5.5 (日)10:20
――カァン――
ゴングの音、そしてレフェリーの体がリング中央で絡まりあうほつれた糸のようなボクサーを解き放つ。
大きく型を、そして胸を上下させながら、ヘッドギアの中から少々腫れた顔をのぞかせ、丈一郎はコーナーを振り返る。
「すごいよ丈一郎君! あの鄭さん相手にこれだけやれるなんて!」
すばやく椅子を差し出しながら、興奮した様子で声を上げる。
そして真央はその椅子を受け取ると
「第一ラウンドとしては上出来だ。ただ空振りが多すぎる。もっとしっかり狙ってけ。そのままじゃ3ラウンドまでもたねーぞ」
そこに丈一郎を座らせ、丈一郎の口から、マウスピースを取り出し、丹念にその額の汗を叩くようにふき取る。
「っか……んんん、んっ」
噛み締めていたマウスピースから開放された口に水を含み、丈一郎はさび付いた鉄のような味のする水をじょうごに吐き捨てる。
「はあっ、はあっ、んんっ、うん。だ、大丈夫。だ、だけど、い、言っちゃなんだけど、や、やっぱり一回戦の鹿屋選手とはものが違うよ。だって――」
その視線の先に見えた存在。
小さく型を上下させながらも、ほぼ余裕の表情で、いささかの微笑を口元に作りながら学生コーチの山本の支持を受けるボクサーの姿。
自信に突き刺さる視線に気づき、丈一郎と視線を交錯させる、端正な顔の作りのその男。
「「「テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! 」」」
“昨日の友は今日の敵”、昨日あれほど勇気付けてくれた西山大学付属の学生たちの声援が、今度は相手選手、鄭の名を呼び、圧倒的なプレシャーで丈一郎に襲いかかる。
「――こ、高校二年生で、に、2冠を達成している、て、鄭さんだもん」
交錯する視線を、一寸たりともそらすことなく鄭を見据える丈一郎。
「ほ、本当に強いよ。だ、だけど僕だって――うぷっ!?」
「よけいなことしゃべらんでいーよ」
ぐっ、真央は片手で丈一郎の口をふさいだ。
そしてタオルで丈一郎の顔を拭きながら
「よけいなことくっちゃべって無駄な体力使うよりか、耳の穴かっぽじって俺の言うこと聞いとけ。手数はお前の方が出してる。だけど、その分無駄うち、空振りも増えてる。子のペースじゃ3ラウンド持たねーからな。しっかりねらって、コンパクトにパンチ出せ」
「なかなかに複雑な心境なのですよ」
「えっ?」
役員席、昨日のように隣り合って席に着く鶴園と岡添の姿。
「「「テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! 」」」
西山大付属の大声援の響く中、手に汗を握り、リングを注視する岡添の隣から響いた言葉に、不意を突かれたように問いかける。
「鶴園先生、いったい今なんと……」
「ほっほっほっ」
鶴園はその言葉に目を細め、まるで自分自身の娘を見つめるような表情で言った。
「この一戦は、私の教え子と、そして私の後輩の戦いなのです。鄭と川西君の戦いはね。私としては両者いずれかが勝ったとしても、それなりに心苦しいものなのですよ」
「確かにそうですね」
こちらもやや困ったような微笑みを返す岡添。
「私も西山大付属の生徒さんには世話になっていますし。そういった意味では、二人には精いっぱい、悔いのないように力を出し切ってほしいですね」
「そうですな。しかし――」
そういうと、急に鶴園は真剣な顔になり、その顔をリング上へと向けた。
「――しかし、青い。青すぎるのですよ」
「青い……ですか?」
鶴園のつぶやきに、けげんな表情で訊ねる岡添。
「青い……とは、いったいどういう……」
「おお、これは申し訳ない」
一転して再びの柔らかい微笑みに戻る鶴園。
「いやいや、私独自の言い回しでしてな。わかりづらいのも無理はない」
そういうと、再び真剣な表情に戻る。
「私が言いたかったのは、彼の、川西君のボクシングの事です。“ボクシングが青い”ということです」
「ボクシングが……ボクシングが青い、ですか?」
その解説を受けても、まだ釈然としない岡添は続けて言葉を連ねる。
「申し訳ありませんが……わたくしにはおっしゃっていることがよく……」
「経験が少なすぎるのです」
鶴園は短く、そして端的にその意を伝えた。
「技術の上でも、まだまだ鄭と川西君との間には差があります。しかしそれは、学年の違いを考慮に入れれば当然のことです。しかし、それ以上に、技術の差以上に大きな差が二人の間には存在します。そう意味で、私は“ボクシングが青い”と申し上げたのです」
「「「テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! 」」」
鳴り響く大声援の後押しを受け、不敵にほほ笑む鄭。
「心配いりませんよ、山本先輩」
丈一郎の視線を受け止めながらも、それでも余裕の表情で余裕いっぱいの言葉を口にする鄭。
「こんなの、いつも通りのことじゃないですか」
