5.4 (土)13:30
バシンッ!
グローブを胸元で叩きつける、爽快な破裂音が響く。
「うっしゃあ、いよいよ俺の出番かあ」
赤のタンクトップとトランクスに身を包んだ真央が興奮気味に言った。
会場控室の外の廊下。
現在はフェザー級の試合が行われている中、ジャージーを羽織った真央は、今や遅しとたっぷりと汗をかいて試合開始のゴングを待ちわびていた。
「つぅか、この試合俺のアマチュアボクシングのデビュー戦なんだよな。なんかひさしぶりにわくわくすんぜ。へへへ」
ニヤリ、真央は興奮を抑えきれないかのような微笑みを浮かべた。
「まったく、マー坊君らしいなあ。僕なんて、緊張して心臓が口から飛び出しそうになったのに」
呆れたような笑いを浮かべる丈一郎。
「相手は高田学園の三年生か。一応去年関東大会でA代表になったくらいだから、油断しない方がいいと思うよ」
一応言っておかないと、というような忠告の言葉を口にした。
「まあな、そんくらいわかってるって」
ニイッ、口元をゆがめて答える真央。
試合開始のゴングが待ち切れず、体の底からうずいているのが手に取るようにわかる。
そして、ポンッ、AIBAの公式グローブに包まれた拳で丈一郎の頭を小さく小突いた。
「だがな、俺をだれだと思ってんだ? 俺は未来の世界チャンプのベルトが約束された男だぜ? そんな人間がこんな試合にいちいちつまづいてられるかってんだよ」
ふんっ、鼻持ちならない、と出も言うような様子で口を開く人物が。
「たいそうな自身じゃないか、秋元」
その人物を見れば
「おお、名門西山大学付属の面々じゃぁあーりませんか」
おどけた様子の真央の目の前には
「ったく、本当にお前はお調子もんだな」
呆れた様子で顔をしかめる鄭。
「何度も言うけど、俺の方が年上なんだからな? 言葉に少しは気を使えよ」
「へへへ、かてーことは言いっこなしだぜ」
真央は身長で言えば10センチ以上は低い鄭の頭を、これまたポンポンと子供をあやすように撫でた。
「ま、今日は何か校、ピリッとしない試合が続いてっからよ、ここらで俺がガツンと決めてやっから、楽しみにしてな」
「さっきまで、俺のこと応援してくれたよね、秋元君」
小さく、真剣な表情で頭を下げるのは杉浦。
「ありがとう。おかげで俺も公式戦初勝利をつかむことができたよ。秋元君も、頑張ってくれよ」
「おう、杉浦。おめーもなかなか頑張ったじゃねーか」
どこかしら、上から目線を思わせる態度で真央は言った。
「ま、俺の試合は間違いなくあっという間におわっからよ、ボーっとしてたら見逃しちまうから、今の内にゆっくり休んでおいてくれたまえよ」
「けっ、いい気なもんだ」
忌々しそうに、吐き捨てるようにこぼすのは、現在西山大学ボクシング部員であり、付属高校の学生コーチを務める山本。
そして真央に人差し指を突き刺し、言葉を乱暴に投げかける。
「いいか? お前を叩きのめすために、うちの皆川地獄見さすくらい追い込んできたんだからな? いつもの合同練習みたいに考えてたら、地獄見るのはてめーだからな?」
その言葉に、苦笑して口を開く鄭。
「つーか先輩、それって明日の決勝の話っすから。そんなこと言ったら秋元にエール送ってんのと一緒っすからね」
「うっ……」
その言葉に、顔を真っ赤にして言葉を詰まらせる山本。
「と、とにかくだ! どうせてめーはこの試合間違いなく勝つんだろうからよ、明日うちの皆川が俺の手でどれだけ強くなったか、しっかりと思い知らせてやっから覚悟しとけよ!」
そう言うと、そのまま控室の方へと姿を消していった。
「ったく、素直じゃないんだからな」
ふうっ、ため息交じりの鄭の言葉。
「まあ、あの人はあの日となりにお前の事も応援してるし、何よりも内野皆川が勝つことも同じくらい祈ってるからさ。不器用なんだよ、あの人」
「そういえば、今は大学の定期戦とかリーグ戦も始まっているのに、山本さんはずいぶん熱心なんですね」
と、山本の後姿を見送りながら丈一郎は言った。
「合同練習行くたびに必ず姿見かけますし。自分の試合とか練習とかは大丈夫なんでしょうか」
「さあてね。その辺のことは俺もよくわからないよ」
頭の後ろで両腕を組み、やれやれ、といった表情で鄭は言った。
「ま、川西の言う通り本当は忙しいはずなんだろうけど、なんか最近すげー熱心なんだよね。ほとんどうちの主任トレーナーだよ、あの人」
「そういやぁよ、あいつ誰だっけ、ほら、ええっと……」
腕組みをして、ヘッドギアに包まれた首をかしげる真央。
「あいつだよあいつ、あの……そうだ、大山てやつ。あいつは学生コーチやめたのか?」
「大山先輩か? ああ、あの人ならグローブを置いたよ」
こともなげに鄭は答える。
「なんかさ、あの、ほら、さっきいたあの子、桃ちゃんだっけ? あの子にものの見事にノックアウトされちゃったからな。男として、ボクサーとしてのプライドが、ぽっきり折れちまったみたいなんだよな」
