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    5.4 (土)13:50

 聖エウセビオ学園ボクシング同好会顧問岡添絵梨奈は、その殺伐とした会場の中で一人、凛としたたずまいで役員席に腰掛けている。

 その視線は、リングの上での二人のボクサーに注がれている。

 しかし、そのこころの中を占めているのは、現在リング上で熱戦を繰り広げるライトウェルター級のファイターたちではない。

 会場を包む熱気の中、小さな渇きを感じるもそれすら気にならない。

 彼女のこころは次戦、ウェルター級のボクサーたちの戦いだった。

 すなわち、秋元真央、自身が担任として、そして顧問として受けもつ生徒の公式戦だ。

 わずか数分の時間、岡添は一日千秋とも言うべき思いで次戦を待ちわびていた。


「いやいや、お疲れ様です」


 自身の背後からかけられた声に反応し、振り返る岡添の視線の先に

「鶴園先生――」

 ガタン、慌てて岡添は立ち上がると会釈を行う。


「ほっほっほっ、まあまあ、そんなにかしこまらなくても」

 手でその挨拶を押しとどめるような仕草をすると、岡添の座る椅子の隣に腰掛けた。


 それにあわせ、岡添もまたその隣に席を占めた。

 

「いよいよ秋元君の出番ですな」

 深いしわの刻まれた顔が、人当たりのよい笑顔を強調する。

「彼が言うところの、中量級における日本人初の三階級王者、その夢のとば口と言ったところでしょうか。いくつ年齢を重ねても、指導者として経験を重ねても、やはり胸が躍るような思いですなぁ」

 あごに散らばる、これまた白髪交じりの無精ひげをなで上げながら鶴園は言った。


 “中量級における日本人初の三階級王者”の実現がどれ程難しいものかということが、岡添にはいまだに漠然としか理解できない。

 しかし、スパーリングなどで圧倒的な強さを見せ付ける真央が、故郷を捨ててただ一人上京してかなえようとしている夢であることに、その重みをかろうじて感じ取ることはできた。

「私も、彼がどれだけやれるのか……楽しみにしています」


「ほっほっほ」

 その真剣な横顔に、鶴園は柔らかな微笑を向ける。

「いやいや、表情が硬いですな。やはり、ご自分の生徒のデビュー戦、教え子がこれから拳を交えるということは、やはり不安もあるのでしょうなぁ」


 鶴園のその言葉は、見事に岡添の心を見抜いていた。

「……すいません、その通りです……いえ、確かに自分の教え子がリングに上がり、場合によってはひどい負傷を負いかねない、ということに、やはり少々の不安もあります。しかし――」


 その途切れた言葉尻に、鶴園は身を乗り出す。

「しかし、なんでしょうか」


 すると岡添は鶴園の目を見て、そしてはっきりと口にした。

「――しかし、どこかゴングの響きを一刻も早く耳にしたいという自分自身がいるんです」


 鶴そのは、そのしわの奥に細めた目をいっそう細くする。

「ほう」


「自分でも、なんとも表現しようのないのですが」

 自分自身のこころの動きに戸惑いを覚えたのだろう、それを隠すかのように耳元に髪を書き上げ、そしてめがねの位置を直した。

「どこかで確信しているかもしれないんです。彼が、秋元真央君が、これからとんでもないものを見せてくれるんじゃないか、って」


――カァ――ン――

“第11試合、ウェルター級三回戦、準決勝を執り行います”

 響き渡る場内アナウンスが、会場内の緊張を期待を嫌が応にもかきたてる。


「ったく、なんで俺がぶらさがりの準決勝なんてやんなきゃいけねぇんだよ」

 青コーナーのコーナーポストに背中をもたれさせ、真央はぶつくさとこぼした。

「それにこれに勝って明日の決勝戦、相手は西山大附属の皆川だろ? んなもんやる意味ねえじゃねーか。俺を認定チャンピオンで関東出しゃあそれでいいのによ」


「まあまあ、そういわないで。マー坊君が関東の、ううん、日本なんて枠にとらわれない男だってのは、僕たち十分知ってるからさ」

 コーナーをつなぐロープに腕をかけ、苦笑しながら真央をなだめる丈一郎。

「これも経験だと思ってさ、初めての公式戦、オリンピックルールの大会に慣れるためにも頑張ろうよ」


「わたしだって、マー坊君は絶対勝てるって信じてるもん」

 リラックスした表情で、同じくロープの外から話しかける奈緒。

「だから、問題は勝ち方だと思うの。だから、将来のメダリストらしい戦い方、期待してるからねー」


“赤コーナー、高田学園、畔上君”

 ドォッ、会場が歓声に沸き返る。

 畔上はレフェリー、ジャッジを始めとする役員、そして観客席に深々と頭を下げる。

「アゼガミッ! アゼガミッ! アゼガミッ! アゼガミッ!」

 すばやい拍手に合わせながら相手選手、畔上の応援団は自分たちの仲間を闘争心をかきたてる。


「なかなか気合の入った応援じゃぁねえか」

 その言葉とは裏腹に、敵方の応援に全く気おされることなくリラックスした表情の真央。

 その表情は、まるであくびをかみ殺しているようにも見えた。

「ま、どうせ俺には……」


“青コーナー、聖エウセビオ学園、秋元君”

 