「バカ野郎、今更こんなところでお前のことなんか心配しちゃいねえんだよ」
真剣な表情の山本。
「お前は常勝西山大学付属ボクシング部のエースなんだ。学校別対抗も、お前の優勝をある程度計算に入れて狙ってるんだからな。とにかく油断だけはするんじゃねえぞ」
「大丈夫ですよ、山本先輩」
慢心の一かけらもない、冷静な現状分析の上での言葉を選ぶ鄭。
「技術の上でも俺の方に数段分があります。それに、ほら、いつも鶴園先生が言ってるじゃないですか」
「ああ、そうだな」
ぐむっ、鄭の口にマウスピースを押し込めながら山本はうなずく。
「鶴園先生の言うところの“ボクシングが青い”ってやつだ」
そして丈一郎のセコンドにつく真央に視線をやると
「川西だけじゃねえ。セコンドとしてのあの野郎、秋元の野郎もな」
「「「テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! 」」」
「いい感じですね! 川西君の調子!」
昨日は一緒に丈一郎を応援していた西山大付属の大応援団、今日はそこに背を向けながら葵は精一杯声援を送っていた。
そして一分間のインターバル、葵の目には第一ラウンドは丈一郎が優勢であるかのように映っていた。
「全国優勝経験者の鄭さん相手に優勢に進められるなんて! もしかしたら川西君、このまま勝てるかもしれませんね!」
しかし、興奮する葵をしり目に、桃は冷静に一言つぶやく。
「どうかな」
「どうかな……って、何か問題でもあるのですか?」
興奮に冷水を浴びせられたかのようにして葵は問いただす。
「優勢……とまではいかないにしても、全国クラスの選手を相手にほぼ互角に戦ていらっしゃるじゃないですか。私の印象に過ぎないのかも知れませんが、パンチの数も川西君の方が多かったように思いますけど」
「有効打の違いだよ」
桃は両者をを指さした。
「川西君は、葵のいう通り単純な手数でいえば鄭さんより出しているよ。けど、その割には、鄭さんと川西君の様子が違いすぎないか?」
その言葉を受け、葵は冷静に両者の様子を比較する。
「あ……た、確かに。川西君は結構顔が赤く腫れていますけど、鄭さんはいつも通り、きれいな顔をされていますね」
こくん、桃はうなづいた。
「そうだね。まあ、当然そんなことはリング上の川西君も、リングサイドのバカ二人も気づいているんだろうけどね。だけど、もしさっきのラウンドを自分の中で正当に評価できずに、浮足立つようなことがあったりしたら」
葵の顔は一変してかき曇る。
「そのすきを狙われる……と?」
その問いかけにも、桃は口を閉じ応えようとはしなかった。
「「「テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! テーイッ! 」」」
「いいか? 手数もいいが、とにかく的確に、だ。わかったな?」
小さな子どもに言い含めるように、真央は丹念に丈一郎に言い聞かせた。
「う、うん。だ、大丈夫だよ! い、いますっごい体軽いから!」
興奮と疲労で震えるような声で丈一郎は言った。
「体、軽い?」
しかし、真央はそこに何か小さな違和感を感じ取る。
「おい、俺の言ったこと聞いてたか? 明らかにお前疲労してんだろうが! とにかく的確に――」
“セコンドアウト”
チッ、真央は小さく舌打ちをして、丈一郎の口にマウスピースを押し込み、そのアナウンスに従いリングを後にする。
「とにかく的確に、だ! いいか、相手は高校2冠の選手だ! そのことだけは忘れんじゃねーぞ!」
振り返りざま、許されたわずかな時間を最後まで使い丈一郎にアドバイスを送った。
――カァン――
「第二ラウンドです」
「どうしたの、マー坊君。そんなに深刻な表情しちゃって」
真央とともにセコンド席につく奈緒は真央の異変に気付く。
「さっきのラウンドもいい感じだったし、このままのペースでいけば――」
「なあ、奈緒ちゃん」
奈緒の言うところの深刻な表情のまま、真央は奈緒に答える。
「あいつは、つうか俺らはとんでもねーミスを犯しちまってるのかもしれねー」
きょとん、とした表情で奈緒は問いただす。
「どういうこと?」
「あいつ気づいてねーよ」
歯噛みするように、忌々しそうに真央は答えた。
「あいつ、あれだけ空振りしてヘロヘロになってるくせに、“体が軽い”なんてぬかしやがった。あいつ、今のあいつは自分が見えてねー」
その言葉に、奈緒の表情は蒼白となる。
「で、でも大丈夫だよね! マー坊君もほら、空振りするなってアドバイスしていたし!」
「だといいんだがな」
ぎりっ、ひび割れんばかりに歯を食いしばる真央。
「今のあいつは、海でおぼれてんのにそれを自覚できていない遭難者みてーなもんだ。あの鄭が相手だってのに、自分のイメージを馬鹿みたいに膨らまして、自分自身を完全に見失ってやがる」
そして、食い込んだ爪が血を流さんばかりに拳を握りしめる真央。
「とにかくもう俺たちにできることはねー。なんとかこのラウンド、持ってくれれば――」




