5.4 (土)11:50
――カァン――
「ストーップ!」
第二ラウンド終了のゴングと同時に、再び真央と奈緒はコーナーへと飛び出す
「「「カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ」」」
劣勢の中に一人立たされる鹿屋のために、仲間たちからの声援が会場中にこだまする。
「よし、いいぞ丈一郎。いい感じで左がヒットしてる」
呼吸を整えさせ、そしてうがいをさせながら真央は的確に、そして簡潔にアドバイスを送る。
「このラウンドは完全にお前のもんだ。次で最後だが、たぶんあいつはお前の左を嫌って体つけてくるだろう。そん時はアウトは捨ててショートのアッパーとフックを叩きこめ。いいか? それが本来のお前のスタイルだ。左はあえて見せ技にするんだ。いいな?」
ぐちゅぐちゅ、うがいをしながらも、興奮冷めやらぬ様子が手に取るように分かる。
びゅっ、じょうごに口中の水を捨て、そして呼吸を整えながら
「うん」
小さな、そして浅い呼吸とともに答えた。
「「「カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ」」」
地鳴りのような声が会場中にこだまし続ける。
それを見た丈一郎は、苦笑いを浮かべながら言う。
「ははは、どうやら僕たち完全アウェーみたいだね」
しかし、タオルを大きくふるい風を丈一郎に贈る真央は、にやり、といつもの不敵な笑み。
「そう思うか? 実はそうでもねーんだぜ」
と会場隅に視線を送る。
「え?」
と真央の視線の先にあったものは――
「「ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ!」」
普段見慣れた制服に身を包んだ二人の少女の姿。
北台高校の声の唸り声に負けじと、桃と葵は懸命に、額に汗を浮かべながら、必死に丈一郎の名前を連呼し続ける。
くすっ、丈一郎は小さく微笑んだ。
「全然アウェーなんかじゃないね」
二人の美しい少女の声援が、丈一郎の体中に力をみなぎらせる。
「あの二人だけじゃないんだからねっ!」
リング外で、サブセコンドを務める奈緒が声をかける。
「あたしだって、それにレッド君だってマー坊君だって、声はかけられないけれど、心の底から丈一郎君に声援を繰ってるんだからねっ!」
その声には、ラウンド中にかけられなかった声援をすべてぶつけてしまいたいという欲求が現れていた。
再び真央は、ニィッ、口元をゆがめて笑いを浮かべる。
「そう言うこった。リングの上じゃぁ一人かもしれねーがな、お前の背中はこんだけたくさんの人間が支え手つこと忘れんじゃねーぞ。いいな?」
“セコンドアウト”
場内アナウンスが響くと、真央は手早くマウスピースを丈一郎の口に押し込む。
「おっしゃ、最終ラウンドだ。とにかく手数だ。接近してもとにかく体を回転させ続けろ。いいな?」
「うぐぅん!」
丈一郎は、マウスピースの鈍い感覚を確かめるように食いしばり、バシンッ、量のこぶしを胸元で叩きあわせた。
その様子に、みなぎる自信と手ごたえを感じ取った真央は、椅子を片手にリング上から姿を消した。
――カァン――
“第三ラウンド、最終ラウンドです”
場内アナウンスが、嫌が応にも観客のテンションを煽る。
「「「カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ」」」
「「ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ!」」
二つの陣営の応援が、一気に盛り上がる。
丈一郎の、聖エウセビオ高校の陣営には、さらにレッドの声援も加わった。
リングの上では、真央の読み通り、対戦相手の鹿屋が丈一郎の出入りに合わせ、中間距離をつぶし近接距離に持ち込もうとしていた。
丈一郎の左をガードすると同時に距離をつぶし、ショートのアッパーとフックを叩きこむ。
それを読んでいた丈一郎はしっかりとそれをガードし、お返しとばかりに同じくショートのパンチをまとめていく。
両者はリング中央付近で額をくっつけては足を止め、そして何度もこぶしを交錯させる。
当初はリズムを把握し始めた鹿屋の拳があわやというクリーンヒットをたたき出したが、丈一郎は少しずつタイミングを合わせ始め、しきりに上体を動かし的を絞らせない。
少しずつではあるが、鹿屋の拳は空を切り始め、そして丈一郎のクリーンヒットの数が鹿屋のそれを上回っていく。
たまらず鹿屋は体を密着させ、完全に距離をつぶすが、丈一郎の腕を抱え込むようなクリンチはホールディングを取られ、レフェリーのジェスチャーと共に鹿屋に注意が与えられる。
「「「カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ」」」
「「ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ!」」
