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    5.5 (日)10:23

 レフェリーは、じっ、と丈一郎の瞳を凝視する。

 その目に光はあるか、闘志は消え去ってはいないか、自分自身が破壊されていくことに対する恐怖を感じさせないか。

 

 そのレフェリーの視線を、丈一郎は何とか受け止める。

 しかし、丈一郎自身も理解している。

 自分自身の瞳から、闘志のほのおが消えかかっていることを。

 そして、左頬に残る衝撃が、じわじわと自身のこころを侵食し、“恐怖”という染みを染め付けつつあることを。

 “はい! 大丈夫です!”先ほどの言葉がむなしく響く。

 いやむしろ、その言葉を口にした数刻前の自分自身が恨めしくもある。

 うつろな視線の奥に、王者の風格をまとう鄭の姿。

 数秒前まで作り上げていた自己像が完全に崩れ去り、等身大の、いや等身大以下の大きさの自己像に取って代わられた今、その存在のあまりの大きさ、その位置するところのあまりの遠さに丈一郎は愕然とする。

 なぜ立ち上がってしまったのだろう、もう嫌だ、むしろこのまま倒れこんでしまいたい――

 

「「ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ!」」


 会場を揺らす西山大学附属の応援の声の中に、かすかな、ほんのわずかな声が混じっていることに気がつく。

 姿は確認することはできない。

 しかし、もはやその必要もないだろう。

 征服に身を包んだ二人の少女が必死に自分に声援を送ってくれているはずだ。

 その確信が、丈一郎の精神をかろうじてリング上に踏みとどまらせた。


「おっ?」

 闘志の消えかけたその目に、かろうじて残り火を感じ取ったのは、誰あろう鄭だった。

 相手に思い切り手を出させておき、そして一撃で肉体と精神をへし折る、これにより多くのボクサーをアットに沈めてきた。

 しかしこの二年生の精神は、かろうじて自分の力に屈することを拒否したのだ。

「ふーん」

 

 顔を動かし、自コーナーの奥に視線を向ける。

 そこにあったのは、二年前に自身をボクシングへと引きずり込んだきっかけを作ったかわいらしい少女と、そして半年前、自分にボクサーの基礎技術を叩き込んだ、とびきりの個性を持った少年の姿。


 両手を組み、祈るような仕草を見せる少女。

 そうだ、この少女が応援している限り、精神を後退させるなどあってはならない。

 

 腕を組み、そして血が出そうなほどに指を食い込ませる少年。

 そうだ誓ったじゃないか。

 あの少年と、秋元真央と同じ景色を見るのだと。

 そしてあの少年に、一歩でもいいから近づくのだと。

 頭によぎるのは、リングの上で山本をナックアウトする真央の姿、河川敷の橋の下で林田たちを叩きのめす姿。

 この少年と一緒ならば何も恐れるものはなかったのだ。


「やるじゃん」

 そう言うと鄭はコーナーポストから背を起こし、体を解きほぐすようにステップを踏み始めた。


 そしてレフェリーは確信する。

 この少年の目から、闘志の炎は消えてはいない、この少年の精神は、確実にこのリングの上に食い下がっていると。


「「「テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! 」」」


「「ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ!」」


 会場を揺るがす西山大学附属高校の応援の中に、かすかに混じる自分自身への声援。

 体はもはや消耗しきってはいるが、心だけは折れちゃいない。

 今の丈一郎にとって、それだけを確認することができれば十分だ。


「ボックス!」

 大きなジェスチャーとともに、試合再開が宣告された。


 ドッ!

 

 会場の空気が炸裂する。       



「頑張って……丈一郎君……」

 祈るような仕草の奈緒は、小さく呟いた。


 一方の真央は無言のままだった。

 しかしそのこころの中は嵐のようだった。

 心を折ることなく絶ち続けた丈一郎の姿、それはボクサーとして、男としてのあるべき姿だった。

 だが、それはそれだけ丈一郎を鄭の猛攻にさらし続けることとなる。

 その闘志はともかく、もはや丈一郎の疲労蓄積はピークを超えている。

 精神は当然に肉体を凌駕するべきものだ。

 その精神が肉体を欺き続け、ダメージを蓄積し続けることになれば――

「……丈一郎……」

 真央は無意識のうちに、右手で強くタオルを握りしめていた。

 


 バン! バ、バン!


 左のボディーフックの三連打。

 先ほどとは一転、弱った獲物に確実に止めを指すハンターのように、鄭は攻め立てる。


「ふがっ!」

 丈一郎の体がくの字に曲がる。

「ふうっ!」

 ブンッ、苦し紛れの右フックを放つ。


 しかし、まだその時ではない、その判断に従い鄭はそれをかわしつつ距離をとる。 

 そして右手の重さに体が抗いきれず、体を泳がせたその隙を見計らい


 バン! バ、バン!


 再びの左のボディー三連打。


 ボンッ!


 畳み掛けるように強打の左をボディーに叩き込む。

 

 そして


 バシッ! ゴキィッ!


