3.8 (土)20:00
「さ、真央君、この部屋をしばらく使って」
ガチャリ、奈緒は扉を押し開ける。
「遠慮なんかしなくて、いいんだからね」
その表情は、同居人が増えた嬉しさに、無邪気にこころを高鳴らせてるようにも見えた。
「……お、おぉ……」
奈緒に案内された部屋に一歩足を進めると、真央は身構えた。
それも当然だ。
野生動物が、設備の行き届いた動物園に通されたようなものだ。
「な、なんか落ちつかねーな」
真央が通されたのは一階の奥にある部屋だった。
ベッドがひとつ置いてある以外、家具らしい家具はほとんど置いていない。
しかし傷一つない白い壁紙にかかった抽象画、それだけで慎ましやかな家庭のリビングサイズはあろうかというようなウォークインクローゼット。
高級ホテルのような豪邸の中で、その部屋はまるでスウィートルームのような装いだった。
「本当にいいのか?」
真央はおそるおそるベッドに手を置くと、跳ね返るのは心地よさ。
真央が今まで使用してきた万年床のせんべい布団とは、ティラミスと鬼瓦程の差があるだろう。
「これなんか、ほとんど新品じゃねーか!」
こくり、微笑みながら奈緒は頷いた。
「ほとんど空き部屋同然だったんだから、好きなように使ってね」
「はぁー」
真央はあきれたようなため息を漏らした。
起きて半畳寝て一畳、の真央にとっては全く理解しがたい。
「しっかし、通訳ってのは儲かるもんだな。こんなでかい家建てるくらいなんだからな」
ベッドの上の落ち着かなさに、フローリングに胡坐をかきベッドにもたれかかった。
「んー、どうだろう」
そういうと奈緒は小首をかしげた。
「わたしもよくわからないんだー」
奈緒自身も、子どもの頃から感じていた疑問。
本当に通訳の仕事だけでこれだけの家が建てられるのか、そして親子三人の生活に、これほどまでの広さが必要なのだろうか。
「お母さんってば、家にほとんどいないくせに、こんなでっかい家作っちゃって。桃ちゃんと二人っきりだと、寂しさが倍増しちゃうってのにね」
「そうだよな」
そう言うと学生服の上着を脱ぎ、長そで丈のTシャツ一枚になった。
真央にはしかし、その気持ちだけは理解できた。
たとえ二人きりでも、肩を寄せ合うように暮らしていけば、まだしも寂しさを軽減できたであろう。
このような空間だらけの家では、その寂しさはいっそう際だって感じられるはずだ。
「この部屋だってよ、いつ使うかわからんような部屋、何で作る気になったんだろうな」
「この部屋ね、お母さんがこの家建てるとき、いつ家族が増えてもいいように、って特別に作った部屋らしいんだ。あのね、うちもお父さんいないから」
手を後ろに組んだ奈緒のその表情は心なしか寂しげであった。
「お母さん再婚したときのこと考えてたのかもね。だから、真央君が初めての住人になるんじゃないのかなー」
ケラケラとよく笑う、いつも底抜けに明るく見える奈緒が初めて真央に見せた表情だった。
「そっか」
真央はあえてそっけなく答えた。
真央には女性の気持ちというもの、“でりかしー”というものは理解できない。
しかし、親のいない寂しさは理解できる。
自分自身はとうの昔に慣れてしまったつもりでいるが、まだ精神的に幼く見える奈緒にとって、まだまだ克服しきれない問題なのであろう。
「奈緒ちゃんちも、俺んちとおんなじだな」
生活環境は180度異なっても、しかし置かれた境遇は共通している、真央は少し不思議な感覚を覚えた。
「わたしのうちも、子どものころにお父さんが死んじゃったんだ。桃ちゃんと二人っきりの生活には、この家は広すぎるよ」
ポツリ、と呟く奈緒。
いつも桃といるときは、口にできなかった言葉。
桃に対しては、常にその気持ちを隠してきた気持ち。
「まあでも、真央君ちと違ってお母さんはいるからね。わたしたちはそれだけで十分幸せ」
そういうと小さくガッツポーズをした。
しかし、何年ぶりだろうか、その気持ち、自分の弱い部分を口にすることができた。
それだけで奈緒はこころを安らげることができた。
「よかったな」
真央はその様子を微笑ましく眺めていた。
自分にはきょうだいはいない。
しかしもし存在するとそれば、このような気持ちになるのだろうか、ふと、そんな考えがよぎった。
「それでも、子どもの頃はすっごい寂しかったけどね。なんでうちはお父さん以内の? って泣いてお母さんたちを困らせたこともあったみたいだから」
奈緒に浮かぶ、照れたような笑い。
真央の横に進むと、ベッドに腰掛けた。
「そっか」
真央はベッドに背中をもたれかけさせ、片足の立膝をついた。
先ほどから、相槌しか打っていないな、真央は思った。
そういえば、他人の話にじっくり耳を傾けたのはどれくらいぶりだろうか、真央は思い出そうとしたが、思い出せない。
「俺のお袋はさ、物心ついたときには死んでいなかったから、おふくろの記憶はぜんぜんねー。だから親父との思い出しかねえんだよな」
「わたしは逆。お父さんとの記憶、ほとんどないよ」
と奈緒が答えた。
「桃ちゃんにも、聞けないし」
当然だ。
桃は奈緒にとって、父親代わりであり母親代わりの存在だ。
もし自分が両親の不在に対しその心情を吐露してしまえば、自分が父親の話をすれば、桃は悲しむだろう。
寂しい思いをさせてしまっているのかと、傷つけてしまうだろう。
