5.4 (土)17:50
「……はあ、なんだかさ……もう何も言えないって感じだよ……」
驚き、敬意、羨望、そして自身の無力さへの落胆が入り混じったため息とともに丈一郎はこぼした。
「僕はあれだけ粘って粘ってようやく一生できたって言うのにさ、あんなにも簡単に、たった一発のストレートで試合を決めちゃうなんてさ、ホントもう、なんだか自分が情けなくなるよ……」
関東高等学校体育大会ボクシング競技東京都予選会一日目の試合がすべて終了した。
場内アナウンスがそれを告げると、奈緒、丈一郎、レッド、そして真央は控室の荷物をまとめ、高田高校の第二体育館を後にした。
「まあまあ、丈一郎君」
苦笑いしつつ、丈一郎の両肩を抱きながら名草絵の言葉をかける奈緒。
「ほら、わたしたちだってマー坊君が勝つのは間違いないって予想はしてたんだからさー、そこは素直に喜ぼうよ、ねっ?」
やや長くなった夕暮れの日が、明るく微笑む奈緒の顔を一層輝かせる。
最近はやや大人びた表情を見せるようにもなったが、屈託なく笑うその表情には、まだまだ幼さが優ることを実感させた。
「そ、そ、そうっすよ! マー坊先輩は大天才なんすから!」
鼻息荒く声をつづけるのはレッド。
「じ、じ、自分も役員補助の合間でしか見れなかったですけど……」
「じゃーなー、レッドくーん」
「ぶーちゃん、あしたもよろしくなー」
レッドの話に割りこむかのように、その後ろから声がかけられる。
その姿を見れば、今日一日大会の雑務に従事した西山大学付属の生徒たちだった。
「あ、ああ! はいっす! さよならっす!」
振り返りながらその声に答えるレッド。
その様子に、片眉を吊り上げながらほほ笑む真央。
「なんだあ? お前また新しいあだ名ついたんか?」
「は、はいっす! じ、自分こんな感じなんで、レッドっとあだ名だけじゃなくて、いつのまにか“ぶーちゃん”ってよぶひとも出てきました」
照れ笑いを浮かべながら、頭をかくレッド。
「け、けど、悪い気はしないっす。な、な、なんだか、新しいお友達が、学校外にできるのって初めてなんで、むしろ嬉しいっす」
「ぎゃはははは、よかったじゃねーか」
ぐしゃぐしゃレッドその頭を真央はかきむしる。
「それにお前はよくわかってんぜ。この俺がどれだけ大天才かってことをな」
そして同じく丈一郎の頭を乱暴になでつけ
「ま、俺のような大天才とお前みてーな努力の凡人を比較したってしょーがねーよ」
慰めなのか自慢なのかよくわからない言葉を投げかけた。
「俺のこと気にするよりかよ、お前は明日、あの鄭の野郎とグローブ合わせんだろーが。そっちの心配しとけよ」
急にトーンを変え、やや真剣な表情で声をかけた。
「俺には遠く及ばねーがな、あの野郎はあの野郎でなかなかのもんを持ってるぜ。だてにインターハイ選手じゃねーってこった。油断したら、それこそ全部持ってかれちまうぜ? 公式戦2勝目から関東大会A代表から何からよ」
「う、うん」
眉間にしわを寄せる丈一郎。
拳が固く握りしめられ、その緊張、そして意気込みがひしひしと伝わる。
「もし……もしだけどこれで鄭さんにかてたら、僕もインターハイに出場して、優勝できる可能性があるかもだってことだよね? ……勝てないかもだけど……とにかく玉砕覚悟で頑張るよ」
「ぎゃははは、相変わらず大げさなんだよ、おめーはよ」
再び明るく笑った真央は、丈一郎の方に腕をもたれかからせた。
「確かにそれくらいの心積もりで言った方がいいのかもしれねーがな、お前は緊張すっとがっちがちになって空回りしちまうからな。まあ、リラックスして行けや」
「ねー、マー坊君」
陽に映えあかねさす顔には、小さな笑顔。
いつもの十字路を過ぎ、二人きりになった真央と丈一郎は連れ立って歩を進める。
「マー坊君はプロ志望だけど、オリンピックの金メダリストも目標なんだよね?」
「おお? ん、まあな」
ポケットに手を突っ込み、頭をかきながらぶっきらぼうに真央は答える。
「エリートボクサーなんてのは少々むずがゆい気もするけどよ、それがフリオ・ハグラーと戦うための最短ルートってんなら、まあ、悪くはねーのかもな」
そして、ニイッ、あのいつもの不適な笑いもまた夕日に包まれた。
とくん、夕日に映えるその笑顔に、奈緒の鼓動は高鳴った。
数時間前にはともにセコンドとして同じ時を過ごし、そして自身の目の前で目もくらむようなノックアウトシーンを演出したこの少年の姿。
マネージャーとして抑えようと普段はこころに決めてきたその気持ちが、再び坂道を転がり落ちていくのを、奈緒自身も押しとどめることができなくなる。
「そうだね」
その言葉に再び微笑むと、奈緒は少しずつ、真央との間の距離をつめていく。
「きっとできるよ、ううん、絶対、だったね。マー坊君なら、絶対」
それからしばらくの間、真央と奈緒、二人は取り留めのない話をしながら歩を進めた。
無意識のうちに、奈緒は真央の体に自身の体を近づけていく。
