5.5 (日)10:25
「やるじゃん。お前結構強かったよ、川西」
鄭はぐい。と丈一郎を強く抱き寄せると、その耳元に小さくささやく。
汗に濡れたタンクトップの胸元同士がくっつきあうが、試合後の爽快さが一切の不快感を掻き消す。
「次は、インターハイ予選な」
そう言うと丈一郎を右手で抱き寄せたまま、くしゃくしゃとその頭を掻きまわすかのように乱暴になでつけた。
丈一郎にその表情は確認できない。
しかし、胸元に響く自分と鄭の破裂しそうな鼓動、そして耳元にかかる熱く、浅く回数の多いと息は、自分のみならず鄭もまた激しく肉体を消耗させていたことを物語っている。
そしてそのと息が途切れた瞬間、丈一郎は鄭がほほ笑んでいるのであろうと直感した。
すると
「わっ」
丈一郎の頭が後方に放り投げられるかのように、乱雑に自コーナーの方へと押しやられた。
そして振り返るとそこには、小さく右拳を掲げ時コーナーへと戻る鄭の姿。
「鄭さん……」
丈一郎はその姿に、本物のボクサーの持つ強さ、そして雄々しさ、大きさを感じ取った。
今まで目指すべき高みは、真央だった。
しかしここにおいて、自分の同階級の“倒すべき存在”“ライバルといえる存在”を初めて意識することができた。
体力、技術、そしてボクサーとしての精神力、あらゆる点で自分はまだ鄭には及ばない。
それが動かしようのない事実として自分自身を押しつぶそうとした。
しかし、それは悪い感覚ではない。
自分はまだまだ成長できる、鄭という等身大の目指すべき目標が存在するのだ。
丈一郎の拳は、無意識のうちに強く握りしめられる。
くんっ、丈一郎は勢い良く、深々と頭を下げた。
「ありがとうございましたっ!」
その言葉に丈一郎は王者に対する敬意と、そしてリベンジへの闘志を乗せた。
頭を挙げ、鄭の後姿を見つめる。
すると、鄭がこちらを小さく振り返る姿が見える。
その表情はよく確認できなかったが、その口元は微笑んでいるようにも見えた。
その笑顔に、丈一郎の小さな笑顔で返すと、二人のセコンドの待つコーナーへと戻っていった。
「悪りぃな丈一郎。俺の判断ミスだ」
聖エウセビオの控室、うつむくようにして真央は言った。
「俺がもう少し、ていねいに指示してりゃあな」
奈緒は氷の入ったビニール袋で、ガラガラと丈一郎の首を冷やし続けながら、無言で真央の言葉に耳を傾けている。
「あははは、気にしないでよマー坊君。ていうか、マー坊君が謝る必要なんてないんだから」
パイプイスに腰掛け、バンデージを外しながら言葉を返す丈一郎。
その言葉には、一切の虚飾が含まれていない、心の底からの真実が込められている。
負けたのは誰のせいでもない、自分自身のあらゆる点での未熟さによるものだ。
ゴングが鳴れば、リングに存在するのはレフェリーと、二人向かい合うボクサーのみ。
全ては自分自身の腕で解決しなければならないことなのだから。
「鄭さんは、本当に強かった。だけど、僕ももっともっと頑張って、強くなれる、今はそう思えるんだ。だから今は、うん、サポートと応援、ありがとう、ってところかな」
「……丈一郎……」
真央は真っ直ぐに丈一郎の瞳を見つめる。
その視線に、丈一郎はいつものへにゃっとした微笑みで答える。
「ね? 僕は大丈夫だからさ、次は負けないよ。もっともっと頑張って、今度は鄭さん倒せるように頑張るからさ」
「言ってくれんじゃん、川西」
声の方向を振り向くと、そこには
「あっ! て、鄭さん!」
慌てて丈一郎は立ち上がり、そして再び深々と頭を下げる。
「よお、川西君。惜しかったな。けど鄭さん相手にあれだけやれるなんて、やっぱ川西君はすげえよ」
何とも言えない表情をして、慰めるように語り掛けるのは、西山大付属バンタム級代表の杉浦だ。
「いーよそのままで、案だけ俺のパンチ食らい続けたんだからさ」
そう言うとパイプイスを引き寄せ、そしてどすん、丈一郎に向かい合う様に腰掛ける。
「まあ、“次は俺を倒す!”なんてさ、言ってくれんじゃん」
「……えと……あははは、まあ、生意気でしたね……」
ばつが悪そうに、苦笑して頭をかく丈一郎。
「ま、けど、生意気な奴は嫌いじゃないよ」
そういうと、鄭はにやりと笑った。
「けどな、今のお前じゃまだまだ俺には勝てないよ。もう一回り二回り三回り……まっ、さっきも言ったけど、インターハイ予選でまた会おうぜ」
丈一郎は、今度は虚飾のない、こころからの微笑みを浮かべる。
「はいっ!」
そして右手を差し出した。
にやり、微笑みながら鄭は丈一郎の右手に答えた。
「川西君! 大丈夫ですか!?」
心配そうな顔つきで、控室に飛び込んでくる少女の姿。
「あ……えっと君は……」
がたっ、勢いよく立ち上がり振り返る鄭。
そして一瞬頭をひねったかと思うと
「そうだそうだ! 葵ちゃんだろ!? 聖エウセビオの!」
「え、ええ……あの、その……はい……」
思いもよらぬ、先ほどまで所一郎と拳を向かい合わせていた、いわば“敵校のボクサー”の登場に戸惑いながら答える葵。
しかし、ここぞとばかりにたたみかけるように話しかける鄭。
「俺の試合、俺の雄姿、見ててくれた? まあきっと川西のこと応援してたんだろうけどさ、それでもリング上での俺の姿は――」
ガンッ!
