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    5.5 (日)10:22

 先に仕掛けたのは丈一郎だった。


 ブンッ


「! っ」

 丈一郎の右のオーバハンドのストレートを、左のグローブでガードする鄭。


 クンッ


 引き続き放たれる丈一郎の左アッパーを、鄭は右のパーで叩き落とす。


 ブンッ


 再び上下に打ち分けるかのような右のオーバーハンドが体を貫く。

 

 鄭はそれを再び左のガードで防ぐ。

 シュ、シュン、丈一郎の右拳の引き戻しを狙い、左のジャブを連続で放つ。

 ポ、ポン、それほどのダメージをを与えることはないが、しかし丈一郎の蚊を置背けさせ、その隙をつき右脇へと体をかいくぐると、さらに距離を取りジャブを放つ。


「ムはぁっ!」

 リング外に響くような大きな呼吸を一つつくと、再び丈一郎は左右の回転をあげ、その両拳で鄭の体を揺さぶり続ける。




「「「テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! 」」」

 勇壮な声援が、小さな古い体育館を揺さぶる。


 その声援の中、葵は小さくつぶやく。

「……私にはわかりません……」

 リング上で展開される丈一郎の“雄姿”に手に汗を握りながらも、頭の片隅に小さなとげのように存在感を増す桃の言葉。

「……私の目には、どう見ても川西君と鄭さんが互角の、いえ、むしろ、川西君が優勢に試合を展開しているようにしか思えないのですが……」


「よく見てみなよ」

 眉間にしわを寄せ、右手親指の爪を噛む桃。

「バンバン、ボンボン、気持ちいい音がこの体育館中に響き渡るくらい鄭さんを叩きまくってるけどさ、川西君のパンチ、一体どこをとらえてる?」



「惜しい。やはり“青い”」

 口惜しそうにつぶやく鶴園。


「“青い”とは、経験不足、ということなのですよね?」

 鶴園のその様子に、岡添はその意をさらに問いただす。

「この川西君の様子の、どこにそれを見出すことができる、と?」



「……南無三……」

 この男には珍しい、何かを祈るような様子でうめき声をあげる真央。

「……とにかく……」

 チラリ、自身の横に座る奈緒が手にしたストップウォッチの液晶画面に目を移す。

「……もう一分ちょい……もう一分ちょいでいいんだ……もってくれよ……」


 自身の手もとに向かう鋭い視線に気づいた

「ねえマー坊君。さっきの言葉、“溺れかかって居ることに気が付かない遭難者”って、いったいどういうこと?」

 そして、体をフル回転させて鄭の体を左右に揺さぶる丈一郎の姿に目をやる。

「わたしには、どうしたってとても溺れかかっているようには見えないんだけど」



「川西君のパンチ、あれはただ鄭さんのグローブの上を、ガードの上を叩いているだけなんだ」

 ふうぅ、長く重いため息とともに桃は言った。

「本当にポイントをとらえたパンチなら、あんな鈍くて重い音なんて立たないよ」

 ヒュン、桃は左拳で宙を切る。

「叩くべき場所をたたいていない。はっきり言ってポイントから何から鄭さんが完全にリードしているはずだよ。けど、問題なのはそこだけじゃない」



「やはり、全国の大舞台で成果を上げた、いやはや我が生徒ながら鄭の成長には驚かされます」

 鶴園は顎に下で手のひらを組んで両肘をつくと、しみじみとした様子で語った。

「鄭は、ほぼ完全に川西君のパンチを、その距離から威力、スピードまでを見切っています」


「え……と、やはり私にはわかりません」

 とは言いつつも、岡添は胸のざわつきを隠すことができない。

「私には川西君が優勢に試合を進めているようにしか――」


「そうさせておるのですよ」

 岡添の言葉を遮るように、鶴園は叩きつけるような言葉を選んだ。

「今の川西君は、言ってみれば力いっぱいサンドバックを殴りつけ、テンションを上げて心地よくなっているようなものなのです。彼がいったいどこを殴りつけているのか、ご覧になられるとよいでしょう」


 その言葉に従いリング上に目を移した岡添は

「! ……拳一つとして鄭君の顔に触れてすらいない……」

 愕然として言葉を漏らした。


 こくん、鶴園は首肯した。

「あれだけの大きな音を立て全国レベルの選手を揺さぶるというのは、大変心地よいことでしょう。しかし、それがいけない。もはや彼は完全に自分自身を測り間違えている。まるで自分自身が、鄭の何倍も大きく、そして強いと思い込んでいる。ゆがんだ自己像をその中に作り上げてしまっていることでしょう」



「ヤマネコはライオンにはなれねー」

 どん、自分自身にいら立ちをぶつけるように桃の上に鉄槌を下ろした。

「あいつの武器は一撃のパンチじゃねえんだ。一足飛びで距離を詰める出足の早さなんだ。それなのに――」


「「「テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! 」」」

 

