5.4 (土)12:45
「私、好きよ。ボクサーって」
桃と葵、二人の顔を見つめてきっぱりといった。
「もちろん、異性として、一人の女として、ね」
一片のためらいもないその言葉に、葵の心は乱れる。
「え? それってどういう……どういうことですか?」
言葉だけではない、その表情に、葵は言い様のない不安を覚えた。
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
同じく、その表情に、同じ女性として看過できないこころの動きを見た桃も言葉を発した。
「……もしかして……先生の言う、好きなボクサーって……」
その言葉に、岡添ははっとして慌ててその自身の言葉を打ち消した。
「あ! え、えっと! そう言うんじゃないの! 特定の誰かを好きとか、そういうことじゃなくって!」
コホン、小さく咳払いをすると、髪の毛をかきあげ言った。
「リング上で戦うボクサーの姿って、すごく……生徒の前で言う言葉じゃないのかもしれないけど、セクシーなの」
「セクシー」
桃は拍子抜けしたようにその言葉を繰り返す。
「そう、セクシー。すごく、ね」
少々頬を赤らめながら、恥じらいの微笑みの中岡添は続ける。
「私、子どものころから大学までずっと女子校で生活してたから、たぶんあなたたちよりもよほど、男の人に免疫がないって言うか……うん。だから最初ボクシング同好会の顧問なんて勤まるかどうか、すごく不安もあったわ」
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
鳴り響く大声援は、リングの周囲にも波を掻き立て、岡添のこころまでその波に乗ったようにに勢いづいた。
「けど、西山大付属との合同練習に足を運ぶようになって以来、ボクサーの動きの美しさや、闘志あふれる闘いとか、そういうものに、自分自身が魅了されていった、そういう自覚が芽生えたの。こういうのを……うん、セクシーって呼ぶべきじゃないのかしら」
桃は、その言葉に無言で耳を傾けリング上を注視していた。
一方の葵は、その言葉の中に承服できない違和感を感じ、岡添の横顔を眺め続けていた。
――カァン――
「ストーップ!」
「杉浦君、調子良さそうね」
すでに顔見知りでもある杉浦の様子に、岡添は小さく独り言をこぼした。
すると、しばらく無言のままでいた桃が、ふいに口を開いた。
「岡添先生、さっき先生は特定の誰かに関する話じゃないって言ってましたけど、あたしにはそうは思えないんですけど」
「え?」
その言葉に、再び戸惑いの表情を見せる岡添。
「そ、そんなことないわよ。私はただ、本当に思っていることを――」
しかし、桃は岡添を真っ直ぐに見つめる。
その表情、その仕草の一つ一つを点検するかのように。
コーナーサイドでは、学生コーチの山本がしきりに杉山にアドバイスを送る。
杉山は、呼吸を整えながら、真剣な表情でそのアドバイスに耳を傾ける。
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
名門西山大附属の、一糸乱れぬ統制の取れた応援が、相手選手を圧倒する。
そのボクシングという空間の中で、桃、葵、そして岡添の三人の女性は張り詰めた緊張感の中で、お互いのこころの中を探り合っていた。
すると桃は再び口を開き、婉曲的にこう表現した。
「この間の謹慎の申し渡しの時にも思ったんですけど、岡添先生が見せる表情、あたしたちに見せる表情とマー坊に見せる表情、ぜんぜん違う気がするんですよね。特に、ここ最近」
その言葉を耳にした葵も、おずおずと口を開く。
「私も……私もそう思っていました。最初の頃、明らかに真央君の存在に対し警戒感を持っていたというか……いまでも、他の男子生徒に対してはそういうところが見られるようなきもするんですが……」
そして、意を決したように
「もしかして……先生も真央君のことが、好きなのではないですか?」
二人の少女の真剣な問いかけに対し、岡添は何も答えることはなく、その表情を見つめるばかりだった。
“セコンドアウト”
鳴り響く場内アナウンスに反応するように、山本がマウスピースを杉浦の口に押し込み、肩をぐっと掴んで気合を込める。
そして、杉浦は胸元でグローブを叩きつける。
「わからないの」
不意に、伏し目がちの表情で岡添は口を開いた。
「えっ?」
「わからない、って?」
セコンドアウトと第二ラウンドの合間の刹那、ざわめきが会場を包む。
――カァン――
“第二回”
場内アナウンスが、会場を再びヒートアップさせる。
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
第一ラウンドに手ごたえを感じた西山大附属の応援団は、いっそうそのボルテージを上げる。
応援席の三人の女性も、いっせいにリング上で展開される光景に目を移す。
岡添は滔々と、しかし真剣に、その真剣な表情の少女たちの気持ちを受け止め、真摯に言葉を継ぐ。
「私ね、さっきも言ったけど、ずっと女子校育ちでそのまま理事長の秘書になったから、男の人と付き合ったこともないし……男の人を素敵だな、って思ったこともなかったの」
