んでくる様。

 倒れたときの記憶はないが、唯一その痛みの記憶だけが山本には残されている。

 すると山本は、ばん! 皆川の両肩に手を置き、そして力強く声をかける。

「いいか? 鄭の言ったとおり、ボクシングで重要なのはどれだけ基礎を徹底的に叩き込めるか、だ! その点に関して、俺ら西山大附属の右に出る学校はねえ! あいつがどんな変則的なスタイルで仕掛けてこようが、お前はお前の……俺ら西山大附属のボクシングを信じろ! いいな?」


 その山本の熱いやり取りを、フッ、暖かい微笑で後押しする鄭。

「山本さんはさ、お前に期待してんだぜ? あのハッチャメチャな男のボクシングに、山本さんの教え込んだボクシングが通用するか、をさ」

 そして、パンッ、西山大伝統の“ケツタタキ”で気合を注入する。

「リングの上に、偶然の勝ちも負けも存在しないんだ。お前は自分の……西山大学附属のボクシングを信じて戦え。わかったな?」


「山本先輩……鄭先輩……」

 二人の全国区のボクサーの激励とアドバイス。

 こころをしおれさせかけていた皆川は

「うっす! 自分、絶対あの野郎をナックアウトします!」


 バシッ、今度は山本が“ケツタタキ”で気合を注入する。

「うっしゃ、その意気だ! 目指すは関東A代表とインターハイ出場だ!」


「俺は、強いっすよね!?」

 皆川の力強い問いかけに


「ああ。お前は強いさ」

 鄭はそういって皆川の頭をなでた。




“ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!”


「やっぱりすごい応援ですね……」

 聖エウセビオ側、青コーナー、会場を揺るがす川西大附属の大声援に体を震わせる葵。


 この関東大会予選も、残すところミドル級決勝を含めた二試合を残すのみ。

 会場内の暑さは、夏を目前にした気候によるものだけではないだろう。

 会場のボルテージは、この東京東アジアの体育館を、灼熱の陽光と湿り気に包まれたハバナの海岸へと変えていた。


 葵は小さなハンドタオルで顔の汗をぬぐう。

 会場に充満する、思春期の男子特有のむせ返るような汗のにおいにも完全に慣れてしまった。

 いやむしろ、その背景にある男たちの努力と投資、そして勝利と敗北の物語を思えば、むしろ好ましくも感じていた。

「けど、真央君ならばやってくれますよね」


“ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!”


 葵は同意を求め、隣に座る桃に目を移すと


「ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!」

 両手を叩き、真央の対戦相手皆川に声援を送る桃の姿。


「ちょっと桃さん!」

 葵は慌ててその両手を押しとどめる。

「なにやってるんですか!? 一緒に真央君を応援しましょうよ!」


「ふん! あんなバカ、ぶっ飛ばされちゃえばいいんだ!」

 ぎりぎりと唇をかみ締める桃。

 

「……まあまあ、桃さん。お気持ちは分かりますが……」

 苦笑いで桃をなだめる葵。


「葵や奈緒にあたしの気持ちなんて分からないんだよ!」

 桃は形容しがたい形相で葵を睨みつける。

 そして、ぐったりと肩を落とす。

「……なんであたしはこんなかわいげのない体型してるんだよ……」


「……それは単純に“隣の芝生は青く見える”ってことだと思うんですけど……」

 肩を落とす桃の姿は、同性の葵からしても惚れ惚れするほどに魅力的だった。


 グラマーでキュートな奈緒や、たおやかで清楚な葵に比べ、確かにかわいらしさ、少女らしさという点では見劣りがするのかもしれない。

 しかし、美に一つの完成形があるとすれば、間違いなくその一方の極のはしごに足をかけているのも桃だった。

 もはや少女と呼ばれるその段階を逸脱しはじめた美、おそらくは世界中の男性を魅了することもできるほどの、自立したものであった。


「……真央君、どういう方がタイプなんでしょう……私のような女は、それほどお気に召さないのでしょうか……」

 桃の美しさに、少々のコンプレックスを感じながら葵は呟く。


“ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!”