「かっ!」

 その回転を利用し右ボディーを叩き込んだ後、今度は下がりきった顔面に左フックが襲い掛かった。   


 その瞬間、真央は大きく右腕を振り上げ、タオルを投げ入れようとしたが


「ストーップ! ストップだ!」

 レフェリーが両者の間に分け入り、そして丈一郎の体を抱えて大きく手を振った。


「はっ、はっ、はっ」

 そのジェスチャーに、かろうじて鄭はその左手を押しとどめることができた。

「ふっ、ふう」

 自らの精神を落ち着かせるようにじっくりと呼吸を整え、セコンドの待つ自コーナーへと戻っていった。




「……試合……どうなっちゃったの?」

 フラフラとコーナーへと戻った丈一郎は、力なく訊ねる。


「ああ。レフェリーが“ストップ”かけたんだ」

 鄭の強打に顔を腫らせた丈一郎の頭部から、真央はゆっくりとヘッドギアをはずす。

 そして、丈一郎の目を見ることもせずに

「すまねえ。俺の判断ミスだ」

 そしてテーピングを手早くはがすとグローブをはずし、丈一郎の両の拳をあらわにした。


「でも、頑張ったね、丈一郎君」

 柔らかく、励ます楊の微笑で奈緒は言った。

「相手はあの鄭さんだもん。ナックダウン免れただけでもすごいことだよ」


 その二人の顔を見ると、丈一郎の口元に自然と笑顔がこぼれる。

「ありがとう、二人とも。応援してくれて。やっぱり鄭さんは強かったよ」

 へにゃっ、その笑顔はいつもの丈一郎のそれだった。


「両者、中央へ!」

 ジャッジの採点を確認した後、レフェリーは両者をリング中央へと招集した。


 その言葉を聞くと、丈一郎は振り返りながら言った。

「じゃ、とりあえずいってくるよ」

 

「ああ」

「うん」

 真央と丈一郎、二人のセコンドはかろうじてその短い承認の言葉のみを口にした。


 リング中央において、レフェリーは鄭と丈一郎の腕を取る。

 もはや結果は揺るぎのないものであろう。

 しかし、この“儀式”こそが、闘争を神への捧げものへと昇華させるのだ。


“ただ今の試合の結果――”

 場内アナウンスが響き渡る。

 それにあわせ、スッ、レフェリーの手が一方の腕を持ち上げる。


“――赤コーナー、西山大学附属高等学校、鄭君の勝利です”


 パチパチパチ、大きな拍手が会場に響いた。


「残念でしたね」

 口惜しそうに葵は呟いた。

「川西君、あれほど一生懸命練習していましたのに。それだけ鄭さんが強かったということでしょうか」

 そういうと葵は桃を振り返り

「桃さんも、そう思いませんか?」

 と語りかけた。


 しかし


「桃さん……?」


 葵の問いかけに対し、桃は無言のまま親指の爪を噛む。

 その視線の先には、丈一郎ではない、真央の姿があった。

 桃は一部始終を見ていた。

 真剣な表情で、引きちぎれんばかりにタオルを掴み、投入を逡巡する真央の姿を。 


「桃さん!」


 ビクッ!

 

「あっ……ああ、葵、どうしたの?」

 やや荒げられた葵の声に、ようやく我に帰る桃。


「どうしたの……って」

 葵はあきれたようにため息をつくと、気を取り直して話を続けた。

「だから、昨日の試合であれほどの強さを見せた川西君が敗北したのです。それほどに鄭さんは強いのですね、そういったのですけれど」


「あ、ああ。そうだね。うん、間違いなく鄭さんは強いよ」

 慌てたようなな表情で、取り繕うように桃は言った。

 しかし、鄭と丈一郎の熱戦以上に桃のこころに引っかかったのは、リングサイドの真央だった。  

 鄭の猛攻に身をさらし続ける丈一郎に対し、セコンドとしてタオル投入を逡巡する真央。

 それは、セコンドとしてはある意味当然のことなのかもしれない。

 まだ相手の拳に耐え続けることができるのか、それとも力尽きタオル投入こそがボクサーを救う唯一の手段になるのか、そのタイミングを見極めるという大変難しい決断を要する。

 しかし、桃にはそれだけであるとは思えなかった。

 セコンドとしての責任以上に、何とも言葉にしづらい、思いつめたような何かをその表情から感じ取っていた。

 当然、表情のみからはそれを読み取れない。

 しかし、桃が以前より感じていたこの少年の、桃の知らない少年の人生と何か関わり合いがあるのではないか、そのように感じ取れた。

 


「ありがとうございました、鄭さん」

 リング上では、丈一郎が晴れやかな顔をして鄭に右手を差し出す。

「完敗です。本当に鄭さんは、って、わっ?」


 鄭はその右手を掴んだかと思うと、ぐいと丈一郎を自身のもとへと引き寄せる。

 そして右腕で丈一郎を抱きかかえるようにして胸を合わせると

「やるじゃん。お前結構強かったよ、川西」

 その耳元に小さくささやいた。

「次は、インターハイ予選な」


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