その言葉に、顔をしかめる丈一郎。
「……あの光景、今思いだしてもぞっとしますよ……あの見事に体重ののった右ストレートが顔面にめり込んだら……僕なんてきっとあんなもんじゃ済まないですからね」
「ああ、まったくだ」
全身を震わせるようにして、真央もその言葉に同意した。
「俺もたまにあの右ストレート貰うことあんだけどよ、あれぁもう女の拳じゃねーぜ? つぅか、この俺がマジでかわすことができねーんだからよ。しかもあの右ストレートな、冗談じゃなくて一瞬意識飛ぶぜ? まったく、何度も言うけどよ、きっとあの女前世は絶対マウンテンゴリラ……」
「おっ!? あんなところに桃ちゃんが!」
鄭が真央の後ろを指差し叫ぶと
「うぉっ!」
真央は顔面を蒼白にし、顔面をしっかりガードして後ろを振り返る。
しかし、その背後には
「誰もいねーじゃねーか!」
そう叫ぶと、真央は鄭の頭を殴りつけた。
「……ってーな、全く」
鄭は顔をしかめて頭をさする。
そして、ニヤリ、と小さく微笑む。
「……けどまあ、お前みたいなやつにも弱点があったんだな。あんな美人な子を怖がるなんてな。お前も相当女運が悪いみたいだな」
「そうなんですよ。マー坊君を止められる人間なんて、うちの学校でも釘宮さんだけなんです。学校の先生だって持て余してるほどの男なんですけどね」
へにゃりとした微笑みを浮かべ、丈一郎は答えた。
「だから、マー坊君頭悪いんですけど、釘宮さんのいる特進クラスにわざわざ編入させられたくらいなんですから」
バシン、今度は丈一郎の頭にグローブがめり込む。
「だれが頭悪いだ、この野郎! ふざけてんじゃねえぞ!」
「……ったたたた、もう、グローブしてた方が頭に響くんだからさ、勘弁して読もう……」
頭を抑え、顔を苦痛にゆがめる丈一郎。
「本当、マー坊君は釘宮さんがいないと誰も制御効かないんだからさ」
「ったく、俺を赤ん坊みたいに言いやがって……」
いら立ちに顔をしかめる真央。
「とにかく、桃ちゃんの右拳は食らってもよ、関東大会の予選レベルのボクサーの拳をもらうつもりはねーよ。ま、とにかくお前は観戦席でしっかりと目に焼き付けるんだな。自称天才レベルのお前と、真の大大大天才であるこの俺との才能の違いをよ」
「関東代表経験のボクサーの拳を女子高生のパンチと比べるお前のメンタルが俺には理解できないよ」
といって鄭は苦笑した。
「ま、どうせお前は間違いなく関東ウェルターAで出場するんだろうけどな。今日のところは俺らもお前のこと応援しといてやるよ。明日はさすがに皆川応援してやらないとかわいそうだからな。お手柔らかに頼むよ」
そう言って鄭はポケットに手を突っ込んで振り返り、応援席へと足を進めた。
「あ、それと川西、明日は俺たちもいい試合しような」
と丈一郎に声をかけ、背中を見せたまま手を振り、杉浦とともに姿を消した。
「よろしくお願いしますっ!」
ひょうひょうと去る鄭の後姿に、丈一郎は深々と頭を下げて叫んだ。
「……ったくよぉ、騒々しい奴らだぜ」
顔をしかめて真央は言った。
「あ、もう仕度できたんだー」
入れ替わるように響く、この殺伐とした会場にはそぐわない、かわいらしいやや甘たるい声。
その声の主は当然、聖エウセビオ学園ボクシング部マネージャー、釘宮奈緒だった。
「もうじきフェザー終わって、それからすぐライトウェルター級だから、いよいよマー坊君の試合開始だねー」
これからリングに上がる真央以上に興奮した面持ちで奈緒は言った。
「ああ、わかってるって」
今度は優しく、その頭を撫でるかのようにグローブで奈緒の頭を撫でた。
「しっかり頼むぜ、サブセコンドさんよ。ま、試合自体はあっという間に終わると思うが、ご期待に添えるように頑張んからよ。期待してて待っててくれや。ぎゃはははは」
緊張の名か静まり返る控室廊下をつんざく、いつもの豪快な真央の笑い。
その笑いが、ほんの数パーセントばかり存在していた奈緒の不安を完全に吹き飛ばした。
「うんっ! 渡し、精一杯できることやって、マー坊君をサポートするからねっ!」
そして、見るものすべての心を和らげる、あの奇跡のような微笑み。
「えへへへへへへー」
「大丈夫だよ、奈緒ちゃん」
その笑顔意つられるように、丈一郎も笑って言った。
「もうさ、僕には、気っと奈緒ちゃんもだと思うけど、もうマー坊君の勝利シーンしか頭には浮かばないよ。大丈夫。絶対にマー坊君の手が高々と掲げられるって信じてるから」
「あぁん? 誰にもの言ってんだ?」
にやり、あの不敵な微笑みを浮かべ、真央は言った。
「史上初の3階級4団体統一チャンピオンになるはずの男だぜ? こんなところでつまずいてたらよ、ボクシングの神様に怒られちまうぜ。ぎゃははははは」