「なんか言った?」


「いえいえ! 何もいっていません!」

 葵は顔を赤らめ、ぷるぷると顔と手を振る。

「さ、それよりも、桃さんもそんなに依怙地にならないで。一緒に真央君を応援――」


「ゼッタイに嫌だ!」

 子どものように宣言すると、再び大声援に自身の声と手拍子を乗せる。

「ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!」


 いかんともしがたい桃の決意に、風、ため息をつき、小さく声援を送る。

「……あーきもとー……あーきもとー……あーきもとー……」

 ふと、葵の視線の先に、この会場で初めてみる類のジャージーが目に写る。

「……タクヨウダイ……拓洋大学……? 拓洋大学拳闘部?」


 そのジャージーをまとった男たち、おそらくは大学ボクシング部の学生だろうか、重々しく三脚を吸え、人言ももらすことなく真剣な表情でモニターを見つめる。


 偵察なのか、それともスカウティングのためだろうか、葵は一瞬怪訝な表情を見せたが、すぐにまた

「……あーきもとー……あーきもとー……あーきもとー……」

 愛しきボクサーへの声援を再開した。


「ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!」


 仁王の形相で西山大附属の皆川の名を連呼する桃の表情を確かめながら。


 


「……あのマウンテンゴリラ……」

 青あざの残る頬に張りを感じながら、相手陣営のボクサーに声援を送る桃を睨みつける。

「くそう、昨日の試合ですらまともにパンチもらってねえってのによ、何で同じ学校の女にこんな青あざつけられなくちゃならねえんだよ」

 すでに赤コーナーに入城した真央は、忌々しそうな表情でコーナーポストに寄りかかっていた。


「まあまあ、でも良かったじゃん。鼻血だけでもあの後止まって」

 レフェリーに見咎められないように、体の影で真央の頬にスチールを当てる丈一郎。

「でも本当に大丈夫? マラソン大会並みの距離を猛ダッシュして、それからあの釘宮さんのパンチ、それから試合でしょ? いくらマー坊君でも、きついんじゃない?」


「あぁん?」

 そう言うと、真央は鼻でその憂いを吹き飛ばす。

「くだらねーこといってんじゃねー。俺をお前らみてーな凡人とおんなじ物差しで計るんじゃねーよ」


「さすがマー坊君!」

 コーナーサイドから見上げる形で、奈緒が真央に語りかける。

「わたしは全然心配してないもん。 マー坊君は、ゼッタイに負けないんだって」


“ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!”


「ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!」


“ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!”


「ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!」


「あちゃー、もうマー坊君完全にヒールだねー」

 両眉を上げ、頬を掻く奈緒。


「まあ、身内ですら相手選手に声援送ってるからな」

 忌々しい表情で呟く真央。


「……え、えっと……そうだねー、えへへへへへへへ」

 拳を振り上げ、熱心な杉浦にコールを煽る姉の姿、もはや奈緒は笑ってごまかすほかなかった。


「まあまあ、二人とも」

 二人をとりなす丈一郎は、不思議とその声援の中においても落ち着いていた。

 そう、丈一郎も確信している。

「まあ、僕だって全然心配していないからさ。ね? マー坊君」


“ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!”


“青コーナー、西山大学付属高等学校、皆川選手の入場です”


“ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!”


「ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!」

 

 ドッ、いっそうヒートアップする声援。


「同情するぜ、今日の皆川にはよ」


「「え?」」


 ニヤリ、例の不敵な微笑を浮かべる真央。

「今日の俺は悪魔全開、絶好調モードだぜ」




 通路をすすむ皆川を、悪魔の微笑が喰らいつく。

「……山本さん……鄭さん……俺……か……勝てますよね……」

 かろうじて自身を保つ皆川は、セコンドとしてその後につく二人の先輩に訊ねる。


「「……」」


「……俺、来年からミドル級で頑張ります……」




 今この男の体をくまなく捜せば、“666”、獣の数字が見つかるかもしれない。

「……さっさときやがれ、皆川……俺ぁお前をぶちのめすためだけに今日来たんだからよ……」


“ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!”


「ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!」


 大声援を歯牙にもかけず、獲物を求め舌なめずりするようなこの男の凍りつくような笑みに、奈緒と丈一郎、二人のセコンドは引きつって笑顔を浮かべた。

「……あのさー……これって、あたし達どう見たって悪役のほうだよねー……」

「……うん……漫画とか映画だったら、さ、マー坊君を皆川君がナックアウトして、感動の勝利って所だけど……」

 二人はこの後、確実に待ち受けるであろう結果に、皆川の無事を祈らざるを得なかった。


“ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!”


「ミッナガワッ! ミッナガワッ! ミッナガワッ!」




――トゥルルルルル トゥルルルルル――


 ガチャリ


「はい、岡添です……ここは学校です、理事長とお呼びなさい……そうですか、了解しました」

 いつぞやのがっしりとした机につき、表情一つ変えずに岡添理事長は答えた。

「……そうですね、川西君様の関東予選準優勝の、秋元君の関東予選優勝の垂れ幕でしたね……連休までには出来上がるでしょう……そんなことはあなたの心配する問題ではありません……ええ……それでは……」


 ガチャリ


 最後まで無表情で通そうとした理事長、しかしその口角にはかすかな笑みが、そして手元には小さく握られる拳の陰が確認できた。

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