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    3.8 (土)20:30

「ほんとにごめん!!」

 リビングで桃は奈緒の頭を力ずくで折り曲げ、自分自身も深々と頭を下げた。

 

「いや、もういーって」

 こめかみに保冷剤を当てながら真央はリビングのソファーに寝ころんだ。

 これほどの衝撃を受けたのは思えば何年ぶりだろうか、天井を眺めながらぼんやりと考えた。

「勘違いだってわかってくれりゃあそれでいーって」

 

「ごめんね真央君。あたしいっつもそそっかしくて」

 しゅん、とうなだれる奈緒。

「ちゃんと説明しようとしたんだけれど」

 

「まあ、事故とはいえ実際に見ちゃったことは間違いねーからな」

 ニヤリ、口元に浮かぶ不適な笑み。

「桃さんの膝蹴りで、全部終わりにしようぜ」

 

「そうだよ! 真央君があたしのパンツ見たのは間違いないんだよ?」

 その言葉を聞いて、がぜん強気になる奈緒だったが 


「こら奈緒!」

 桃は奈緒を怒鳴りつけた。

「はあ、もう。お母さんといい奈緒といい、それにもう一人でっかいのも増えたし、なんであたしがいつもこんなに苦労させられるんだよ……」

 ここしばらく続いた、母親や奈緒とのやり取りをため息交じりに思い出した桃だった。


「でっかいのって?」

 きょとんとした表情で訊ねる真央だったが 


「君のことだよ!」

 桃は真央を指差して再び怒鳴りつけた。

「で、一体なんでこんなことになったのか、詳しく話してもらおうじゃないか」

 腕組みをした桃は、奈緒に対して納得のいく説明を求めた。


「あ、そうそう。真央君にお願いがあるんだった!」

 不意に何かを思い出したように、ポンッ、と手を叩く奈緒。

「その願いするときに、あの不慮の事故が……」

 

「そうそう、それそれその話の途中だったんだよな」

 ガバッ、と起き上がる真央。

「それであの不慮の事故が……」


「……」


「……」


「「……」」


「こら! 二人して顔を赤くするな!!」

 仲良く赤面する両者に今日何度目かの怒声をぶつける。

「ったく、もう……」

 人差し指で目じりを抑え、自分自身を落ち着けようとする桃だった。




 ソファーに腰掛ける奈緒と桃。

 真央は相変わらずこめかみの激痛と戦いながらソファーに寝ころぶ。


「で、そのお願いの内容なんだけどね」

 奈緒は話の続きを口にする。


「何でもいってくれよ」

 こめかみから保冷剤を離し、居住まいを正して両者に相対する真央。

「ここまで世話になっておきながら、恩返しひとつしないほど不義理じゃねーからな、こう見えて」


 奈緒はちらり、上目遣いで真央を見上げる。

「ほんとに?」


「ああ」

 真央は静かに、しかし大きく頷く。

「できることなんでもするからよ」


 その言葉に嘘はない。

 自分をしばらくこの家に滞在させてくれるきっかけを与えてくれたのは、ほかならぬこの少女なのだ。


 そして今度は、桃をちらりと見上げた。

「怒らない?」

 恐る恐る、という風に奈緒は訊ねる。


「なんであたしが怒るんだよ。あたしには関係ないんだろ?」

 桃の顔に怪訝な表情が浮かぶ。


「関係ある、っていえばあるし、ないって言えば無いんだけど……」

 話すべきか話さざるべきか、あの元気な奈緒の声は、いつしか尻すぼみに小さくなっていく。


「とにかく言ってくれよ」

 真央は奈緒に促す。

 

「うん……」

 奈緒はいつものようにクッションを抱きしめながらもじもじと体をよじる。

 その声は、先ほどよりもいっそう小さく、聞き取りづらいものになった。

「あのね……して欲しいの」


「奈緒、それじゃ聞こえないよ」

 桃は苛立ちの声をあげる。

「もっとはっきり口に出しなよ」


「恥ずかしがらんでいいからさ」

 奈緒の緊張を察し、柔らかな笑顔で言葉を促す真央。

「何だって言ってくれよ」

 