会場のボルテージは最高潮にヒートアップする。
「ボックス!」
その声とともに、両者の拳は再び交錯する。
再び両者はリング中央部で額をつけて拳を交わし合う。
しかし、ペースは完全に丈一郎のものだった。
クリーンヒットと共に、鹿屋の手数はみるみる減っていく。
一方の丈一郎はさらに回転数を上げ、その拳は完全に鹿屋の体を軽々と後退させる。
鹿屋は、いつの間にかロープを背負い、完全に逃げ道を失っていた。
「「「カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ」」」
「「ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ!」」
二つの大声援の最中、好々爺然とした鶴園も拳を握りしめリング上の一挙手一投足に注視する。
「これです。これこそが川西君の真骨頂です」
「え?」
同じく、丈一郎の優勢に手に汗握る岡添絵里奈は、鶴園のその言葉の真意を問いただす。
「えっと……どういうことですか?」
「一か月ほど前でしょうか、うちの杉浦君と川西君がスパーリングで対戦したのは」
優しい微笑みを浮かべながら、鶴園は岡添に語りかける。
「先ほどのラウンドまでは、あたかも川西君はアウトボクサーのようなスタイルを見せていたため、おそらく鹿屋君も混乱しているでしょう。しかし、川西君の本来のスタイルは、かなりのインファイター寄りのものです。なんといいますか、こう……相手の懐にもぐりこみ、強引にでもいんファイトに持ち込めるところ、それが川西君の強さといってもいいでしょう」
「「「カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ、カッ・ノッ・ヤッ」」」
「「ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ! ジョッ・ウ・イッ・チ・ロウ!」」
その鶴園の言葉通り、鹿屋をロープに追い詰めた丈一郎は、必死に体を回転させショートのフックとアッパーを叩きこみ続ける。
鹿屋はたまらずクリンチを仕掛け、体勢を入れ替えようとするが
「ブレイク!」
のレフェーリーの声により両者は引き離された。
再びかかる号令。
「ボックス!」
その声に、真っ先に反応したのは丈一郎だった。
度重なるれ世に披露した鹿屋は、その弾丸のような丈一郎の躍動を受け止めるだけで精いっぱいだった。
頭を前に出し、何とか丈一郎の拳のクリーンヒットを防ごうとするも、今度はバッティングの警告を受ける形となった。
再び両者はリング中央付近で会いまみえるが、鹿屋はクリンチを繰り返すのみだった。
そして何度目かのクリンチの後
――カァン――
“試合終了です”
のアナウンスが場内にひびいた。
両者はゆっくりと拳を下ろすと、それぞれのコーナーへと戻って行った。
「よっしゃ! このラウンド、絶対お前のもんだぜ!」
丈一郎のヘッドギアとグローブを外しながら、真央は丈一郎に声をかけた。
そしてそれを奈緒に渡すと、くしゃくしゃと丈一郎の頭を撫でる。
「すごいよ丈一郎君!」
興奮気味に、ややその瞳を潤ませる奈緒。
一年間、二人三脚で進んできた、同市ともいえる少年がこれほどの成果を上げたのだ。
その心中は察して余りあるものというべきだろう。
「ありがとう」
へにゃっ、いつもの柔らかい、あの丈一郎らしい微笑みがようやく戻った。
「とにかく、アドバイス通りのことはやれたと思う」
「両者、中央へ!」
ジュリーの審査を経た、ジャッジの祭典を確認した後、レフェリーは鹿屋、そして丈一郎をリング中央へと招集する。
「よっしゃ、いって来い」
バンッ、真央はその背中を叩き、手荒く丈一郎を送り出した。
リング中央、レフェリーが鹿屋戸王一郎の方腕をとる。
シィ……ン、先ほどとは打って変わった静寂が会場を包む。
あるものは固唾を飲み、またあるものは寮の拳を握り、そしてまたあるものは祈るようなしぐさをとる。
頃合いを見計らい、場内アナウンスが鳴り響く。
“ただ今の試合の結果――”
丈一郎は目を閉じ、心を落ち着けながらそのアナウンスに耳を傾ける。
すると、スッ、レフェリーの手が一方の腕を持ち上げる。
“――赤コーナー、聖エウセビオ学園、川西君の勝利です”
ドッ、会場がどよめきに揺れた。
「やった!」
桃が小さく右拳を握りしめる。
「やりましたね!」
同じく葵も歓喜の声を上げ、両手を合わせる。
歓声とともに健闘をたたえる拍手の嵐の中、鹿屋、そして丈一郎は微笑みと握手を交わした。
そして、それ曽ぞれが相手のコーナーに足を運び、小さく礼をする。
真央、そして奈緒は惜しみない拍手でそれを迎えた。
自コーナーへ戻って来た丈一郎は、審判、そしてレフェリーに一礼をする。
そして、真央、奈緒、仲間たちの暖かい出迎えの待つコーナーサイドへと降りていった。
川西丈一郎、人生初のボクシング公式戦を、判定の末の勝利という形でその手にもぎ取った。