そして、口もとに小さな笑みを浮かべる。
「不思議な子ね、秋元君って。一見すると、すごく怖いし、頭も悪いけど。けど、すごく素直だし、それに、ボクシングをやっているときは、どのボクサーよりも、すごくクールね」
そういうと、桃と葵を見つめ
「きっと、あなた達が秋元君に魅せられた理由も、そういうところなんじゃない?」
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
その言葉に、桃と葵は何も返すことができなかった。
そして二人は確信した。
この目の前にいる、自分たちよりも年上の大人の女性は、その気持ちを整理できないといいつつも、間違いなく異性として一人のボクサーに魅かれている、ということを。
「ただ、私は教員よ」
その二人の真剣な表情を、かわすかの様に岡添は続けた。
「あなたたちが心配するようなことはないわ。その辺の分はわきまえているつもりよ。いかに彼が男として、セクシーでチャーミングだとしてもね」
すると、スッ、岡添は眼鏡を抑えながら立ち上がる。
「ずいぶん話し込んじゃったわね。私もいかなくっちゃ」
そして、再び二人に微笑みかける。
「こうみえても、役員としてやることがあるの」
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
大声援が響く中
ガタッ、葵が思いつめた表情で立ち上がる。
「一つだけお聞きします。もし……もし先生が“教員”という立場を捨ててもいいとまで考えられるときがあったとしたら……」
そして、きゅっと胸元を拳で押さえるようにして言った。
「……何もかもを捨てて、真央君の選ぶ、ということですね?」
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
「……」
眼鏡が光を反射し、その視線の先を追うことはできなかったが、葵の言葉を耳にした刹那、岡添の動きは固まった。
そして、小さくため息を漏らすと、しっかりとした口調で言った。
「もしそう思う瞬間が来るとしたら、の話ね。それ以上は、今のところ答えられないわ」
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
鳴り止まぬ大声援を背景に
「それじゃあね」
岡添はそのまま会場通路へと消えていった。
その後姿を見送ると、葵は、ストン、再びパイプ椅子に腰を落とした。
そして桃と二人、再びリング上で展開される光景を、無言のまま眺め続けた。
リングの上では、杉浦が相手を果敢に攻めたてるも、一進一退の攻防が続いている。
杉浦の鋭い右フックを、相手は慎重にガードし右ストレートを返せば、杉浦はそれをダッキングでかわし右アッパーを仕掛け返す。
ボンッ、会場内に破裂音が響くたびに、それぞれの陣営から大きな歓声が上がる。
「ねえ、桃さん」
葵はリングの上を注視しながら桃に語り掛ける。
「やっぱり、岡添先生は真央君の事が好きなのでしょうか」
「そうだと思う」
桃は簡潔に答えた。
「けど、やっぱり迷いがあるんだと思う。やっぱり、教員なんだよ、あの人は。自分の教え子に対し、そういう感情を抱いてはいけない、ってところで、葛藤があるんじゃないかな」
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
再び口を開く桃。
「教育者でありたい、そういう気持ちがある限り、本当の意味でマー坊に異性として向き合うこともないんじゃないかな」
その言葉を聞くと、葵は俯く。
「と、いうことは、やっぱりすべてを投げ出しても真央君と一緒にいたいと思ったら、そうなる、ってことなんですよね」
「でもさ、それってやっぱり仮定の話でしかないんだよ。先生も言ってたとおりさ」
岡添の言葉を、桃は反復した。
「実際に教員としての自分をとるか、それともマー坊のもとへ行くことを選ぶか、その時にどういう行動を選ぶかなんて、あの人が、あの人自身がその時にならない限りはわからないことなんだよ。少なくとも、あたしたちにはわかりっこない問題なんだ」
その言葉に、葵は再び無口になった。
その間隙を縫うように
――カァン――
第二ラウンド終了を告げるゴングが鳴った。
「私なら」
西山大付属のサイドで、あわただしくセコンドが動く中、葵は言った。
「私が岡添先生の立場なら、躊躇なく自分の気持ちを優先します」
「……葵……」
その葵の言葉に、桃のこころは動揺を覚えた。
「きっと、岡添先生も、本当はそう思っているんじゃないでしょうか」
今度は葵が桃を見つめる。
桃と葵の視線が重なった。
「桃さんだって、絶対そうすると思います」
その言葉に、桃はぐっ、と息を飲んだ。
そして
「あたしは、そんなことしない」
力強く、しかし簡潔な表現で断言した。
「あたしは、どんなに人を好きになったって、相手に合わせて自分を変えるなんて絶対にしたくない。例え、その結果その人を失う結果になろうとも。あたしは、どんな時だってあたしのままでいたいんだ」