父親の事を訊ねない、それは、まだ小さい奈緒なりの、精一杯のやさしさだった。
「写真とか、もってねーのか?」
と真央は訊ねるが。
寂しそうに笑いながら奈緒はふるふると首を振り
「ないんだ。“なんで一枚もないの?”って聞いたことがあるんだけど、アメリカから帰国するときに、写真の入ったスーツケースごと紛失したんだって」
ふっ、とため息をついた。
「帰国ってことは……」
真央は額にしわを寄せ、天井を仰ぎ
「奈緒ちゃんは外国で生活してたのか?」
こくり、とうなづく奈緒。
「アメリカで、お母さんとお父さんが結婚して、それで桃ちゃんが生まれたんだ」
「へー、なんかすげーんだな。英語ぺらぺらなのか?」
関心しきりの真央は訊ねる。
「もう全然。あたしは桃ちゃんとは違うから」
苦笑しながら首を振る奈緒。
「アメリカにいたのは、お父さんのこと覚えていないくらい子どもの頃だから。帰国するまでは一緒に暮らしてたんだけど、事故でお父さんが死んじゃってからはすっと日本だよ。」
奈緒の足が、真央の顔の横でパタパタと揺れた。
「真央君も、やっぱり寂しかった?」
「それなりには、ん。まあ、な」
そういうとがりがりと頭を掻き毟る。
真央のこころにも幼い日の記憶が蘇る。
「ガキの頃なんてそんなもんだろ」
奈緒同様、今まで友人たちに対しても、幼い日のことをこれほどまでにじっくり話しをしたことはなかった。
もし話をしていたとしても、これほどまでに自分の気持ちを素直に話すことはなかっただろう。
何故そのような気持ちになったのだろう、真央は自分でもその心境を図りかねた。
「でもね、それがあたしがボクシングを好きな理由なんだ」
とあくまでも明るい奈緒。
「あるときね、お母さんの部屋に入ったら、たくさんポスターが出てきたの。そのときはよくわからなかったけど、古いボクサーのポスターだったんだ」
奈緒は天を仰いだ。
そのときの記憶が、まざまざとこころに思い浮かんでいるかのように。
「お母さんがボクシングファンだって知ったとき、どういうわけか、お父さんの姿と重なっちゃったんだ」
そういうと小さく笑い
「変だよね全然記憶なんてないのに。でも、お父さんが、こういう強い人だったら嬉いなーって思って。だから、ボクサーを見るたびに、どういうわけか、思い出なんてないのにお父さんを思い出しちゃうんだ」
「わかるよ、その気持ち。俺だって……」
そこまで言うと、真央は言葉を途切れさせた。
「あー、っと」
そしてそのもじゃもじゃの頭をわしわしとかきむしり
「やめようぜ、こういう話」
そして奈緒に対し、にいっ、と微笑んで見せた。
「せっかく仲良くなれたんだからさ。しめっぽい話、嫌れーなんだよ」
「そうだね」
奈緒の顔に、いつもどおりの笑顔が戻った。
これからしばらくの間だけれど、家族が1人増える。
しかも、自分の寂しさを理解し、受け止めてくれる人が。
それだけで奈緒は嬉しくなった。
「よっと」
ぷらぷらしていた足をブランコを漕ぎ出すように大きく前へ振り出すと、トンッ、体を翻し、真央を見下ろすような位置にたった。
「わたしね、真央君にお願いしたいことがあるんだ」
「な、何だ?」
真央は戸惑った。
「真央君にしか、頼めないことなの」
そう言うと奈緒は手を後に組み、真央を見つめる。
「い、いやわかったけど、その」
真央の声は震え、その視線は宙を泳ぐ。
「何?」
ニコニコと笑う奈緒。
状況がうまくつかめていないようだ。
「なんでも言ってよー」
「だから、その……」
おずおずと口を開く真央。
「……見えてる……あの、シマシマの……」
そういうと真央は顔を真っ赤にし、おもむろに右手を斜め上前方に指し示した。
「うに?」
奈緒がその指差す方向を見るとそこには……
「いやぁあああああああああああああああ!」
あわててスカートを抑える奈緒。
「いや、ごめ、じゃねーよ! 違うんだって!! わざとじゃねーよ!!!」
真央は両目を力いっぱい閉じながら、あくまでも不可抗力であったことを訴える。
ドタドタドタ、ものすごい勢いで階段から降りてくる音が。
ガチャッッ、そしてまたものすごい勢いでドアが開けられる。
「どうした奈緒!」
桃が部屋に飛び込んできた。
自分は母親代わりであり父親代わりでもある。
たとえこの身に変えても、妹だけはこの手で守らなければならない。
「泥棒でも入ったか!? って……」
桃の目に飛び込んできたのは
「あーん、桃ちゃーん!」
と泣きながら桃に飛びつく奈緒。
「真央君にパンツ見られたーぁ!!」
「あああああ!?」
真央の体は硬直した。
「ちょっと待て!! 誤解を与えるようなことは……」
顔を真っ赤にして首を振る。
「そうなんだ」
その言葉を聞くと、桃はつかつかと真央の下に歩み寄った。
「そんなに女の子のパンツ見たいんだ?」
「へ?」
腕組みをし、首を傾げる真央。
「いや、特にそれに類する欲望は……」
「そう」
にっこり笑うと桃は
ゴッ
桃のすらりとした足が下り曲がり、ギリシア彫刻のような美しいひざが、ベットにもたれかかる真央のこめかみをしたたかに打った。
「あたしのパンツは見えた?」
美しい笑顔とは裏腹の、抑揚のない冷酷な声が響く。
「いや、あんたそもそもGパンだし……」
薄れ行く意識の中で、真央は思った。
ああ、きっとこれがデリカシーの無さに対する報いなのだな、と。