「うるせぇっ! 黙りやがれ!」

 その矛先は、鄭を後押しする西山大付属の大声援にもぶつけられる。


「マ、マー坊君! 落ち着いて!」

 その両肩を掴み、諫める奈緒。

「今はそんなことしている状況じゃないよ! とにかく……」

 しかし、奈緒自身にも何ができるのか、果たして何一つ頭の中に浮かんでこない。

「……とにかく今は落ち着こうよ。ね?」


 チッ、品のない舌打ちをして頭をかきむしる真央。

「……あいつはもう完全に俺のさっき言ったこと、いや、それだけじゃねー、今まで練習したこと、昨日のリングでしっかり再現できた練習内容がどっか行ってやがる。今のあいつは勝ちにはやって単調な左右の拳の回転しか繰り出しやがらねえ。足はどうした? あのスピーディーな前後の出足、完全に止めて鄭の野郎と打ち合ってやがる」


「……そういうことか……」

 奈緒にもようやく真央の言わんとしていたことが理解できた。

「……とにかく、わたしたちにできることは待つことしかないよ。ゴングが鳴り次第、フォローをしなきゃ」


 その言葉に耳を傾けながら、いら立ちを隠そうともせずに真央は頭を掻きむしった。



 相変わらず勢いに任せて拳をふるい続ける丈一郎。

 しかし彼は気づいてはいなかった。

 いつの間にか体は重く、回転は鈍り、そして肝心の拳から重さが奪い去られていることを。

 自らの背中に宿命的に襲い掛かる疲労、勝ちにはやるそのこころはその存在にすら気づかせないほどであった。


「ふゥっあっ!」

 右手のオーバーハンドを繰り出す。


 ピシッ

 

 ようやくその拳が鄭の左ほおをとらえた。


 その事実に心が爆発し、さらに左のアッパーを叩きこむ丈一郎。


 しかし、疲労のみではない、勝ちにはやるこころはその拳に残った手ごたえの、異常な軽さに気づく冷静さすら奪い去っていた。


 冷静にその拳の距離、威力を見切って居た鄭は、やすやすとその右拳をスリップしていた。

 そしてそれまで“律儀に”受け止めていた丈一郎の左アッパー、それにパーを差し出すことをやめた。

 

 フンッ


 ありったけの力を込め、天に突き刺さるように全身で左アッパーを中空に投げ出す丈一郎。

 その身は、完全に物理的に丈一郎の統制から離れた。

 その身は、力ない紙風船のように頼りなく宙を泳いだ。


 その瞬間、丈一郎は見た。

 冷静に絵の追い求めるハンターのように、大きく見開かれた目、そして好機を得て口角をあげる鄭の微笑みを。



「やべえって!」

 思わず声を上げる真央の目の前で



 バシィン!


 鄭は丈一郎の拳をかいくぐり、渾身の右フックをその左ほおに叩き込んだ。



「きゃっ!」 

 思わず顔をそむける葵。


 無言で顔をゆがめる桃。


 

 あっけにとられ、言葉を失う岡添。



 そして口元を抑える奈緒。


 それぞれの反応は異なるが、目の前で展開される光景はただ一つ、渾身の右フックに意識を飛ばし、かろうじてロープにもたれかかりダウンを拒否する丈一郎の姿だった。


 

「やられた」

 バンッ!

 荒々しく拳で手のひらをたたき、真央は吐き捨てた。 



「ストーップ!」

 レフェリーが両者の間に割りこみ試合を止める。

 スタンディングダウンの判断だ。

「ニュートラルコーナーへ!」


 鄭は涼やかな表情で、悠々とコーナーへ足を運ぶ。

 そして、まるで玉座に出も腰掛けるかのように悠然とコーナーポストへともたれかかった。


「ワーン! トゥーッ! スリーッ! フォ――」


 どこか遠くから、山彦のようにこだまするカウント。

 丈一郎は今いったい自分が何をやっているのか、なぜこのようなことになっているのかを把握することができていない。

 しかし、そのレフェリーのカウントに、かろうじてボクサーの意地で自信を取り戻した。

 そして両のグローブを上げようとする。

 

 重い。

 先ほどまでは真綿のように軽かったグローブが、今度は鉛のように重い。

 丈一郎はようやく気が付いた。

 体が軽い、インターバルで口走ったその言葉、自分自身が自分自身に欺かれていたのだ。

 真央の言うように、疲労今倍していた自分自身を、自分自身が完全に無視していたのだ。

 自身の忠告を無視されたことに怒った肉体が、今度は鉛となって丈一郎の精神のくびきとなる。

 

「やれるかね?」

 

 そのレフェリーの言葉に、ようやくグローブを構えなおす丈一郎。

「はい! 大丈夫です!」

 力強いはずのその言葉、しかし自分自身意も情けないほどに弱弱しく感じられた。

 ふと顔を上げると、その視線の先には、王者の風格を身にまとうかのような鄭の姿。

 その時、丈一郎はようやく気が付いた。

 等身大の自身の姿を。

 そして、先ほどまで小さく見えていたはずの鄭の姿の大きさを。

 その立場の逆転が丈一郎の思考を混乱させ、急速に精神から闘争本能を奪い去っていった。 

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