5.4 (土)12:20
「とにかくさ、もしよかったら、今度一緒に遊ぼうぜ」
真央の拳を思い切り受け止めた鄭は、その頭をさすりながら奈緒も食い下がる。
「大丈夫だって。変なことしないからさ、信用してよ。最近練習ばっかで全然息抜きできなかったからさ、どっか遊び行こうぜ、な?」
「てめえ、いい加減にしろよ。桃ちゃんも葵も困ってんじゃねえか」
鄭のその積極的アプローチに、苦笑いを返す二人を見て、真央が口を差し挟む。
「大体な、お前もボクサーのくせにちゃらちゃらしてんじゃねえよ。もっとこう、俺みたいにストイックに生きれねえのか?」
その言葉に、鄭は真央をじろり、と睨む。
「これだから共学校の奴はさ。俺らみたいに女の子と知り合う機会のない人間は、こういう時に動かないとダメなんだよ。しかもこんな美人を前にしてさ、声をかけない方が失礼ってもんだぜ?」
そして、はぁ、深いため息をつく。
「ま、お前らに言ってもわからんか」
そして、同じく苦笑いを浮かべる杉浦に向かい
「んじゃ、そろそろ行くよ。もうじきは試合目の招集かかるからさ。お前もそろそろ仕度しとかないとだからな」
「は、はいっ!」
その言葉に、杉浦は硬直し声を上げる。
「大丈夫だって。緊張すんなよ」
そういって杉浦の肩をもみ、その緊張の緩和を試みる。
「ま、俺がいるフライ級から階級上げたのは賢明な判断だったよ。だからこそ、きっちり勝って関東、行くぞ。わかったな?」
その言葉に、杉浦の体から無駄な緊張が抜け、力がみなぎりだす。
バシン、胸元でバンデージに包まれた拳を手のひらにたたきつける。
「うっす!」
その様子を見て、鄭はにやりと笑う。
「まったくさ、お前も川西も大げさなんだからさ」
そして丈一郎に向かい
「んじゃ、またな、川西。明日はお互いがんばろーぜ」
微笑み、小さく手を振る。
「はいっ!」
大きく、そしてはっきりと丈一郎は答えた。
「僕も、僕だって鄭さんにそう簡単に負けるつもりはないですから! 明日はよろしくお願いします!」
と頭を下げた。
ひゅぅ、鄭は小さく口を鳴らすと
「言うじゃん」
と小さく微笑んだ。
また、真央に向かい
「秋元も、またな。たぶんお前の事だから間違いなく関東Aウェルターで出場できるだろうから。後は勝ち方の問題だな。ま、さっさと決めちゃってくれよ」
と声をかけた。
そして
「知ってると思うけど、うちのウェルター皆川だから。あんまいじめないでやってくれよな」
そう言うと鄭は杉浦に指で合図をする。
「じゃ、行こうか。杉浦」
「うっす!」
そして鄭と杉浦、二人の西山大付属高校の選手は連れ立って会場内へと消えていった。
唖然とした表情で、そのあわただしく去ってゆく背中を眺めていた葵が、ぷっ、と吹き出す。
「ものすごく騒がしい方でしたね。すごい自信に満ち溢れていましたし。本当に面白い方ですね」
こくん、桃もうなづき同意する。
「そうだね。西山大付属の選手って、あの大山って人みたいな人ばっかりだと思てたけど、いい人もいるんだね」
そして、奈緒に訊ねる。
「あの人……鄭って人、自分が西山大のエースだって言ってたけど、そんなに実績のある人なのか?」
「うん。あんな感じだけど、ボクシングの実績はすごいんだよー」
人差し指を立て、真剣な表情で答える。
「去年のインターハイと選抜大会、それぞれ優勝してもうすでに高校2冠を達成してるんだよー。普段はちゃらちゃらして軽い感じなんだけど、この年代のフライ級ボクサーだと頭一つ抜きんでてる感じかなー」
「本当に!?」
桃は驚愕し目を見開いた。
「とてもそんな風には見えなかったんだけど、そんなに強かったんだ」
「伊達に、名門西山大学付属高校のエースの看板背負ってはないってことだよ」
真剣な、そして闘志あふれる視線で、鄭と杉浦の消えていった方角を見つめながら丈一郎は言った。
「合同練習で何度かスパーリングしたけれど、本当に強いんだ。あの人」
「明日の決勝戦、川西君はあの方と対戦するということですよね」
葵は、不安そうに胸を抑えながら言った。
その言葉に、ニイッ、口元をゆがめ笑う真央。
「大丈夫だって。大体俺らまで心配してたらよ、丈一郎がよけい不安になっちまうじゃねーか」
そうして、葵の頭をポンポンと撫でるようにして叩く。
「まー、確かにキャリアから何から、完全にあの野郎が数段上だろうがな。けどよ、丈一郎が、いったい誰と普段練習してると思ってるんだ?」
すると葵の表情は、やや紅潮しながらも緩んだ。
「そうでしたね。何といっても、この大天才ボクサーと川西君は一緒に練習しているんでいたね」
「そのとーりっ!」
今度は奈緒が胸を張り、丈一郎に言った。
「それに、丈一郎君はまだ二年生だから。ぜ対伸びしろは丈一郎君の方があるはずだもん! だから、本気でやって、ちょっとでも力伸ばせるように頑張ろ―よ! ね?」
「うん」
静かに、しかし拳を握りしめて闘志を燃やす丈一郎。
「僕たちの夢、全国大会出場、そして優勝。あの人を倒して、絶対成し遂げて見せるから」
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