 鳴り響くアナウンスに、真央も役員に頭を下げる。

 すると


「アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ!」


「うぉっ!」

 全く期待をしていなかった大きな声援が自分に寄せられたことに、真央は驚愕した。

 見れば、何度も合同練習を繰り返してきた西山大附属の生徒達が、真央に対し巨大なコールを投げかけていた。

「ん? あれは……」

 その大声援を送る集団の中に目を凝らすと


「アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ!」


「桃ちゃん……葵も……」

 桃と葵、二人が西山大付属の生徒たちとともに自分自身へとエールを送る姿だった。

 さらに

「……あの野郎……」

 ちゃっかりと桃と葵の席の隣で声援を送る鄭の姿も確認できた。

 そして真央は悠々と自身のコーナーへと戻って行った。 

 

「いよいよだね、マー坊君。西山大付属のみんなも、それに釘宮さんも葵ちゃんも、真剣にマー坊君のことを応援してくれてるよ!」

 その声援に興奮していたのは、まぎれもなく真央ではなく丈一郎だ。


「アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ!」


「ったく凡才どもが。そんなに応援しなくても俺が勝つのはだれが見たって明らかだろーが」

 顔をしかめ、しかしやや照れた様子で真央は悪態をつく。

「あいつらの声援ごときなくたってよ、俺がこんな試合落とすはずねえだろーがよ」


「もー、すなおじゃないなー、マー坊君はー」

 同じくリングサイドに立つ奈緒が笑う。

「こういう時はね、声援を素直に受け取るものなんだよー?」


「アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ! アッ・キ・モ・トッ!」


 その言葉に、少々顔を赤らめながら

「……ま、応援するのは自由だしな。やりたきゃ勝手にやれよ」


「ホント、マー坊君らしいんだから」

 苦笑続きの丈一郎は言った。

 そして、済ました表情を取り繕う真央に対し

「そういえばさ、マー坊君」


「あん?」

 ぶっきらぼうに答える真央に対し


「ほら、よく言うじゃん。プロ野球とかだと、ピッチャーのデビュー戦で何を投げるかでそのピッチャーのその後が決定するって」

 丈一郎は穏やかに微笑みながら言葉を続ける。

「だから、マー坊君がこの公式デビュー戦でどんなパンチをうつのか、すごい興味あるんだ」


「あー、そういわれると私もすごい気になるー」

 奈緒も興奮を隠しきれない様子で言った。

「きっと、この試合で放つ最初のパンチがマー坊君の世界チャンピオンにつながる道の最初の一歩になるんだよ!」


「へっ、なるほどな。お前らもこの天才の踏み出す偉大なる第一歩を目に焼き付けたいってことか」

 真央は、不敵な微笑みを浮かべながら二人に語り掛ける。

「だがなぁ、そんなもん考える必要もなんじゃねーのか?」



「真央君、大丈夫でしょうか」

 声援の合間に、ふと我に返ったように葵はこぼす。

「もし万が一、真央君にもしものことがあったら……」

 すると、バンッ! 葵の背中が勢いよく叩かれる。


「何言ってんのさ、葵」

 クールな笑いをたたえる桃。

「あいつのこと心配するくらいならさ、アフリカの飢餓救済について考えた方がよっぽどましだって」


「そうそう。君みたいな美少女が心配することなんて何一つないって」

 同じく葵を励ますのは鄭。

「いいたかないけどさ、あいつ、本当にこんな大会の枠にとどまるような奴じゃないぜ。きっと」



“セコンドアウト”

 真央の言葉を遮るように鳴り響く場内アナウンス。

 

 それでも二人は、その言葉を耳にしたい一心で

「「というと?」」

 と問いかけのみを残す。


 ニイッ、


――カァン――

“第一ラウンド”


 ゴング、そしてアナウンスに合わせ二人のボクサーは振り返し、そしてお互いへめがけて距離を詰め――

 いや――


「速い!」

 鄭は声援を途切れさせ、無意識のうちに叫ぶ。


「え?」

 そして丈一郎は、その展開にただ呆然と言葉を飲む。


 リング上、わずか数歩の跳躍で距離を詰める真央。

「俺のいく道はなぁ――」


 先刻まで数メートル離れていたはずの真央が、瞬きほどの瞬間で一挙手の間合いにまで迫る。

 相手はその思いもよらぬ事実に驚愕し、無意識のうちに体を硬直させる。 

 それでもボクサーとしてのさがだろうか、距離をとるために左ジャブを鋭く繰り出す。

 

 それを真央は、やや拳を下げ気味の体勢で最小限の動きでかわす。

 そして一直線に進みながらも、おそらくは相手に取ってリング上で経験したことのないであろう独自のリズムで細かく、本当にわずかなふり幅で上体を振り、相手を幻惑させる。

 

 その瞬間、相手はほんの一瞬体を硬直させ、動きを停止させる。

 そこに、相手の喉笛に正確に噛みつく猟犬のように、真央の拳が――


 ゴキィ!


 放り投げるように繰り出された真央の右一直線の拳が、正確に相手の顎を打ち抜く。

 その瞬間、相手の体のスイッチは完全にオフに切られる。


 会場にいるすべての人間は息を飲み、先ほどまで会場を揺らしていた両応援団の怒号はすべて影をひそめた。

 子の瞬間、会場にいるすべての人間の時間が止まり、秋元真央という存在のみがその空間を支配していた。


 レフェリーすら凍りつく中、真央は不敵な笑みを浮かべ、リングサイドの丈一郎と奈緒に語り掛ける。

「三階級制覇の世界チャンプ、一直線の道しかねーんだよ」

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