「……うん」

 そういうと桃はクッションから手をはなした。

 そして大きく深呼吸をしたかと思うと、意を決したように、はっきりとしたトーンで口を開いた。

「あのね、さっきも話したと思うけど、わたしボクシング同好会のマネージャーやってるのね」


「ああ。それは聞いたけど」

 と相づちを打つ真央。


「それでね、そのお願いっていうのはね、あのね……」

 またしばらく躊躇した後、思い切って叫んだ。

「……臨時で同好会のコーチをして欲しいの! 二週間!」


「同好会のコーチ!?」

 思いもよらぬ言葉だった。

「ボクシングって、高校ボクシング? 要するに、アマチュアボクシングの?」


「うん……」

 その表情は言ってしまったことを後悔するかのようにも見えた。

「だめ?」

 奈緒は真央を潤んだ眼で見上げた。


「いや、だめじゃねーんだけど……」

 真央はガリガリと頭をかいた。


 当然だ。

 そもそも所属ジムや住居、そしてアルバイト先を探すためにこの釘宮家に居候になったのだ。

 もし二週間もの間同好会のコーチに費やすとすれば、大幅な時間のロスと計画の見直しに迫られることだろう。

 しかも、問題はそれだけではない。


「なあ、奈緒ちゃん、俺アマチュアのリングに立ったことないし、ルールもよくわかんねーんだけど。俺以外の人はいないのか?」


 ボクシングにおいて、プロボクシングの世界とオリンピックボクシング、いわゆるアマチュアの世界は、その質から言っても全くの別競技であるといってよい。

 真央はプロボクサーになるためのトレーニングを積んできたため、アマチュアボクシングのルール等に関しては、むしろほとんど知らないといってよかった。


「まだ正式な部活じゃないし。それに、そんなつてもないし……」

 奈緒は伏し目がちに俯く。

 そして哀願するような目で真央を見つめ

「それとも、真央君はプロ志望の人だから、やっぱりアマチュアボクシングなんて指導したくない?」


「そういうわけじゃねーんだけどさ……」


 プロボクシングとアマチュアボクシングの間には、技術の質以上に大きな問題がある。

 両者の交流が、少しづつゆるくなっているとはいえ、まだまだ公然のものとなっているとはいいがたい。

 真央自身は、アマチュアを見下している意識は全くない。

 むしろ、少ないラウンドでのスピーディーな攻防、高度な技術体系を維持するためのエキップメントや細かなルールなど、ある意味ではプロ以上に高度な技術を持った選手がいるのも知っている。

 事実、モハメド・アリをはじめとする多くの伝説的なボクサーは、オリンピックボクシング出身者なのだ。


 だからこそ真央は躊躇した。

 自分自身が自薦するならいざ知らず、その高度な技術を他人に教えるだけの力量があるとは思えなかった。


「ちょっと待って奈緒」

 桃が口を挟む。

「コーチをするったって、部外者が学校の中に立ち入るなんてできるわけないだろ。そこはどうクリアするのさ」

 二人の通っている学校は、元女子校の私立学校だ。

 知り合いであるとはいえ、ほぼ赤の他人の真央をそうやすやすと学校に入れてくれるとは、到底思えない。


「外部コーチって形で申請すればいいって聞いたの」

 桃の問いかけに答える奈緒。

「もちろん身元のしっかりした人ならば、って条件だけど」


「身元のしっかりした人って言ったって、真央君は広島の高校生でしょ? 身元を保証するったって……」

 そう語りながら、少しづつ奈緒の言わんとするところが桃にも見えてきた。 

「奈緒、もしかしてあんた……」


「だから、桃ちゃんに“怒らない?”って聞いたんでしょ?」

 桃の目を見上げるように

「桃ちゃんにね、真央君をいとこってことにして、身元保証人になって欲しいんだ」


「奈緒、あんたさすがにそれは……」

 桃は呆れたように言った。


「だめなの?」

 奈緒の目が潤む。


「だめって言うか、そういう問題じゃないし……」

 桃が親指の爪を噛んだ。

「だいたいさ、二週間って言ったけど、二週間後に何かあるの?」


「うん。実はね、この地域のボクシング部が集まって、合同練習会があるの」

 と奈緒は答えた。 


「合同練習会?」

 真央が聞き返した。


「うん。とはいっても、ようやく試合出場が許可されたばかりの一年生が参加する、スパーリング大会みたいなものなんだけどね」

 ボクシングは、相手の頭部をグローブをつけて殴り合うという大変危険なスポーツだ。

 故に、体力や技術において未熟なものをリングに上げることは絶対に認められない。

 熟達したボクサーにおいても、リング上の事故、すなわちリング禍というものは避けられない。

 アマチュアの、ヘッドギアをしてすらなお、だ。

 その技量が身についたとされる、最低限の期間が一年間なのだ。

 

「読めたぜ」

 真央は頭を掻き毟った。

「ミット打ちもできなければ、スパーリングパートナーもいない、そこで俺の登場、ってわけか」


「お願い真央君」

 そのうるんだ瞳で真央を見つめる奈緒。

「会員一人しかいないし、その人基礎練習だけはやりこんでるから、二週間だけでも集中して取り組めばそんなに苦労はしないと思うの。勝てなくてもいいから、周りの人に笑われないくらいの形にもっていきたいの」

 そういうと奈緒は立ち上がり深々と頭を下げた。

「本当に一生懸命やってるの。だから、お願いします!」


「あー……」

 真央は頭をかきむしりながらその言葉を聞いていたが

「今日、奈緒ちゃんに頭を下げてもらったのは、何度目だろーな」


「あ、その、ごめんなさい……」

 申し訳なさそうにまた頭を下げる奈緒に対し

 