荒々しい、原始的な咆哮が会場を揺るがせる。
第八試合、バンタム級の第二試合は、西山大学付属杉浦と、高田学園の選手との対戦だった。
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
さすがは名門ボクシング部、というところだろうか、選手一人一人の応援にも統制が行き届き、そして男子校らしい勇壮な響きがびりびりと伝わってくる。
「あら」
その応援団とともに、杉浦に声援を送る桃と葵の後ろから声が。
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
大声援の中、かすかに響く聞き覚えのある声に二人が振り向くと
「あ、岡添先生」
「あら、岡添先生ではないですか」
ガタリ、桃と葵は慌てて立ち上がると、自身の担任である岡添絵里奈に頭を下げた。
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
「おや、あの時の娘さん方ではないですか」
岡添にやや遅れて歩いていたのは、西山大学付属高校ボクシング部総監督、鶴園だった。
「いやいや、一か月振りですな。あの時は色々とご迷惑をおかけいたしましたな。うちの杉浦にご声援を送りいただけるとは、いやはやありがたいことです」
その鶴園の姿の姿を認めた西山大付属の生徒たちは、声援を止め、一斉に頭を下げる。
「うっす!」
「ちゅっす!」
「ちゃす!」
鶴園はにこにこ笑いながら、無言のまま小さく応援の続行を示唆する。
すると再び西山大付属の生徒たちは誘うと踵を返し、腹の底から力を込めて声援を続行する。
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
「ほほほ」
その様子を満足そうに見つめていた鶴園は、岡添絵里奈に向かい
「それでは、私は明日の事務仕事をしてきますので、後程またお会いしましょう」
と、岡添、そして桃と葵に会釈して会場の外へと消えていった。
その後姿に、二人の少女、そして一人の女性は頭を下げた。
リング上では、杉浦が無我夢中で拳を振り回す姿が確認できる。
拳がヒットするたびに、ドォッ、西山大付属の生徒たちの地鳴りのような歓声が上がる。
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
「二人とも、応援に来てくれていたのね」
黒のスーツにアンダーリムの涼やかな眼鏡、クールな表情で岡添は葵の隣に腰かけた。
「そのおかげ、というところかしら。川西君は初勝利をつかみ取ったのも」
そして、二人に柔らかく微笑みかけた。
「ええ。先生も大変ですね、経験のないボクシング部の顧問を務めなければならないなんて」
口元に手をやり、葵がその労をねぎらうように言った。
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
「ええ。でも、自分の生徒たちの戦う姿を近い距離で見ることができるから、それはそれでいいものなのかもしれないわね」
足を組みかえ、背中を椅子にもたれさせながら岡添は言った。
「母……理事長がボクシング同好会のマネージャーだったから、色々アドバイスも受けることができるしね」
「……」
その表情を、無言で眺める桃。
その視線に気づいた岡添は
「どうかした? 釘宮さん」
と声をかける。
すると桃は
「いや……何か岡添先生最近前とイメージ違うなって思って」
右手人差し指で目じりを抑えながら言った。
「前はもっと……こう……怖かったというか固かったというか……でも最近、なんだか以前と印象が違うんですよね」
「そういえば、そうですね」
葵も同意しうなづいた。
「以前は私たちの前でお笑いになられることもありませんでしたし。それに……」
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
葵は、ちらり、すぐ近くで大声援を送る西山大付属の生徒に目をやり
「……その……男の人に対して……苦手意識もっていらっしゃった様ですし……」
その近くで大声を張り上げる男子生徒の前でも普通にしている岡添にその疑問をぶつけた。
「えっ?」
その言葉に、少々顔を赤らめて素っ頓狂な声を上げた岡添。
何かを取り繕うように髪の毛をかきあげ、咳ばらいを一つ。
「そ、そ、そうだったかしら? そ、そんなこともないと思うれど……」
そして、ふう、小さく深呼吸をして言った。
「ごめんなさい。あなたの言うとおりね、礼家さん。とはいっても、今もそれほど得意ではないし、西山大付属の生徒は合同連取で会うことも多いから、というのもあるんだけど……」
「スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ! スッ・ギ・ウラッ!」
大声援が響き渡る中
「私、好きよ。ボクサーって」
桃と葵、二人の顔を見つめてきっぱりといった。
「もちろん、異性として、一人の女として、ね」