気がつけば、二人はまるで恋人同士のように体を密着させるほどに近づいていた。
「うぉっ!」
それに気付いた真央は慌てて飛びのき、そして距離をとる。
「わ、わりーな、歩くの邪魔になっちまってたか? へへへ……」
ばつの悪そうに、取り繕う様な笑みを浮かべた。
その様子に、奈緒は一瞬不満そうな表情を浮かべたが、すぐにまたいつもの明るい笑顔で
「えへへへへー、そんなことないよー。だって私から近づいていったんだもん」
真央は困惑しつつも苦笑いを浮かべ
「そ、そうか。な、ならいーんだけどな、へへへ……」
奈緒よりも半歩ほど体を前に進めた。
しかしそれに合わせるかのように、奈緒も歩を進め真央の横を維持し続ける。
真央は困惑しながら、再び歩を速める。
すると奈緒は不満そうに
「ぶうううー、なんでマー坊君そんなに歩くの速いの?」
とこぼす。
「わたしマー坊君ほど背高くないし、足も速くないんだもん。ちゃんと女の子の歩幅に合わせてくれないとだめだよー」
「お、おお。そうか」
そう言うと真央は、あからさまに、極端に歩みを遅くする。
「こ、こんなもん、か?」
「えへへっ、それじゃさすがに遅すぎだよ」
奈緒はけらけらと笑い
「でも、うん。それくらいなら一緒に歩けるね」
「お、おお。なら、まあ、よかったわ」
そして取り繕うように、頭を掻きむしりながら笑う。
「お、俺ってほれ、“でりかしー”、てモンがねーからよ。その辺は、まあ、大目に見てやってくれよ。へへへ……」
「たしかにそうかもねー」
奈緒はそう言って明るく笑うと
「けどね、マー坊君。こういう時は、隣に女の子がいること……わ、わたしがいるってこと……やんと意識しながら歩けば……いいとおもう……」
顔を赤らめ、うつむきながら言った。
「奈緒ちゃんを……隣にいることを……意識する……」
そうつぶやくと、真央はその言葉通り右脇に、奈緒の存在を意識しながら歩き始めた。
その歩調に合わせ、奈緒も歩みを進める。
真央も、そして奈緒も無言のままだったが、その心はお互いにお互いを強く意識したままだ。
その歩みはどこかぎこちなく、そしてどこか初々しい温かみを感じさせた。
いつもの公園を通り過ぎ、そして釘宮家の高い壁を見つけると、真央は胸をなでおろす。
「お、おお。ようやくついたみてーだな」
そして奈緒を見下ろし
「こ、こんなもんか? めんどくせーな、“でりかしー”ってやつはよ」
笑いながら頭をかきむしった。
その照れたような笑顔を、奈緒はじっと見つめ返す。
そして
「ちょっと、いいかな?」
というと真央の腕をとり引っ張る。
「お、おおっ!?」
想像もしていなかった方向に引っ張られた真央の体は、バランスを崩しながらそれに従う。
「な、なんだぁ? どうした?」
すると奈緒は、引っ張った真央の右手を、さらにぎゅっと握りしめる。
そして真央その手に、徐々に奈緒の腕が絡まり、そしてついには奈緒が真央の右腕を抱きしめるような大勢となる。
真央の体は、まるで鋼のように硬直する。
「ぉ、おおおお? な、奈緒ちゃん!? ちょ、ちょっと……」
「おねがい、マー坊君」
真央の腕にしがみつき、目を閉じたままそこに顔をうずめる奈緒。
「ちょっとだけ、目をつぶって、声を出さないでほしいの」
「ああっ? お、おうっ……」
もはや奈緒の言うがままの真央。
その言葉に従い、体を硬直させたまま瞳を閉じる。
すると
きゅっ
その背中に、柔らかい、暖かな締め付けが伝わる。
奈緒は真央の体に腕を回し、そして抱き付いていた。
そして、今度は背中に顔をうずめ、そして真央の匂いを嗅ぐように呼吸をしながら
「……わたしね、マー坊君がインターハイで優勝するの……ううん……世界チャンピオンになれるの、応援してるから……信じてるから……」
「……奈緒ちゃん……」
真央にできたのは、その言葉に、かろうじてその名を呼び返す事のみだった。
「……これはね、わたしのおまじない……私の想いを込めてるの……マー坊君の夢が……かないますように……」
何秒間か何分間か、二人はそのままの体勢でいたが
どんっ!
「うおっ!?」
奈緒はうつむいたまま、突き飛ばすように力強く真央の体から離れた。
そして、にこり、と笑い
「伝わったかな? 私の想い」
「お、おおっ!」
真央は混乱にこころを支配されながらも
「ば、ばっちり伝わったぜ。ありがとな、奈緒ちゃん」
そう言うと顔を赤らめ、照れたように笑った。
「うんっ! じゃあ早く帰ろっ! 明日はいよいよ決勝だからねっ!」
そう言うと奈緒は、驚くほど機敏に踵を返し、一人頬ける真央を置き去りにして家路を急いだ。
状況を今だ把握しかねる真央は
「お、おお」
頭を掻きむしりながらその背中を追った。
一方奈緒は、振り返りもせず、うつむき顔を赤らめつぶやいた。
「……込めた想いってね、ボクシングの事だけじゃないんだよ……わたしの気持ち……本当に伝わればいいのに……」