 ニィッ

「なんであやまんだよ」

 真央は口元をゆるめた。

「頭を下げるのは、むしろ俺のほうだよ。ぜひやらせてくれ」


「ほんと!?」

 奈緒の顔がぱあっと明るくなった。


 この子のためなら、男は何だってやってあげたくなる、そんないい笑顔だ。

 真央の顔もほころんだ。

「人に教えたことねーから、どっちかっつーと合同練習みたいになると思うけど、できる限りのことはやるよ」


「ちょっと待って。てことは……」

 恐る恐る訊ねる桃。 


「うん! 外部コーチとして登録するの! 決まりだね!」

 きらきらした笑顔で桃に話しかける。

「そのために住所とか必要だけど、ね、桃ちゃんいいでしょ? 真央君の住所、私たちの家で登録してもいよね?」


「ええ?」

 嘘をつくことは、桃にとっての流儀ではない。

 正義感の強い彼女にとっては、当然の事だ。

「……まったく……」

 しかし、目の前には例の小動物のような頼み顔。

「もう、しょうがないなあ……」

 しぶしぶながらも受け入れざるを得なかった。


 奈緒は飛び上がって喜んだ。

「やったー!」桃ちゃん大好き!」

 またも奈緒は桃に抱き付き、その頬にキスをしようとした。


「やめなって! 気持ち悪いから!!」

 桃はその唇を両手で防いだ。

 

「ぎゃはははは、決まりだな」

 その光景を真央は笑いながら眺めていた。

 そして桃に向かって言った。

「ごめんな、俺がいることで感じ悪くなったみたいで」


 すると桃、くるりと振り返り

「別に」


「でもよ、早いとこジムとバイト見つけてでてくから、きちんとコーチ期間が終わるまで待っててくれよ」

 この男がめったに見せることのない、柔らかい笑顔で言った。


「別にそんなことは気にしていないから」

 そしてぷい、と顔を背けた。

「そ、それより、親戚同士の振りするんだろ? あたしにも“さん”なんて使わなくていい。怪しまれるでしょ」


「さっすが桃ちゃん」

 奈緒は言った。

「じゃあいとこ同士に見られるように、もっとみんな親しくなろうよ! ね?」


「確かに、よそよそしくてもおかしいよな」

 真央も同意した。


「ねえ、真央君、広島の学校でなんて呼ばれてた?」

 奈緒が尋ねた。


「呼ばれてた? あだ名ってことか?」

 と返す真央。


「うん!」

 にこにこ、元気いっぱいに奈緒は言った。


「まあ、あるにはあったけど……」

 急に口ごもる真央。


「なになにー?」

 無邪気な顔が真央を見上げる。


「……坊……」

 ぼそぼそと言葉を発する真央。


「ねえ、君。それじゃあさっきの奈緒とかわんないだろ。もっとはっきり言ったらどうなんだ?」

 桃もせかす。


「笑うなよ?」

 そのままソファーに座り込み、うなだれて呟く。




「マー坊だ」




「「マー坊?」」

 姉妹の声がそろってこだました。


「ヤン坊」

 と桃。


「マー坊」

 と奈緒。


「そう」

 と真央。

「天気予報、の」




 ぷっ




 二人は盛大にふきだした。


「あっはははははははは」

 腹を抱えて笑う桃。


「えへへへへへへへへー」

 口元に手を当てて笑う奈緒。


「てめえら、笑うんじゃねえ!」

 そして顔を真っ赤にして怒鳴る真央。


「ごめんごめん、あはははは」

 謝罪の言葉とはうらはらに、桃の笑いは止まらない。

「でも、あははは、何でそんなにかわいい名前なのさ? あははははは」


「だって俺、真央だろ?真央だからマー坊、って呼ばれてたんだよ」

 顔を真っ赤にして真央が言った。


「でも、えへへへ、何で、えへへへ、嫌ならやめさせればいいじゃない」

 と素朴な疑問を口にする奈緒だったが


「“まお”って呼ばれると女みたいだから、“マー坊”って呼ばせとけば絶対勘違いされねーだろ!? だからだよ!!」

 子どものような言葉しか返すことができなかった。


「あはははは、そっかそっか。以外とかわいい理由なんだねえ」

 桃は手を叩いて笑った。


 しかし

「えへへへへ、その代わり、桃ちゃんのことマー坊君も“桃ちゃん”って呼んでいいからね」

 と奈緒は言った。


「ちょっとまて! 何であたしまで!」

 あわててそれを制する桃だったが 


 にやり、真央の口元がゆがんだ。

 「もーもちゃーん、もーもちゃーん、どっこでーすか? かわいいかわいいももちゃんはどこですかー?」

 からかうような口調で節をつける真央。


 その言葉に、フルフルと体を震わせる桃。

「あのねえ! マー坊なんて呼ばれてるやつにあたしの名前とやかく言われたくは無いんだよ!」


「あんだと? 人のあだ名笑ったのはそっちだろーが!?」

 売り言葉に買い言葉、真央の言葉も荒くなった。


「えへへへへ」

 その様子を見て奈緒がまたも笑った。

「これでようやく二人も仲良くなれたねー」


「「余計なことはいわんでいい!」」

 奈緒の言葉通り、二人の呼吸はぴたりと合った。


「えへへへへへー」

 しかし、奈緒はうれしそうに微笑み続けた。

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