「いい加減にしろ、てめえは!」
言葉を詰まらせる葵に代わり、真央がその右拳で、痛みを通じてその意を伝えた。
「試合当日だってのに、音あんと見れば見境なくがっつきやがって、この野郎」
頭を抑えながら、しぶしぶ言葉を抑える鄭。
「……ってーなーもう。俺の方が先輩だっつってんじゃん。共学校の、しかもこんな綺麗な女に囲まれて暮らしてるお前らには、男子校に通う俺らの気持ちなんてわかんないんだよなぁ……」
「やあ、川西君。惜しかったな」
やや遅れて控室に姿を現した桃は、淡々とした表情で言葉を伝えた。
「あ! 君もいたの――」
会い継いで姿を見せる美少女の姿に、再び鄭はいきり立つ様に反応したが
「……わかった、わかったって」
真央の姿に身の危険を感じ、再びどっかとパイプイスに座り込んだ。
「釘宮さん……ごめんね、期待に応えられなくて」
苦笑いしながら丈一郎は頭を掻いた。
「しょうがないよ。こういっちゃ悪いけど、あらゆる点で鄭さんと川西大付属の方が上だったって感じかな」
髪をかきあげながら桃は言った。
「経験も技術も。ボクサーだけじゃない、スタッフの経験も技術も含めて、だね」
「な……」
葵はぎゅっと桃の腕をつかみ、そして言う。
「何をおっしゃるんですか? 試合が終わったばかりなのに! そう言うことはもっと……」
「確かにそうだね。だけど、誰も言わないみたいだからあたしが言わせてもらうよ」
葵の言葉にも構わず、桃は続ける。
「第一ラウンド終わった段階で、はっきりと川西君には疲労の色が見えていたはずなのに、けどそれをしっかりとボクサーに認識させ切れなかった時点で、セコンドの経験不足も大きな敗因の一つなんじゃないのかな」
その言葉に、真央は一瞬眉間にしわを寄せ、何かを爆発させたいかのように気色ばんだが
「……桃ちゃんに言われたら、なんも言えねえよ」
そういってぼりぼりと頭を掻いた。
「そうだね、あたしたちの連携がうまくいかなかったのも、やっぱり大きな敗因だよねー」
そう言って奈緒も俯いた。
「……あのさ、秋元」
初めて目の当たりにした真央の表情に、鄭はおずおずと口を開く。
「俺もさっきは調子に乗ったこと言ってたけどさ、今回の勝利、やっぱりセコンドについていてくれた山本さんの力も大きいんだ」
その場にいる全員が、鄭に注目する。
鄭は続けて滔々と、その言葉を紡いでいく。
「山本さんさ、最近マジで一生懸命俺たちの練習指導してくれててさ。山本さんが高三の時もセコンドはしてくれてたんだけど、大学生になったらすごい真剣に指示もしてくれるようになったんだ」
そして、真央の顔を真っ直ぐに見つめて言う。
「なんでかな秋元、お前に負けて以降、山本さん今まで以上にボクシングの事研究するようになったみたいだぜ。大学の対抗戦とか、自分の事もほおっておいて、俺たちの練習と試合を面倒見てくれてんだ。今回の試合、俺と川西の力の差もあったと思うけど、山本さんの指示が結果的にはうまく働いたんだと思うぜ」
「……鄭……」
「……鄭さん……」
真央と奈緒は、静かにその言葉に耳を傾けていた。
にやっ、二人のその表情を確認した後に、鄭は微笑んだ。
「さてっ、と」
鄭はゆっくりと椅子から立ち上がる。
「もうそろそろ俺たち行くよ。俺は関東A代表になったけど、まだまだ試合控えてる奴いるしな」
そういうと、ぽん、隣に控えていた杉浦の肩を叩く。
「山本さん、ってほどにはいかないかもだけど、俺も一応先輩だしな。こいつらの事サポートしてやんなきゃな」
そういって杉浦に語り掛ける。
「行くよ、杉浦」
「おっす!」
杉浦は直立不動の姿勢をとり、腹の底からの返答で先輩に答える。
そして丈一郎を振り返り
「じゃ、またあとでな、川西君。俺もバンタムでA代表取れるように頑張るよ」
「うん」
丈一郎がガッツポーズを作り言葉を返した。
「頑張ってね、杉浦君」
鄭と杉浦、二人の後姿を振り返り、ぼりぼりと頭をかきむしる真央。
驚いたことに、その頭髪はもうすでにそのボリュームを回復しつつあるように見える。
「あーんと、俺さ、ちっと外すわ」
「あ、う、うん」
「うん。でも、自分の試合があることは忘れちゃだめだよー」
「次は真央君の試合ですね。頑張ってください」
丈一郎と奈緒、そして葵の言葉に答えることもせず、無言で真央は控室を後にする。
同じく無言のまま、桃はその後姿を見つめていた。




